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2005年8月の日記

わたしなにじんですか?−原告本人尋問

8月30日、東京地裁で口頭弁論期日が開かれました。

この日の期日は、7月7日の大阪地裁判決後初めてのもので、冒頭、鈴木經夫原告弁護団長より意見陳述が行われ、大阪判決の誤りを詳細に指摘しました。
(意見陳述の内容はこちらhttp://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/90.htm

この日の法廷では、関東訴訟では初めて、「同時通訳」が導入され、傍聴席の原告の方々が中国語で法廷のやりとりを聞くことができるようになりました。
(中国語訳http://www.geocities.jp/genkokusien/tokyou7.6C.html

その後、千葉県在住のK.Hさん、神奈川県在住のI.Tさん2名に対する原告本人尋問が行われたました。
K.Hさんは、日本での暮らしが始まったばかりのころ火事により全財産を失い途方に暮れていたところ、市役所の職員に、「日本で暮らすことができないなら中国に送り返す」といわれたこと、また、就職した会社が残業代をごまかそうとしたため抗議したところ、「いやなら中国に帰れ、ばか」といわれたことを語り、「中国にいたときは『小日本鬼子(シャオリーベンクイズ)』といわれ、日本に帰ってきたら『中国に帰れ』といわれる。私はどこの国の人ですか?」と述べました。
この日の2名の原告に対する尋問により、「孤児」たちがこれまで被り、また、現在も被りつづけている被害は、大阪判決がいう「不便」、「不利益」ではすまされない深刻なものであることがますます明らかになりました。

憲法研究所のHPでも、レポートされています。
http://www.jicl.jp/now/saiban/backnumber/china_7.html

次回の期日は、以下のとおりです。
 日時:11月8日(火)午前10時〜午後5時
 場所:東京地方裁判所103号法廷
※原告本人尋問を予定しています。
※傍聴するには傍聴券が必要です。傍聴券の抽選は午前9時30分です。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その9)

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8月22日、船は上海に入港し、安達さんはそこで下船して10日間の旅を終えました。

ピースボートに乗船して
     中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告 安達 大成

この度、中国残留孤児、被爆者、中国人戦争被害者三事件グループの一員として船に乗せていただきました。
今回の旅で、一番嬉しかったことは、下は女子高校生から上は六五歳の方まで、私の話に熱心に耳を傾けてくれて、残留孤児に想いを寄せてくれたことです。船の中で本当に多くの人たちとお話しすることができました。
そして、今回の旅で改めて実感できたことは、私たち残留孤児だけではなく、日本の植民地政策、軍国主義の被害者が沢山いることです。
韓国ではソロクトを訪れ、日本の植民地支配下で強制的に隔離され、強制労働をさせられて、手を失ってしまった元ハンセン病患者の方と会いました。
また、丹東から乗船してきたチチハル遺棄毒ガス被害者の丁さんとは同じ船室で、私は丁さんの通訳もしました。私は丁さんにその下半身の傷を見せてもらいました。何故、この平和な世の中で、丁さんのような若い人が、日本軍のために被害にあわなければならないのか?
私は、平和に暮らしている今の若い人たちに二度と私たちのような悲しい思いをさせたくはありません。私は、今回の旅で本当に多くのことを勉強することができました。ここで勉強したことを生かして、これからは、残留孤児の被害のことだけではなく、様々な被害者のためにも行動したいと思っています。
(「法と民主主義」2005年10月号原稿より抜粋)

※「法と民主主義」2005年10月号では、今回の旅について特集致します。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その8-2)

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丁さんは、8月19日に丹東で乗船してから、22日に上海で下船するまで、安達さんと同じ船室で過ごされました。
安達さんは、日本語・中国語の通訳を務められ、日本語の出来ない丁さんに代わって、日本の乗船客に丁さんの被害を訴えました。

※写真は、日本の乗船客からの手紙を中国語に訳してあげているところ

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その8-1)

