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2006年02月01日の日記

中国「残留日本人孤児」の人間回復の闘いに支えを

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国を訴えた中国「残留日本人孤児」たち

中国で苦難の人生を過ごし、やっとの思いで帰国した中国「残留孤児」は約2400名、その7割を超える人たちが国を被告として裁判を闘っています。何故「孤児」たちは裁判に立ち上がったのでしょうか?


1 中国「残留日本人孤児」は何故生まれたか?(第1の棄民)
 
1932年「満州国」が「建国」されると、国は植民地支配や対ソ連防衛等のため移民事業を国策と位置づけ、1945年までに32万人余りの国民を開拓民として「満州」(中国東北部)に送り出しました。
ところが、1945年8月ソ連軍が満州に侵攻すると、開拓民等を保護すべき日本軍(関東軍)は軍人とその家族等の避難を優先し開拓民等を保護せず撤退しました。また、国は終戦後も在満邦人の現地土着方針をとり、引揚げは大幅に遅れました。
そのため、「根こそぎ動員」により、老人・女性・子どもしか残されていなかった開拓民の避難は悲惨を極め、ソ連軍や日本に土地を奪われた中国人等の襲撃、集団自決、栄養失調、伝染病等により多くの命が失われました。
「残留孤児」はこうして親を失い、離別し、中国人に引き取られた人たちです。「孤児」たちは自分の意志で中国に「残留」したのではなく、国に置き去り(棄民)にされたのです。


2 国に置き去りにされ40年−遅すぎた帰国措置(第2の棄民)

 戦後、国交断絶等により中国からの引揚げが途絶えると、国は1959年に「孤児」を死者として扱うことができる法律を制定し、多くの「孤児」を戸籍から抹消して帰国援助等の政策を放棄しました。
1972年に日中の国交は回復しましたが、国は積極的に「孤児」の肉親捜し等に取り組まず、「孤児」を日本に招いての肉親捜しの訪日調査が始まったのは国交が回復して9年後の1981年でした。しかも、国は「孤児」の帰国に際し身元保証人を要求するなどの制約を課したため「孤児」たちの永住帰国はさらに遅れ、永住帰国が本格化したのは1986年になってからでした。「孤児」たちは、終戦後40年以上も帰国を待たされたのです。
この間、「孤児」たちは中国人の養父母に育てられながら中国の言語、生活習慣等を身につけていきましたが、日本の侵略戦争の責任を一身に背負わされて迫害されるなど少なからぬ「孤児」が中国において苦難の人生を過ごしました。


3 冷たい祖国−不十分な自立支援策(第3の棄民)

 祖国日本を慕ってやっと帰国した「孤児」たちに対する国の対応は冷たいものでした。
国は「孤児」に対し、十分な自立支援策を施すことのないまま、生活保護からの「自立」するよう促しました。そのため、「孤児」たちは日本語も不十分なまま低賃金・重労働な仕事への就労を余儀なくされました。
その結果、「孤児」たちの約9割が今でも十分に日本語を話せません。また、「孤児」の約7割が生活保護を受けざるをえず、悲惨な生活を強いられています。北朝鮮による拉致被害者に対する処遇とは大きな違いです。
「孤児」たちは人並みの老後の保障を求めて国会請願を繰り返しましたが、いずれも不採択に終わりました。そこで、「孤児」たちは、人間としての尊厳を回復するため裁判を決意するに至ったのです。

※年表はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/nenpyou.html

※全国の提訴状況(最新)はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/36.htm

100万人署名にご協力ください

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原告団代表のお願い
東京訴訟原告団代表 池田澄江

 私たち中国「残留日本人孤児」は、1000名以上が団結して、国が長年中国に放置して帰国を遅らせたことと帰国後の支援策が極めて不十分であったことの責任を追及して、東京地裁に裁判を起しています。今年は裁判の結論がでる大事な年です。また、弁護団、支援の皆さんとともに、私たちの要求を実現していくための100万人署名活動を行っています。皆様のご協力をお願いいたします。
 私たちの目標は、「孤児」が普通の日本人らしく生活できることと、すべての人々が平等で、世界中が平和になることです。
 私たち原告団は、自信をもって固く団結し、弁護団や支援の皆さんの支えを受け勝利に向けてがんばっていきますので、一層の暖かいご支援をよろしくお願いいたします。


