最近の日記

朝日新聞社への申し入れ

「報道・表現の危機を考える弁護士の会」が作成した申入書を持参して、朝日新聞社に要請に出かけた。

今年1月12日付の朝日の「戦時性暴力番組」改変記事で、われわれは「NHK問題」を知った。NHKが自民党筋の圧力に弱いこと、安倍・中川といった強面の政治家がNHKににらみをきかせていることを知った。これはたいへんな事態だと思った。日本のメディアのあり方に危機的を抱かざるを得ない。

ところが、10月1日の朝日の紙面でまたまた驚いた。今度は、「朝日問題」だ。あの貴重な記事について、「理不尽な攻撃から断固守る」というのではなく、取材についての詰めの甘さを反省してしまった。完璧な取材を要求したのでは、協力者以外からの取材はできない。調査報道は不可能だ。これでは権力に切り込めない。

石原慎太郎が308万票を取り、自民党が296議席を獲得するこの時代。憲法の改悪が進み、右翼が跳梁するこの時代に、朝日が権力に屈したらどうなる。第一線記者の意気を阻喪させかねない、このたびの朝日の態度は看過し得ない。

さらに、他のマスコミ各社の態度も解せない。朝日攻撃の尻馬に乗ることは、自らの首を絞めることにつながるとは思わないのだろうか。

そんな思いで午前中に朝日に赴き、午後は記者会見に臨んで、「緊急声明」を発表した。あらためて問題の重要性を噛みしめている。

なお、会の「申し入れ」と「緊急声明」は、当サイトの「ひろば」欄に掲載する。

東京地裁627号法廷で 

渡邉修孝さんの代理人として、裁判所と被告国に申し上げる。

被告・国は、反訴をもって、原告渡邉にバグダッドからアンマンまでの航空券購入費と、アンマンから成田までの航空券日付変更費用の立替金計2万3576円の支払いを求めている。しかし、原告はその支払いの根拠とされる委任契約は成立していないものと考えているし、そもそもその支払い請求が、「自己責任論」バッシングに悪乗りした、不公平な取扱いと主張している。

被告・国は、不公平な取扱いをしたものでないという根拠として、今回乙18号証を提出した。2004年6月29日付の「犯罪や危難等に遭遇した日本国民に対する保護や援助にかかる費用の求償に関する答弁書」と題する内閣総理大臣の国会質問答弁書である。

これによると、消防・警察・自衛隊の国民保護の活動に関して「これらは、いずれも本来的に各機関が行政としての責任を果たすべき業務として行っているものであり、保護や援助を受けた国民に対してその活動に要した費用を請求することは想定されておらず、これまで当該費用を請求した事例は承知していない」と言っている。

また、「海外における我が国の国民の生命及び身体の保護等の事務の遂行に当たって、政府が要する経費については、これをその者に請求することは想定されておらず、政府が負担することとしている」とも原則を述べている。

まことにもっともで、常識的な理解と一致した政府見解である。本件渡邉の場合も、「本来的に在外大使館が行政としての責任を果たすべき業務として、被告が危難からの「救出」「保護」という公法上の責務を遂行したものであって、保護や援助を受けた原告に対してその活動に要した費用を請求することは想定されていない」のである。

国が、乙18を持ち出した趣旨は、「我が国の国民が海外で、危険に遭遇した場合、緊急事態において国民の輸送にチャーター機を利用する場合は、原則として正規のエコノミークラス料金分の負担を当該国民に求めており、平成11年以後、政府チャーター機を利用した例は3件あるが、いずれの場合にも後日支払を受けている」という個所の援用である。

このような事実は、まったく国民に知られていない。「我が国の国民が海外で、危険に遭遇し、緊急事態において国民の輸送にチャーター機を利用する場合」が、大きな話題とならないはずはないが、一般人にはどの事例であるか見当もつかない。本件に先例として引用するにふさわしい事例であるのか否かもまったく分からない。

いかなる事例について、どのような顛末であったかを明示せずに、自己の主張の挙証に有利な事例として引用することはまことにアンフェアである。事例の特定と経過の詳細を明示されたい。

なお、乙18は、政府チャーター機を利用した3例について、「いずれの場合においても、あらかじめ負担について了解を得て、後日支払をお願いした」と言っている。費用負担について明示の合意があったとすれば、格別に問題はない。いうまでもなく、本件渡邉の事例はチャーター機を調達したものではなく、事前の費用負担の合意も欠く。被告の主張との関連性について明らかではない。