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8月19日には、チチハル毒ガス被害者の丁樹文さんが乗船されました。

2003年8月4日、黒龍江省チチハル市の団地の工事現場で、旧日本軍が製造・遺棄した毒ガスの入ったドラム缶が発見されました。工事に携わった人々、掘り出されたドラム缶を扱った廃品回収業の人々、掘り返された土が運ばれて来たところの人々と被害は広範に渡り、1名が死亡、43名が病院に運ばれる事態となりました。
丁さんもそのような被害者の一人です。
日本軍が遺棄した毒ガスの被害等については
http://www.peace-justice.jp/ja/
http://www.geocities.jp/dokugas2000/

丁さんは、8月20日には、船内でのシンポジウム“「歴史認識と未来の選択」証言〜日本政府の責任〜”に元日本軍戦時性被害者・李容洙さんとともにパネリストとして出演され、ご自身が受けた被害についてお話されました。

※写真右から2人目が丁さん

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その7-3)

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奉天は旧満州の最大の都市(「満州国」の「首都」は「新京」〔長春〕)です。現在も当時の建物が多く残されていました。

※写真は旧ヤマトホテル
旧奉天市の市街地図と写真等は
http://homepage3.nifty.com/jiangkou/Kiyoshi/shenyang/index.html

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その7-2)

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「九.一八歴史博物館」には、満州移民関係の資料も多数展示されていました。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その7-1)

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「勿忘“九.一八”」

8月19日、船は中朝国境近くの港・丹東に入港しました。
「3事件グループ」の一部は、オプショナル・ツアーに参加し、瀋陽を訪れ、世界遺産である瀋陽故宮博物館、九.一八歴史博物館等を見学しました。

瀋陽は清朝発祥の地であり、旧満州時代には「奉天」と呼ばれていた地です。
1931年9月18日、関東軍は奉天駅北方約8キロの地点にある柳条湖付近の満鉄線を自ら爆破しました(柳条湖事件)。これをきっかけとして、関東軍は軍事行動を開始し、奉天等の都市を占領し、ついには「満州国」の「建国」へと至りました(満州事変)。
柳条湖事件は、「十五年戦争」の発端となった事件であり(ただし、満州事変は1933年の塘沽協定で停戦、日中の全面戦争は1937年の「廬溝橋事件」から)、中国「残留孤児」問題の原点ともいえる事件です。中国では「九.一八事変」と呼ばれ、満鉄爆破地点に「九.一八歴史博物館」が建てられています。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その6)

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8月18日、日韓の乗船者の有志は、ソウルの日本大使館前で共同記者会見を行い、「平和憲法を守れ」とアピールしました。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その5-2)

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その後、「3事件グループ」はツアー一行と別れ、「アリラン・コゲ(峠)」に向かいました。

原告の安達さんは、1933年、当時日本の植民地支配下にあった韓国ソウル(「京城」)で生まれ、3歳までソウルで過ごされましたが、その地で実母を亡くされました。安達さんは、その後、「満州国」(中国東北部)に移られ、そこで、日本の敗戦を迎え1981年まで中国で過ごすこととなったのでした。まさに、安達さんの半生は戦前の日本の植民地政策と切り離せないものでした。

安達さんが幼いころお父さんから聞いた記憶によると、実母のお骨は「ソウルのアリラン山の麓の日本寺院」に納められているとのこと。そこで、「アリラン山の麓の日本寺院」を唯一の手がかりとして、そのお寺を訪ねることとしましたが、地元の人に尋ねてみると、「アリラン山」ではなく「アリラン・コゲ(峠)」であることが判明しました。そこで、アリラン峠に向かい、いくつかの寺院を訪ねましたが、日本寺院を見つけ出すことはできませんでした。しかし、約70年ぶりにアリラン峠を訪れた安達さんは、その地の土を遺骨代わりとして日本に持ち帰り、仏壇に納めることとしました。

