No.54の記事

圓生に教わる。

このところ、夜な夜な圓生を聞いている。好みではないのだが、さすがに聞かせる。聞き飽きない。
昨日聞いたのは珍しい噺で「遠山政談」。4代目圓生の作だという。今は演る人がなかろうと思う。政談とつくが、お白州場面は出て来ない。この噺は大嫌い。こんな話を平気で演じている圓生も好きになれない。
たまたま、聞く話に「政談」ものが続いた。落語や講談の題に「政談」と付けば、お白州もの。「鹿政談」「唐茄子屋政談」「佐々木政談」「小間物屋政談」‥。大岡政談の類では「三方一両損」「大工調べ」「一文惜しみ」「城木屋」「帯久」など。「テレスコ」も政談ものにはいるだろう。
いずれも、庶民の司法への理想を語ったもの。近代的な訴訟の原則から言えば無茶苦茶ではあるが、形式的に公平な裁きというだけでなく、弱き者・愚直な者に暖かい裁きを、という期待が込められている。鹿政談が、よくできたその典型。もっとも後味のよい噺。
ところで、圓生の日本語の教養に教わることが多い。
「だらしない」とは、元は「しだらない」であったという。「しだら」とは、ことの成り行き・次第・事情をいうだけでなく、物事が引き締まった様をいうのだそうだ。確かに辞書にそう出ている。俗語で「場所」を「しょば」と言い、「タネ」を「ねた」というごとく、「しだら」を「だらし」と倒置して言いならわすうちに、「しだらがない」という意味の「だらしない」だけが残ったという。
ここまでなら感心しない。が、「しだら」の方は、「ふしだら」という言葉に残っている。「ふだらし」とは言わない。そういわれると、あっ、なるほどと感心しきりである。
ナニが面白いかって? いえ、特に面白くもありません。それだけのことでございます。