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2005年12月22日の日記

最後の原告本人尋問

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 12月22日、東京地裁で原告3名の本人尋問が行われました。

 最初に証言台に立った横浜市在住のW.Tさん(女性)は、耐えられず自殺を図るほど養母からひどい虐待を受けましたが、必ず迎えに来るといった母の言葉を信じ養母の家を離れられなかったことや、訪日調査で日本に来たときに自分の母親かもしれないと思われた人が既に亡くなっていたことを知った悲しみなどについて語りました。
 次に証言台に立った千葉県在住のK.Mさん(女性)は、日本語で供述しました。Kさんは中国で学校に通えず、中国語の読み書きさえ十分に出来なかったのに、帰国したい一心で必死で日本語を独学したこと、帰国後、自分が学校に行けなかったため、せめて子どもたちには学校に行かせてあげたいとの思いからパートで収入を得たところ、生活保護費の支給が停止され、その後支給が再開されたものの毎月3万円づつ生活保護費が削られ大変困窮したことなどについて語りました。このことからも、生活保護がいかに「残留孤児」に馴染まない制度であるかが明らかになりました。
 最後に原告団代表の1人である池田澄江さん(写真)が証言台に立ちました。池田さんはご自身の帰国への努力と祖国の冷たい対応、肉親との奇蹟の再会と帰国後の苦難について語られたほか、法律事務所の事務員として就籍申立手続きを担当して1000名を超える「孤児」たちの人生に触れてきたこと、「孤児」たちが団結して裁判に立ち上がった経緯について語り、最後に裁判官に対して、次のように訴えかけました。

「私たちは日本語のできない一番弱い日本国民です。
 大阪判決は、私たち「孤児」に対し、戦争被害だからがまんしなさいと言いました。しかし、私たちは自分の意思で中国に残ったのではありません。しかも、中国では侵略者日本の子として、戦争責任を背負って、苦しくみじめな運命を生きてきました。
 残留孤児は、誰でも自分の本当のことを知りたい。親に会いたい、母の祖国に帰りたい。でも、日本政府は、私たちを捜そう、日本に連れ戻そうとしてくれませんでした。ようやく日本に帰ってきた私たちにとって、日本は、生きていくのに悲しく、苦しい、冷たい祖国でした。
 私たちの残りの人生はもう長くない。せめて祖国で、普通の日本人のように人間らしく生きたいのです。大阪判決のような私たちを裏切る判決をしないで下さい。私たちを救うような、人生を変えるような判決をください。一度でいいから、私たちが帰ってきてよかったと思えるような祖国にして下さい。」

 池田さんが、供述を終えると、自然と傍聴席からは拍手が湧き起こりました。

 これにて、原告本人尋問は終わりました。次回、歴史研究者に対する証人尋問が行われた後、いよいよ、来年5月24日に結審となります。
 来年は「残留孤児」訴訟にとって再決戦の年となります。引き続きのご支援をお願い致します。

〇次回期日は、以下のとおりです。
2006年2月21日(火)午前10時〜午後5時 証人尋問
 ※場所:東京地方裁判所103号法廷
 ※傍聴するには傍聴券が必要です。傍聴券の抽選は午前9時30分

※2005年11月8日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=113
※2005年8月31日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=91