※写真はアリラン峠にあった寺院。これが昔、日本寺院であったのかは不明。
「アリラン」については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その5-1)

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8月17日、船は第2の寄港地、韓国・仁川(インチョン)に入港しました。
私たち、「3事件グループ」はオプショナルツアーに参加し、ソウルにあるNGO「参与連帯」、「聖公会NGO大学院」を訪問し、韓国の民主化運動の歴史と現状について伺いました。

※写真は、「参与連帯」元事務所長で、現在NPO「美しき財団」理事の朴元淳(パク・ウォンスン)氏
参与連帯は政府監視活動などオンブズマン活動を活発に行っている市民運動団体で、2000年の韓国の総選挙で「落選運動」を展開したことでも名高い。朴元淳氏は韓国で最も影響力をもつ市民活動家といわれている。
※参与連帯については、「法と民主主義」2000年12月号でも特集が組まれました。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その4-2)

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ソロクトは、日本が韓国を植民地支配していたときに作ったハンセン病療養所ですが、日本国内におけるハンセン病強制隔離政策と同様に強制収容、労働の強制、断種・堕胎等の優生政策の徹底、懲戒検束等の絶対隔離・絶滅政策が行われ、その人権蹂躙の実態は、日本国内の他の国立ハンセン病療養所をはるかに上回る苛酷なものであったとのことです。

日本のハンセン病回復者の方々は、「ハンセン病補償法」に基づき補償金が支給されていますが、日本政府はソロクトに入所されていた方々の請求を拒否したため、現在日本で裁判が闘われいます。

詳しくは、ソロクト・楽生院 補償請求弁護団HP
http://www15.ocn.ne.jp/~srkt/

※写真は断種台
ソロクトでは、日本国内における国立療養所と同様に、結婚の条件として男性に断種が強制され、また妊娠した女性に対しては堕胎が強要されたが、さらに、、懲罰としても断種が行われたという。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その4-1)

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8月15日、3事件グループは独自のツアーを企画し、小鹿島(ソロクト)更生園を訪れました

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その3-2)

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 私たちは、60回目の「終戦記念日」を韓国で迎えましたが、韓国の人びとにとって8月15日は日本の植民地支配から解放されたことを祝う「光復節」。釜山でも、60回目の光復節を祝う式典が開催されていました。

※韓国では8月15日は祝日

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その3-1)

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 8月13日に東京を出港した船は、15日、最初の寄港地韓国・釜山(プサン)に入港しました。

※韓国のテレビの取材を受けるピースボート吉岡共同代表

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その2-2)

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 安達さんは、肉親と離別して1981年に帰国されるまで人生の大半を中国で過ごされました。その間、深夜には家の裏の林畑に行き幼いころ覚えた日本の歌を歌い日本語を忘れないよう努めたといいます。
 ほとんどの帰国者が日本語を話せない中で安達さんは希有な存在です。そのため、安達さんは他の帰国者原告が弁護士と打ち合わせする際には通訳を勤めるなど、原告と弁護士、支援者との橋渡し役としても活躍されています。

 また、厚生労働省の見解によれば、「中国残留孤児」とは終戦時に13歳未満であった者をいうとされるため(その見解の是非は措くとして)、終戦時に12歳であった安達さんは、「孤児」の中でも最年長者です。肉親と離別した状況についての記憶さえない「孤児」が多い中、安達さんは、植民地支配下での軍国主義教育などについてもご自身の記憶に基づいて語ることができる貴重な存在といえます。

 安達さんのお話しは、老若・国籍の別を問わず、多くの乗船客の心をとらえ、安達さんは多くの人々との交流を深めました。

※アメリカ人、中国人、日本人と語る安達さん。
 英語、中国語、日本語が飛び交った。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その2-1)