かねてから、原告は国に対して、釈明を求めてきた。
これまでの在外邦人を危難から救出した典型例について、帰国費用の負担をどのように処理をしてきたのか。また、今回の乙18号証が引用している事例ではどうだったのか。これだけ、不公平取扱いの疑惑が濃厚だと主張しているのに、どうして疑惑を晴らそうとしないのか。すべての資料は国の手にあり、提出に差し支えの事情も考えられないではないか。釈明に応じることこそ、行政の透明性を確保し、説明責任を全うする所以ではないか。このような事態で、飽くまで釈明に応じられないのでは、不公正に取扱いあったことを事実上認めるに等しいと言わなければならない。

是非とも、公益の代表者にふさわしい態度をもって、次回までには誠実に釈明に応じられたい。

朝日は権力に屈するな 

本日、報道・表現の危機を考える弁護士の会(略称LLFP)の緊急会合。朝日の10月1日付「詰めの甘さ反省」記事に危機感を募らせてのこと。貴重な情報交換が行われ、様々な意見が出た。

共通の認識は、本来はNHKの権力迎合体質が問題だったはずが、朝日の取材問題にすり替えられて来ていること。わざとかうかつか、この動きに乗っている朝日自身の態度も批判に値する。同調する他のマスメディアにも警鐘を鳴らさねばならない。

朝日が委嘱した報道検証委員会の「見解」の内容と、朝日の対応には乖離がある。分けて考えねばならない。「見解」の結論は、1月12日の朝日の記事の評価に重点がある。記事の真実性は、細部にわたっての完璧を求められるものではない。それでは記事が書けなくなる。とりわけ、権力を批判する内容の記事は紙面から消えてしまう。重要な部分において、真実であればよい。その点、当該の朝日の記事に何の問題もない。

ジャーナリズムの第一義的任務は、権力に対する監視である。権力を持つ者に対して友好的な取材などできるはずもない。いかにして切り込み、いかにして尻尾をつかむか。ギリギリのきわどい努力の中から、貴重な事実が浮かび上がり、記事が生まれる。各紙の論調のように「十分な取材」を過度に要求することは、第一線に立つ記者を萎縮させることになる。権力を持つ者の思う壺ではないか。

「安倍・中川がNHKに事前の圧力をかけ、その結果番組が改変された」という朝日の本件報道の主たる事実の真実性に揺るぎはない。この報道の意義と、NHKの体質をこそ論ずべきが、いったいどうした。日本のジャーナリズム。

緊急に声明を出すこととなり骨格はできた。まず、朝日への批判を。そして、「詰めの甘さ反省」に同調する全マスコミにも批判をしようと言うことになっている。

寛容についての学習会  

明治大学の土屋恵一郎教授をお招きしての予防訴訟弁護団学習会。氏は、法哲学者として、明治大学法学部で教鞭を執っておられる。

予防訴訟の準備書面(5)で、氏の『正義論/自由論−寛容の時代へ』(岩波現代文庫、2002年)から下記の引用をしている。

「多様な価値観が共存していることが、社会の豊かさと対話を可能にする、とリベラリズムは考える。社会が硬直して、特定の宗教や、宗教的イデオロギーそのものを排除しようとする動きが生まれるとき、その社会は、宗教だけではなく、他の異質なものを社会から排除することに、なんらの疑問をもたなくなる。

同質な社会を求めることは、いうまでもなく、リベラリズムが求めるものではない。それは、ファシズムの到来を意味している。ファシズムは、つねに、社会全体の利益のために、社会の異質なものをあぶりだして、それを追放しようとする」

「私たちは、この社会が、宗教、思想、信条の多様性によって成り立つことを求めるのだ」「国家とは、この自由の条件を保証する存在であって、それ自体がなんらかの宗教、思想をかかげるものではない」「複数の思想、価値の存続を認めることは、自分の思想、価値の存続に意味を認めることと同じである。他者の自由は自分の自由とつながっている。‥そこには、正統も異端もありえない。そもそも、正統という観念が自由な社会には存在しないからである。‥どちらもが、相手の存続そのものを認めないとしたならば、その絶対的な対立のなかで、社会は崩壊する。イギリスにおけるアイルランド問題、ボスニアの民族戦争が、その典型である」

