No.35の記事

怒らずにおられるか

君が代・解雇訴訟の法廷。まずは、志村高校の教員・片山むぎほさんが証言をした。
「高校生は、青年特有の潔癖さで大人の欺瞞を見破る。そして、欺瞞を許さない。教師は生徒に対して、自分の良心に恥じるな、状況に引きずられて良心をなげうつことの言い訳をするな、と教える。その教師が、良心を捨てたら教育という営みは成立しない。だから、日の丸・君が代問題では引くことができない」と証言した。現場にあって悩み決意した人の重い言葉として胸を突くものがあった。

次の証人が、志村高校の堀部元校長。同じ学校で、同じ時期に定年となった原告が事実上の解雇となっているのに、自分はのうのうと嘱託になっている人。それでも、事前の教員の評価は、「ほんとはよい人」「心ならずも、都教委の圧力に屈した人」というようだった。

ところがどうだ。片山証人とは雲泥の差。およそ教育を語る人ではない。完全に都教委の伝声管になりさがった哀れな姿。表では、「都教委の圧力から教員を守りたい」と言いながら、教委への報告書には「厳重な処分・措置を希望する」と書き、代理人から「これは都教委からの指示でこう書かざるを得なかったのだろう」との反対尋問にも、頑として「いえ、自分の判断でそう書きました」

尋問が終わったら、都教委側の指定代理人らに擦りよらんばかりに、「私の今の証言に、ご迷惑をかけるようなことはありませんでしたか」と言っていた。たいした「教育者」だ。彼の頭の中に、教育はない。あるのは「保身」の2文字のみ。

続いて立った小岩高校の藤松校長も同様。どうしてそんなに易々と良心を売り渡せるのか。そんなにも、あなたの良心は、安いのか。片山さんの証言のとおり、高校生はこんな校長の欺瞞を許さないだろう。

この二校長、おそらくは美濃部都政下なら、それなりにボロを出さずに順応した人物だろう。疾風の中での勁草たり得ない。どうして、かくも容易に石原ごときの操り人形と化してしまうのか。

こんな気分で、恒例の「9の日・護憲アピール」の地裁前宣伝行動に参加した。ところが、司法修習生がビラを受け取らない。無表情、押し黙っての明確な受け取り拒絶。来る者、来る者、みんな同じ。なんだおまえたちは。憲法問題に関心がないのか。なんの理想を持って法曹を志望したのか。おまえたちも、保身の殻に閉じこもっているのか。青年特有の正義感や、社会的関心はどこにやった。

あー、今日は怒り疲れた。