何ごとにも作法というものがある。
ブログには、プロフィルを書き込むことが基本の作法とのこと。このブログを書いているのが、いったい何者なのかを読者に明らかにしなければならない。
で、私はどんなプロフィルを書けばよいのだろう。
誰に限らず、人は無限の多面体である。そのどこを明らかにすればよいのか。
国籍・性別・身長・体重・生年月日・運動能力・泳力・生地・学歴・職歴・嗜好・関心・趣味・交友・読書歴‥。どれも、さしたる重大事ではない。考えあぐねて、次の文章とした。
「物心ついたとき、空気とともに日本国憲法があった。
水と空気と日本国憲法とで生きてきた。今や私の体の組成は、タンパク質と日本国憲法である。
日本国憲法の下で仕事ができることを、このうえない人生の幸運と考えている弁護士」
うーん、われながらよいできだ。自己紹介文は、これで必要にして十分。
長く日本人の教養のベースは、四書五経であり漢詩漢文であった。これに、万葉・古今が加わる程度。近代に至って、ヨーロッパの哲学や思想がこれに取って代わる。独・仏・英である。アメリカは教養にはなじまない。
私には、東洋・西洋を問わず、そのような教養の基礎がない。敢えて探せば、日本国憲法である。
人間の尊厳がすべての価値の根元であることを信じて疑わない。尊厳において、すべての人はみな平等である。天皇の尊貴も、いかなる人の卑賤も、ともに絶対に認めない。
人間の尊厳は、当然に自由を要求する。精神の自由、表現の自由。自由を抑制するものとしての、国家権力や社会的強者である企業を規制しなければならない。
個人の人権を擁護するために、すべての社会の仕組みが成り立っている。議会も司法も地方自治も。平和も、民主主義も、学問の自由も、それ自体価値でもあるが、本来個人の人権擁護に奉仕するものである。
人間が作った国家は、個人の自由を抑圧するためにあるのではない。所得を再配分し、弱者に手を差し伸べ、個人の尊厳を全うできない人の後見をすべく役割を果たさなければならない。
ものごころついてから、このことを当然と考えてきた。これが、私の精神の核である。