寛容とは、自分あるいは自分たちとは異質な思想を受け入れ共存する精神である。本日の氏の報告も、価値の多元性・多様性を認め合うこと、自分と異なる他者の差異性を否定的に評価しないことが寛容であると説かれた。社会的同調圧力や権力的統制がその対立物である。

さて、問題はここから始まる。何をもって、寛容の重要性を基礎づけるか。なにゆえに、寛容でなくてはならぬと論証するのか。寛容とは、権利性を認めることと対になる概念ではないのか。だとすれば、権利を主張することと、寛容を説くこととの差異はどこにあるのか。

端的に言えば、「日の丸・君が代強制拒否は憲法上の基本的権利である」と主張することと、「権力の側は、日の丸・君が代問題について寛容でなくてはならない」と説くこととの間に差異があるのか。いや、寛容論からのアプローチに、権利論からのアプローチを凌駕する積極的な意味があるのか、である。

個人の尊厳が、ものを考える出発点である。一人ひとりが、個性を持ったかけがえのない存在である。当然にそれぞれの思想良心の自由を持つ。その個性の尊重を、全体の利益から演繹することはできない。国家・社会にとっても、寛容は有用であり有益なのだ、と言うことは無意味な説示である。

そして、公理としての個人の尊厳を、基本権として構成する以上に、社会や権力の側に寛容を説くことの実益や優位性は、私には容易に見出しがたい。

寛容論。その位置づけは、私にとって、まだ定まらない。

11・18憲法集会 

郵政選挙に大勝した自民党は、当初11月15日に予定されていた立党50周年党大会を22日に延期した。天皇の長女の結婚式とのバッティングを避けるためというのがその理由。この党大会で、「自民党・新憲法草案」を正式に発表することになる。報道によれば、草案の内容はその以前10月28日にマスコミに明らかにするという。

既に8月1日条文化した形で「新憲法一次案」が公表されている。これに付けられる前文も、7月7日の「要綱」で骨格は明らかにされている。ほぼ予想は付くものの、あるいは296議席の傲りが、より本音を出すことになるのかも知れない。

しかも、民主党前原体制も、改憲そのものに反対する構えはない。改憲阻止のためには、国民運動の盛り上がりをつくり出すほかはない事態だ。

各地・各界に「9条の会」設立が盛んだ。既にその数、3000に及ぶという。しかし、法律家全体を糾合する改憲阻止の会はない。日弁連は憲法の理念尊重を宣言してはいるが、全員加盟組織の限界あって、「改憲反対」と言うことは困難である。

そこで、法律家の過半数が改憲阻止の意思表示をする運動をつくりたい。日民協や、自由法曹団・青年法律家協会会員だけではなく、もっと幅を拡げた運動を。憲法の解釈について違う意見の人とも一緒になって、明文改憲阻止の一点で連帯する大きな運動を。

そのような問題意識を持つ者が、これまで会合を重ねてきた。で、まずは、自民党改憲草案を批判の討論集会を企画した。

集会の名称は、「自民党の新憲法草案を考える‥弁護士の集い」。日時は、11月18日(金)午後6時から。弁護士会館内で。基調講演は、山内敏弘教授。そして、改憲案の問題点について意見交換し、改憲情勢をどう見るか、法律家としてこれから何をすべきかを話し合う集会としたい。

ここを起点に、大きな風よ、起これ。

NHK番組改変問題でさらに本質究明を 

NHKの番組改変問題報道での、朝日の「見解」発表に驚いた。

政治家の圧力によるNHK番組改変が問題なのだ。安倍晋三ら政治家の圧力の有無が検証の対象であり、日本のメディアの健全性や、NHKという巨大メディアの仕組みこそが糺すべき問題の本質であった。

それが、いつの間にか、朝日の取材姿勢問題にすり替えられてしまっている。4人の委員会の見解を承けても、朝日にはもっと別の選択肢があったはずと思う。朝日腰砕けの感を否めない。危機感を覚える。

朝日の報道は真っ当な問題提起をした。朝日がこれで幕引きとしても、問題提起を受けて報道の自由を求める声を上げた市民が、その声を納めることはあり得ない。むしろ、朝日を乗り越えて、問題の本質を訴える声を上げなくてはならない。