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 安達大成(だいなり)さんは「終戦の日」を旧満州で迎えた。12歳の中学生だった。ソ連との国境に近い小さな街で、いつものように外で遊んでいた。家に帰ると、母親から「戦争に負けた」と知らされた。えっ、それ何、という感じだった。
 その数日後、ソ連の飛行機が現れた。上空からいきなり機銃で撃たれ、林の中に逃げた。安達さんは「日本では戦争が終わっていたが、私にとっては、この日から戦争が始まったようなものです」と話す。
 まもなく、ソ連軍が街にやって来た。土木技師だった父は数カ月前に病死していた。母と2人の弟とともに収容所を転々とさせられる。その途中で、2歳だった下の弟は、母に背負われたまま死んだ。食べものにも事欠いた。自分がいなければ2人が助かる。そう考えた少年は黙って姿を消した。それが母や弟との長い別れとなる。
 辺境の農場で働き、20代の初めに出会ったのが妻の素子さんだ。素子さんは開拓農民の娘だった。母と一緒にソ連軍の侵攻から逃げたが、母は亡くなり、中国人の養父母に育てられた。異郷で結ばれた2人の残留孤児が母国の地を踏んだのは、終戦から36年後だった。
 旧満州には約150万人の日本人が住んでいた。そのうち、ソ連軍や地元民の襲撃、集団自決、病気などで、約20万人が死んだといわれる。同じ日本人でも、どこで「終戦の日」を迎えたかで、運命は変わった。
 安達さん夫妻はいま、千葉県で月に6万円の年金で暮らす。妻は日本語が話せない。5歳年上の夫は「私が先に死んだらどうなるのか」と心配する。
(2005年8月16日・朝日新聞「天声人語」より)

※写真は、船上で日韓の乗船客にご自身の体験と他の「残留孤児」の生活の実情等を語り、訴訟支援を訴える安達さん。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その1-2)

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 この「コリア・ジャパン未来クルーズ Peace & Green in Asia」は、日本のピースボート(http://www.peaceboat.org/index_j.html)と韓国のNPO『環境財団』が共同で企画・運営をすすめる船旅で、8月13日から8月29日までの間、釜山、仁川(韓国・ソウル付近)、丹東(中国東北部)、上海、那覇、長崎に寄港しながら、東アジアを2週間で回るクルーズです。
http://www.japangrace.com/peaceboat/tour/50/index.html

 中国「残留孤児」訴訟関係者からは、弁護団の田部弁護士、渕上弁護士のほか、原告の安達大成さんが参加し、安達さんは8月13日から8月22日(上海)まで乗船されました。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その1-1)

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 中国「残留孤児」・被爆者・中国人戦争被害賠償弁護団及び関係者は、「戦争被害・戦後補償を考える」をテーマに、お互いに戦争責任・戦後の責任について学びあおうと、学習会や交流を重ねてきました。
(『法と民主主義』2003年12月号)

 そして、「戦後60年企画」の1つとして、
第50回「ピースボート コリア・ジャパン未来クルーズ Peace & Green in Asia」に、「戦争被害・戦後補償を考える3事件グループ」のメンバーが参加しました。

「中国帰国者二世・三世の会」設立総会開催のご案内

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「中国帰国者」関係者のみなさま

ご存じのようにいま「中国残留孤児国家賠償訴訟」が全国的におこなわれています。この裁判を支援するとともに二世・三世の懇親交流などを目的とする「二世・三世の会」が、このたび下記のように設立大会を開催する運びとなりました。ご関心がありましたらぜひご出席お願い申し上げます。

なお、二世・三世以外の方でも、出席が可能で、「副会員」や「協賛会員」として入会もできます。
 
2005年8月20日
「中国帰国者二世・三世の会」設立準備会

     − 記 −
日時: 9月3日(土) 午前9:00−12:00    
場所: 品川第一地域センター区民集会所(詳しい会議室は当日の案内板をご覧ください) 
    北品川3-11-16(下の地図ご参照ください) 
電話: 03-3450-2000
交通: ●新馬場駅から徒歩約3分 ●品川駅から徒歩約15分
    (会場収容人数90人)     
地図:
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.36.48.286&el=139.44.35.599&la=1&fi=1&pref=%c5%ec%b5%fe&skey=%cb%cc%c9%ca%c0%ee3-11-16&sc=3

