No.55の記事

都教委幹部の個人責任追及を

久しぶりに風邪をこじらせた。咳が続いて腹筋が痛い。
病を押して、今日は今春の卒業式入学式における「日の丸・君が代」強制問題について原告団との打ち合わせ。
私の提案は、都教委幹部に対する個人責任の追求。
太平洋戦争においてもこの国は一億総無責任。すべて「天皇の命令」ということで個人の責任が糊塗された。天皇自身も、「開戦は余儀なくされたもの。終戦は私の決断」と無責任に平和主義者を装ったのだ。
東京裁判もニュールンベルグ裁判も、このような言い訳は許さなかった。
違憲・違法な「10・23通達」を出し、これを徹底して、教育に不当な支配を及ぼし、精神の自由を蹂躙した者の個人の責任を厳格に追及しなければならない。

以下は、まだ個人的見解である。
都教委は、「控訴によって9・21判決は確定を阻まれている。だから、これまでの方針を変更する必要はない。「10・23通達」は変更しないし、校長の職務命令もこれまでと同様に出してもらう」と言っている。
しかし、そんな形式論で片づく事態ではない。
行政裁量を幅広く認めて、望ましからぬ行政行為にも目をつぶっているのが今の裁判所である。その裁判所が、「10・23通達」とその指導には憲法上到底看過できないとした。起立・斉唱を命じる校長の職務命令に対しては、「重大かつ明白な瑕疵あり」と断じた。この重みを受けとめていただきたい。
上級審の判断を仰ぎたいということでの控訴あっても、少なくとも、「重大かつ明白な瑕疵あり」とされた職務命令を強要したり、違憲違法とされた処分を強行するような乱暴なことは控えなければならない。
それが行政のあるべき姿勢だし、道義であり社会常識でもある。
9・21判決が上級審でも支持される確率は限りなく高い。控訴棄却となり、あるいは上告棄却となって確定したとき、誰がどう責任をとるのか。
9・21判決の前後で決定的に異なるのは、担当者の個人責任である。
この判決の以前には、客観的なには違憲・違法な公権力行使であっても、「主観的には違憲違法とは考えなかった」という弁解が通る余地はありえた。「教職員側の弁護団の指摘はあったが、横山教育長や都教委の法務関係者の意見を信用した。違憲違法なことをしているとの認識はなかった」と言って通るかも知れない。
しかし、9・21判決が、あれだけ明確に違憲違法を言ったあとには、その弁明はもはや通らない。
国賠法上、公務員は故意または重過失ない限り、個人としての責任は問われないが、逆に故意または重過失あれば個人として責任を問われることになる。
東京地裁が判決という形で明確にした警告を無視して、敢えて処分を重ねた者の個人責任は、厳重に問われなければならない。
石原慎太郎知事・木村孟教育委員長・中島正彦教育長・米長邦雄等教育委員、人事局長・職員課長までの個人責任は当然である。
この点は、校長も同じことである。東京都教育委員会・東京都教育庁は、「個人責任を覚悟のうえで職務命令を出せ」と校長に言えるのか。
権力を持つ者が、違法に権力を行使すれば影響は大きい。当然に責任も大きいのだ。自己保身のためにも、判決を尊重して、上級審判決あるまでは、乱暴なことは差し控えるべきだという警告に耳を傾けなければならない。
 われわれは、「10・23通達」とその強制によって生じた被害についての公務員の個人責任を徹底して追及する。そのことが無責任な知事や都教委幹部・校長らの行為によって違憲違法な教育行政がまかり通ることを予防する監督機能を果たすであろうから。

具体的には、国家賠償請求に公務員個人も被告として加えることを検討する。確定判決後には東京都が支払った損害賠償ならびに、「10・23通達」関連で支出された諸経費について、東京都が知事・教育委員会委員長・教育長外の責任ある公務員個人への求償をなすべく、監査請求をし、住民訴訟を提起することを検討する。

このことを事前に警告し、本気で追求しようではないか。