歯がゆいのは、朝日が取材テープの公開をしないこと。テープの社外流出で、不必要に卑屈になっていること。実務法律家の感覚では、開き直って全部テープを公開すればよい。私たちの関心は、安倍や中川の生の声から、どこまでの圧力の存在を推認することができるかだ。今さら、テープは出せないとする理由が理解できない。記事の当不当もテープを聴いた読者の判断に任せればよいではないか。

私は、他人に視聴料の不払いを勧めたことはない。NHK内部で誠実に番組作りをしている職員の存在を評価しているから。しかし、NHKトップは反省が足りないと思う。それでいて、不払いに法的措置とは本末転倒。法的措置には、対抗措置を考えなければならない。

「朝日問題」でない。飽くまで、「NHK問題」なのだ。

大阪高裁の靖国参拝違憲判決  

昨日は東京高裁の判決。今日は大阪高裁の判決。昨日は曇り、今日は快晴。素晴らしい判決となった。冬景色にはまだ早いが、明らかに西高東低。小泉靖国参拝に関して、これが2件目の違憲判断。

首相の靖国神社参拝が違憲か合憲か。そんなこと、今さら論じるまでもない。市立体育館の起工式に神主を呼ぶことだの、知事が玉串料を奉納するだの、忠魂碑の移設費用を負担するだのというレベルとは、二桁も三桁も重大性が違う。日本国憲法下の国家が、軍国主義・排外主義に国民精神を総動員する舞台装置だった靖国神社と、いささかの関わりも持ってはならない。そのための、憲法20条であり、政教分離原則ではないか。

首相の参拝を合憲とする判決など、ありうべからざるものである。問題は、違憲違法と宣言する判決が出せるかどうか。その宣告には、裁判官の勇気が必要だ。決断するか、逃げるか。逃げるのは容易だ。決断には苦汁が付きまとう。

東京高裁・浜野裁判長は逃げた。大阪高裁・大谷正治裁判長は逃げずに決断した。知らなかったが、両者とも私と同じ23期の修習を経ている。あの紀尾井町のオンボロ研修所で同じ時代の空気を吸った500人の仲間のうち。あの時代の垢をすっかり落としてしまったか、浜野さん。まだよく残していたか、大谷さん。

論点は三つ。まず、小泉純一郎は内閣総理大臣としての公的資格において職務行為として参拝したか。次いで、公的資格における参拝であるとすれば、その行為が憲法原則である政教分離に反して違憲違法とならないか。そして、違憲違法であれば、当該違法行為によって原告らに損害を与えていないか。

大谷判決は前2者を肯定し、最後のハードルで請求を棄却した。原告らの提訴の目的は十分に達せられた。高裁レベルで、これだけ明白な違憲判断がなされたのは、1991年1月10日の仙台高裁・岩手靖国訴訟判決以来のこと。判決が具体的に小泉参拝の態様に言及して違憲と言っているだけに、影響は大きい。

報じられているところでは、判決は、「(1)参拝は、首相就任前の公約の実行としてなされた(2)首相は参拝を私的なものと明言せず、公的立場での参拝を否定していない(3)首相の発言などから参拝の動機、目的は政治的なものである――などと指摘し、「総理大臣の職務としてなされたものと認めるのが相当」と判断した(毎日)、と言う。記帳・公用車・秘書官の同道だけでも、公務性の認定は十分であろう。

あとは、目的効果基準の使い方次第である。この基準、実は政教分離原則を限りなく緩やかに解釈するために発明された。ところが、同じ物差しも使い方次第で厳格解釈だってできるのだ。判決文中には、「国内外の強い批判にもかかわらず参拝を継続しており参拝実施の意図は強固だった」という一文があるそうだ。「国は靖国神社と意識的に特別のかかわり合いを持った」と指摘。「国が靖国神社を特別に支援し、他の宗教団体と異なるとの印象を与え、特定の宗教に対する助長、促進になると認められる」との結論となった。憲法20条3項の違反である。

公式参拝は違憲だが、原告らの損害賠償請求は棄却された。「首相の参拝が原告らに対して靖国神社への信仰を奨励したり、その祭祀に賛同するよう求めたりしたとは認められない」から、原告らの損害はない、との判旨だという(朝日)。反対解釈として、「首相の参拝が原告らに対して靖国神社への信仰を奨励したり、その祭祀に賛同するよう求めたり」という契機を有していれば、慰謝料請求も可能と示唆している。