(以下は「会則」「実施細則」より抜粋)
第2条 目 的
本会は、中国で生れ育った日中両国人の子弟(いわゆる「中国残留日本人二世、三世」、「中国引揚者子女」、「中国帰国者子女」)が、以下の目的を以て結成し、活動する。
(1)相似する出自や生活体験を絆とし、団結して、共に関心をよせる問題について探求し、友情を深め、交流を促進すること
(2)自我及び社会環境に対する理解や認識を深め、自らの自信や能力を高め、歴史的な出自や異文化体験などによってもたらされる諸々の困難を克服し、正当権益の確保と社会的地位の向上を目指すこと
(3)日中両国の文化を備え持つ「二世・三世」の独自性、将来性、潜在能力を最大限に発揮して、多文化共生社会の先駆けや日中両国の架け橋、ひいてはアジアや世界にはばたける人材になり、国際社会に貢献すること。
第4条 活 動
本会は前条の目的を達成するために、主に次の活動をおこなう。
(1)文化交流活動(懇親、交流、会誌刊行、一世への聞きとりと記録、学習会、情報発信など)
(2)経済開発活動(ビジネスアイディア・ツール・情報の交換、人脈構築、共同事業の開発など)
(3)権益擁護活動(裁判支援、行政への政策提言・要請、日本語ボランティア、一世のケア活動など)
(4)その他目的を達成するために必要な活動(就職・進学・言語学習などにおける互助活動など)
会 費  入会金・1000円 年会費(正会員2000円 副会員1000円 協賛会員5000円)

事務局
〒105-0004 東京都港区新橋1-5-5 
国際善隣会館五階
中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告団事務局気付
中国帰国者二世・三世の会(日中之橋)事務局
FAX 03-3574-9312 E-mail ohkubo@tmca.ac.jp
http://spaces.msn.com/members/8888jcbridge/PersonalSpace.aspx?_c=

終戦60周年にデモと座り込み

終戦60周年の8月15日、中国残留孤児国倍訴訟関東原告団によるデモ&座り込みが大々的に行われました。
http://www.geocities.jp/genkokusien/8.15.html
(京都原告団 帰国者二・三世のHP)

さらば戦争!映画祭

 さ ら ば 戦 争 ! 映 画 祭
−人間がはじめたものは 人間がやめればいい−

今年は被爆・終戦60周年。戦争による被害とは?加害とは??
映画祭の企画・運営をとおして、みんなで一緒に考えてみませんか?

この映画祭企画を担っているのは、中国残留孤児・被爆者・戦後補償 3つの国家賠償訴訟の関係者です。
お互いに戦争被害・戦後補償について学んでいるなかで、「終戦60周年である2005年、日本政府にきちんとした責任をとらせ、反省を促すため共同の取り組みをしよう」と、この映画祭を企画しました。

日時・場所など 
11月19日(土) 13:00〜20:00 明治大学駿河台校舎
 リバティタワー2F 1002教室 
  (御茶ノ水駅 下車 徒歩2分)  
11月20日(日) 11:00〜19:00 池袋アカデミーホール B1  
  (JR池袋駅 下車徒歩7分)

上映作品(予定)
*プログラムなど詳細はお問い合わせください。
 入場料は両日とも各1000円です。
「にがい涙の大地から」【監督 海南友子2004年】、
「魔の731部隊」【監督 吉永春子 2005年】、
「あんにょん・サヨナラ」【監督 金兌鎰(キム・テイル)2005年】、
「風が吹くとき」【監督 ジミー・T・ムラカミ 1986年】、
「乳泉村の子」【監督 謝晋 1991年】、
「日本鬼子(リーベンクイズ)」【監督 松井稔 2001年】
等2日間で7〜8本上映予定
朗読劇もあります ⇒「私たち、なにじんですか?」
(残留孤児の体験を語った劇。実際に孤児だった方々が出演されます)

 映画祭スタッフ 大募集!!!
映画に興味がある人、戦争による被害・加害についてまじめに考えてみたい人、みんなで集まってイベントを盛り上げるのが好きな人…いっしょに映画祭を企画・運営しませんか?
まずは、実行委員会をのぞきに来てください!