日本軍の身代わりとして殺された父
田中文治(未判明・1988年帰国)

私はソ連軍が攻めてきたとき5歳でしたが、父母と妹の4人で何日も山野を逃げ回りました。途中で母と妹を見失い、今も会えないままです。やっとのおもいで父と二人が古城鎮という駅に着きましたが、そこで大勢の中国人に取り囲まれ、父は私の目の前で撲殺されました。父の最期の姿は今も忘れることはできません。
父は、戦前中国を侵略した日本軍の身代わりとして殺されたのです。


祖国での人間らしい暮らしを
藤本淑子(未判明・1997年帰国)

私は,幼い頃から母の国を思い続けてきました。肉親探しのため日本政府に何十通もの手紙を書いたのに,何年も返事をもらえず帰国が遅れてしまいました。
職もなく,やむなく生活保護で暮らしていますが,養母の病気見舞いのため中国に行こうとすると,役所から養母の入院証明書を要求されたり,生活費をストップされるなど厳しい制約を受け,とても辛いです。
祖国での人間らしい暮らしを切に願っています。



弁護団長の訴え
東京訴訟弁護団長 鈴木經夫

 国から見捨てられた中国帰国者たちは、救いのない生活を送ってきました。生活保護を受け、近隣から孤立し、その子や孫も適応に苦しんでいます。やり場のない怒りと悲しみで心いっぱいでした。しかし、支援の皆さまのご協力、「孤児」自らの駅頭等での署名活動、60万筆に及ぶその成果は、国への働きかけとなるのはもちろん、「孤児」たちをどれほど勇気づけたでしょうか。
 今「残留孤児」訴訟の原告団と弁護団とは一体となって、勝利に向けて懸命の努力を続けています。戦後60年放置されてきたこの問題を、何としても解決しましょう。皆さん、署名に、支援に、いっそうのご協力をお願いします。



100万人署名にご協力ください

 私たちは、100万筆を目標に内閣総理大臣宛の下記事項を請願内容とする署名活動を行っています。2004年10月には48万筆を内閣府に提出しました。「孤児」に対する国の誤った政策を改めさせるため、みなさまのご協力をお願い致します。

1 国は、中国「残留孤児」に対してとってきた長年の政策の誤りを認め、「孤児」に対して謝罪すること。
2 国は、「孤児」に対し、残された人生を人間らしく生きるにふさわし補償制度を確立すること。


呼びかけ人
石坂啓(漫画家)、井手孫六(作家)、井上ひさし(作家)、永六輔(放送作家)、衛藤瀋吉(東京大学名誉教授)、加藤登紀子(歌手)、小林カツ代(料理研究家)、坂本龍彦(ジャーナリスト)、佐野洋(作家)、ジェームス三木(脚本家)、新藤兼人(映画監督)、曾徳深(横浜華僑総会会長)、ちばてつや(漫画家)、仲代達也(俳優)、なかにし礼(作家)、羽田澄子(記録映画作家)、林郁(作家)、古谷三敏(漫画家)、山崎朋子(ノンフィクション作家)、山田洋次(映画監督)、渡辺一枝(作家)


中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
〒141-0022
東京都品川区東五反田1-13-2
五反田富士ビル5F
五反田法律事務所
TEL/FAX 03-3447-1620


募金口座
口座名
 「中国残留孤児人間回復運動支援基金」
銀行
 東京三菱銀行 五反田支店
 普通預金口座 2076999
郵便局
00130-0-581422

この運動は皆様からの募金で成り立っています。


※署名用紙はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=3