59年前の今日、日本国憲法が公布された。当時私は3歳。物心ついたときには、空気のごとくに当然の存在として日本国憲法があった。私は、時代の子として憲法の精神を受容した。
今考える。私が常識として受け容れた日本国憲法のエートスとは何であろうか。改憲勢力は何を攻撃しているのだろうか。
日本国憲法を貫いているものは、何よりも平和への意思である。アジア太平洋戦争の惨禍を経て再生した国の憲法である以上、当然のことであろう。平和こそ国民の願い、人類普遍の理想。平和こそ人権の基礎。平和・平和・平和‥。徹底して平和を希求する姿勢こそが日本国憲法の真骨頂である。
再び戦争の惨禍を繰り返さないための保障をいかに築くか。それは戦争をもたらした原因を徹底して検証し、反省するところから生まれる。日本国憲法は、戦前の体制における民主主義の過少を、その主たる原因とした。端的に言えば、天皇制こそが、戦争をもたらしたのである。
戦争ともなれば、あるいは戦地に送られ、あるいは銃後で被害を被るのは庶民である。庶民の真意が正確に政策化されれば戦争という愚かな行為はなかったはず。しかし、庶民の意思は踏みにじられ、あるいは天皇制政府の言論統制下にあるマスメデイアに操作され、あるいは臣民としての教育において、軍国主義に加担せしめられた。
天皇制を廃止して民主主義を徹底すること。そうすれば、軍国主義の復活はなく、平和を維持することができる。これが、日本国憲法のエートスではないか。
天皇の権能剥奪も、政教分離も、参政権も、表現の自由も、国際協調主義も、軍国主義復活阻止を意識したものである。天皇の権威による教育、天皇のご意思を魔法の呪文とする権威主義こそが、軍国主義・排外主義の温床であり、天皇の名による聖戦を可能とした。徹底して、天皇を無力化し、人畜無害とすること、これが日本国憲法の立場である。
さらに、日本国憲法は、戦争を廃絶するために、世界に先駆けて戦力の不保持を宣言した。ここに、日本国憲法の人類史的な意義がある。日本は、あらゆる政策遂行に、戦争を選択肢としないと自らの手を縛ったのだ。
憲法制定時と国際環境は変わった。当然のことである。だから、憲法は時代への適合性を失ったであろうか。とんでもない。「今こそ世界に9条の精神を」である。
憲法は、けっして現実に合わせて設計するものではない。国の理想を明示し、国に対してその理想に従った行動をするよう命じる規範である。戦争の惨禍から生まれた日本国憲法の、不戦の理想が輝きを失うことはあり得ない。
改憲を叫ぶ勢力は、「戦力保持は独立国の常識。丸腰では平和を守れない」という。企業活動の世界的規模での展開に伴い、在外邦人や資産を守る軍事行動を求める立場を採る。憲法9条を桎梏と感じ、これの改正を求めることなっている。
「平和は人類共通の理念、そのとおりだ。しかし、平和は相手国との関係ではないか。こちらがどんなに平和を望んだとしても、相手がならず者では素手での平和はあり得ない。軍事力を持ってこその平和ではないか」
この論理は、自国は常に善、相手国は常に悪役で警戒を要する、との前提である。こちらがそのような姿勢であれば、相手だって同じこと。これでは、相互の不信と憎悪の悪循環に陥ってしまう。行き着くところは、核とミサイルとの恐怖の均衡に支えられた危うい平和でしかない。
憲法9条、とりわけその2項の「戦力不保持」「交戦権の否定」が、今改憲勢力からの攻撃の焦点となっている。これを守り抜くことこそ日本国民がなし得る、人類史への最大の貢献である。
この日、平和のありがたさを再認識しよう。平和を築く方策についてよくよく考えよう。そして、平和を守り築く努力をいとわない決意を固めよう。