「さらば戦争!映画祭」実行委員会・軍縮問題研究所 共催
HPはこちら ⇒ http://www.eigasai-60.com

☆出店ブース設けます☆(20日のみ)
ご希望の団体、個人の方は下記連絡先までお問い合わせください。

【連絡先】実行委員会事務局長 吉原雅子 03‐5312‐4827(info@eigasai-60.com)

満州楽土に消ゆ 憲兵になった少年

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中国「残留孤児」国賠訴訟・原告代表相談役である菅原幸助さんの半生を取材した『満州楽土に消ゆ 憲兵になった少年』(神奈川新聞社編集局報道部 編)が神奈川新聞社から発売されたました(1500円+税)。

「満州での大農場経営を夢見た14歳の少年が、
 40年後に気づいた真実。
 それは“贖罪”の始まりだった。」

この本は、神奈川新聞に「かながわ人間劇場」シリーズの第3弾として、2004年9月14日から10月13日まで39回にわたり掲載された記事に加筆・訂正されたものです。

「 井上ひさし氏絶賛!
 掲載中から熟読しておりました。
 このような人物がおいでくださると知って、
 日本人であることに誇りを持つことができます。
 丹念な聞き取り、周到な取材、
 そして平明でありながら品格のある文章。
 取材チームの力に脱帽いたします。」(同書帯より)

http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31574953
http://bookwebpro.kinokuniya.co.jp/imgdata/large/4876453667.jpg

「大地の子になった日本人」、「二つの祖国を生きる」

8月13日(土)午後10時10分〜11時00分(BS1)
NHK BSドキュメンタリー
「大地の子になった日本人」(仮)が放映されます。

[番組案内]
 敗戦の混乱のなかで旧満州、現在の中国東北部に取り残された中国残留孤児のうち、これまでに3500人以上が帰国を果たした。しかし、その一方で、300人以上が中国に残る道を選択した。その多くは、肉親が判明した人たちだが、肉親から、同居を拒まれた者、帰国するよう説得されたが、養父母の面倒をみるために断念した者などさまざまである。
 戦後60年を経た今、彼らは、二つの祖国をどのように自分のなかにおさめようとしているのか。これからどのように中国で生きようとしているのか。
 中国に残る4人の残留孤児を取材、大地のなかで生きる彼らの内面に迫る。
http://www.nhk.or.jp/summer/84.htm


同じく 8月13日(土)午後10時15分〜10時55分
NHKラジオ第一放送で、
「二つの祖国を生きる〜残留邦人家族の戦後60年〜」が放送されます。

[番組案内]
 戦後60年。満州開拓団として中国に渡り、終戦間際の混乱で取り残された残留邦人。これまでに永住帰国した人は、関係者も含めて2万人に達する。しかし、日本での生活は、「夢」とは程遠く困難を極めた。彼らの多くは、今70歳を超える。日本語が満足に話せず引きこもり、生活保護に頼った生活を送る。そんな孤児一世を支えているのが、二世、三世たち。あるものは医師として、またあるものはビジネスマンとして活躍する。「祖国はどこか」そんな悩みを持つ彼らのよりどころは、「家族」。二つの国の狭間で翻弄された残留邦人と、それを支える二世、三世の動きを追い、「二つの祖国に生きる残留邦人家族」の戦後60年を見つめる。
http://www.nhk.or.jp/summer/116.htm