各紙が、お定まりの右翼コメンテーターを登場させている。口を揃えて「傍論での違憲判断は不当」と言っている。が、そんなことはない。原告が指摘した行為の法的性質を十分に解明するのは、裁判所本来の役目。原告の主張の、どこが理由あり、どこが理由ないのか、丁寧に明らかにすることはむしろ裁判官の職責である。

ぶっきらぼうな結論だけの判決は説明責任の放棄であり、そのような態度からは司法への国民の信頼は生まれない。できるだけ丁寧に、結論に至った理由を説示することが大切ではないか。裁判所がその良心に従った判断を国民に示すことこそあるべき本来の裁判官の姿。

小泉さん、この判決をとくとお読みいただきたい。おごらず、謙虚な姿勢で。

「公的参拝であれば違憲」ー靖国高裁判決 

本日、東京高裁で「小泉靖国参拝違憲・千葉訴訟」に判決。控訴棄却であったが、浜野惺裁判長は、判決理由で「参拝が首相の職務行為として行われたとすれば、政教分離を定めた憲法で禁止されている『宗教的活動』に当たる可能性がある」と言った。しかし、1審千葉地裁判決では認めた職務行為制を否定して、原告側の請求を斥けた。

1審判決は、小泉参拝の職務行為性を認めたが、憲法違反とは言わなかった。2審判決は、「職務行為性が認められれば憲法違反」との一般論を展開しながら、職務行為性を否定した。両方とも、違憲論にかすっている。2審の一般論と1審の職務行為性肯定論を合体すれば、違憲判断となる。惜しい、ところ。

あらためて、職務行為性認定の要件をどう建てるかが、問題となりそうだ。判例上の基準ではないが、かつて三木内閣のときに公式参拝4要件論があった。@閣議決定の存在、A肩書き記帳、B公用車の使用、C玉串料の公費負担、である。少なくとも当初は、このうちひとつでも該当あれば公的参拝だとされたもの。

千葉地裁一審判決は、A肩書き記帳とB公用車の使用の2点から、公務性を肯定した。同じ事実認定で、東京高裁はこれだけでは公的参拝と言うには足りない、とした。政教分離原則にたちかえっての公的参拝要件論を構築せねばならない。

興味深いのは、職務行為性否定の論拠として、「職務行為と受け取られることを避けるため、8月15日の参拝を断念し13日にした」と指摘していること。裁判所からのメッセージとして、こんな手があったか。

一連の小泉参拝訴訟のうち、これが高裁判決の2件目。30日に大阪高裁、来月5日には高松高裁でも控訴審判決が言い渡される。それぞれが少しずつ異なる論点を提示するものとして、注目される。

野中広務氏の憲法感覚  

日弁連の人権大会・憲法問題シンポジウムの実行委員会に出席して、昨日撮影された野中広務氏のインタビュー・フィルムを視る。未編集のもので、15分を少しオーバーする。これを、5分余に編集して、「各界からの意見・ビデオレター」として、シンポジウム会場で、放映することになる。

旧田中派の番頭役、与党幹事長あるいは官房長官として、長く政権の中枢にあった人。極めつけは99年国会での国旗国歌法成立の立役者である。私が、よい印象を持てたはずはない。ところがどうだ。議員引退後の、現政権の危うさを指摘する発言には刮目せざるを得ない。時代の座標が大きく推移したということなのだろうか。以下発言の要約。

「アメリカとの友好関係の大切さは当然として、日本は地政学的に一衣帯水の北朝鮮・韓国・中国との良好な関係を保つことが極めて重要だ。そのためには、日本が過去に背負った責任と向かい合わなければならない。私は、子どものころに、朝鮮からの労働者をムチで叩いて働かせている現場を見ている。また、南京事件の現場に、かつての日本兵と同道してもいる。その立場からは、A級戦犯を合祀したままの靖国神社参拝には問題がある。A級戦犯の合祀は昭和53年。すぐには公表せず、54年に公表した。当時の松平宮司のしたこと。以来、天皇の靖国神社参拝はない。日本は講和条約で、東京裁判を認める立場を明らかにしているのだから、戦犯を神として祀る神社に参拝はできない。講和条約をもっとも尊重しているのは天皇家ではないか」

「私も自民党員だが、今、結党50年ということで憲法改正などと大騒ぎする時期ではなかろう。憲法9条あればこその戦後の平和であり繁栄だと思う。私は、専守防衛の自衛隊を認知した上で、海外での武力行使には歯止めをかけるべきとの意見を持っている。勇ましく、これを軍隊とせよとか、国防省を設置せよということには賛成しがたい」

「私ももうすぐ80歳になる。その目から見て、今の政治状況は、大政翼賛会の時代を超えている。与党勢力で3分の2以上というのは、民主主義の危機と言わざるを得ない。もっとバランス感覚が必要だ。煽ったマスコミも悪いが、結局は国民の責任。歴史教育で、縄文や古代を教えても現代史を教えないことが問題。少なくとも、昭和史をしっかりとつかむことが大切だ。過ちを繰り返さないために」

衒いもなく、淀みのない発言ぶり。言っていることに全面賛成とは言えないが、うなずけることがことが多い。この人のバランス感覚が、かつての保守政権のスタンダードであった。このような見解と、共闘できなくては、と思う。

「日の丸・君が代」強制がねらうもの  

明日、「許すな!憲法改悪・市民連絡会」が主催する、市民憲法講座の講師を務める。タイトルは、「日の丸・君が代強制がねらうもの」。今日は、たまたま何の予定も入っていない秋分の日。何をお話ししたらよいのか考える。

改憲のねらいは、単に9条だけにあるのではない。国家を丸ごと造りかえ、国家存立の原理を根底から変更することにあるのではないだろうか。戦争を起こすことが、支配層の自己目的であろうはずはない。戦争も「国益」追求の一手段にすぎない。選択肢として、戦争という手段もとりうる国家にしておきたいということなのだ。また、戦争という大事業を遂行するためには、9条改正という法文をいじるだけで足りるはずもない。9条を変えるねらいの先に、国家大改造の目的がなければならない。

では、いったいどのように国家を造りかえようとしているのだろうか。基本は支配層の利益の最大限化を実現する国家である。換言すれば、支配層の利益追求に国民を奉仕させる国家といってよいのではないか。この国の主人である、内外の大資本が、思うがままに利潤追求のできる国家。その利益を擁護し、その妨害を厳格に排除する国家。
場合によれば、武力の行使も、戦争も辞さない強力な国家。

いま、日本社会の諸矛盾の激化があり、経済成長への自信喪失の時代である。グローバリゼーションの世に、メガコンペティションを乗り切るための、なりふり構わぬ新自由主義・新保守主義の路線を突っ走らなければならない。
そのための、「構造改革」であり、軍事大国化なのだろう。日本国憲法はその路線を走るための障害となってきたのだ。

そのような国家改造のためには、国家に従順な国民を作らねばならない。そのためには、短期的にはメディアの統制が必要であり、長期的には教育が最大のターゲットとなる。さらに、国民の運動を押さえ込まなければならないのだから、治安対策が必要だ。

国策に従順な国民をつくるための何よりの道具が、「愛国心」である。国民より国家が優先することをたたき込め、そのために憲法前文に「愛国心」を書き込もう。「日本の歴史・伝統・文化」「美しい国土」も必要だ。憲法だけではなく、教育基本法・学習指導要領でも、愛国心教育を明記しよう。

こうして、教育の目的を根本から転換する。つまりは、「人格の完成」から「国家・社会に有為の人材育成」作りにすり変えられる。一握りの創造的エリートと、従順な大多数をつくる教育が、ともに人材育成の観点から実行される。

9条改正は、違憲の既成事実が積み重ねられた末に行われようとしている。教育の現場にも、既に改憲先取りの現実がある。それが、「日の丸・君が代」の強制。国家改造プログラムに、ここまでは許せる、ここを超えたら立ちあがろうという「許容線」はない。常に抵抗が必要である。

「日の丸・君が代」強制は、国家を国民に優先するものとして位置づける教育の象徴であり、権威主義・管理主義の象徴でもある。学校の主人公は子ども・生徒ではなく、国家なのだ。また、「日の丸・君が代」強制は抵抗者をあぶり出し弾圧する踏絵でもある。

彼らは、考えている。ここさえ、突破できればあとは思うがままに何でもできる、と。だから、「日の丸・君が代」強制に抵抗することは、国家主義への抵抗であり、人間の尊厳を回復する運動であり、子ども・生徒を主人公とした教育を実現する運動でもある。教育ファシズムとの対峙と言ってもよい。