日記

祝・盛岡商業全国優勝

高校サッカーの中継を初めて見た。岩手県立盛岡商業が出場した決勝戦。見ていて面白い、レベルの高い試合だった。そして、盛岡商業が逆転で2−1の勝利。全国優勝。
規模の大きくない県立の高校で、地元の生徒ばかりで全国優勝というのが素晴らしい。決勝の対戦相手となった津山の作陽高校も、私立だが規模は大きくない。
私自身は盛岡商業の出ではないが、故郷の高校の活躍は、何となく誇らしく嬉しい。
故郷・郷土を愛する心と愛国心。同じものなのだろうか、どう違うのだろうか。
昨年暮れの毎日新聞「記者の目」欄に、鳥取発の記事があった。
県内の大学生のアンケートでは、「愛国心と愛郷心は異なる」という意見が6割だったそうだ。
鳥取を選挙区とする石破茂氏が「故郷に戦力がないのが決定的な違い」と言い、「愛郷の延長には家族があり、愛国の延長には天皇がいる」という学生の声を紹介していた。この記者も、「言い得て妙と感じた」としている。
自然発生的な愛郷心を、人工的な作為芬々の愛国心にすり替えさせてはならない。ご用心、ご用心。

都教委幹部の個人責任追及を

久しぶりに風邪をこじらせた。咳が続いて腹筋が痛い。
病を押して、今日は今春の卒業式入学式における「日の丸・君が代」強制問題について原告団との打ち合わせ。
私の提案は、都教委幹部に対する個人責任の追求。
太平洋戦争においてもこの国は一億総無責任。すべて「天皇の命令」ということで個人の責任が糊塗された。天皇自身も、「開戦は余儀なくされたもの。終戦は私の決断」と無責任に平和主義者を装ったのだ。
東京裁判もニュールンベルグ裁判も、このような言い訳は許さなかった。
違憲・違法な「10・23通達」を出し、これを徹底して、教育に不当な支配を及ぼし、精神の自由を蹂躙した者の個人の責任を厳格に追及しなければならない。

以下は、まだ個人的見解である。
都教委は、「控訴によって9・21判決は確定を阻まれている。だから、これまでの方針を変更する必要はない。「10・23通達」は変更しないし、校長の職務命令もこれまでと同様に出してもらう」と言っている。
しかし、そんな形式論で片づく事態ではない。
行政裁量を幅広く認めて、望ましからぬ行政行為にも目をつぶっているのが今の裁判所である。その裁判所が、「10・23通達」とその指導には憲法上到底看過できないとした。起立・斉唱を命じる校長の職務命令に対しては、「重大かつ明白な瑕疵あり」と断じた。この重みを受けとめていただきたい。
上級審の判断を仰ぎたいということでの控訴あっても、少なくとも、「重大かつ明白な瑕疵あり」とされた職務命令を強要したり、違憲違法とされた処分を強行するような乱暴なことは控えなければならない。
それが行政のあるべき姿勢だし、道義であり社会常識でもある。
9・21判決が上級審でも支持される確率は限りなく高い。控訴棄却となり、あるいは上告棄却となって確定したとき、誰がどう責任をとるのか。
9・21判決の前後で決定的に異なるのは、担当者の個人責任である。
この判決の以前には、客観的なには違憲・違法な公権力行使であっても、「主観的には違憲違法とは考えなかった」という弁解が通る余地はありえた。「教職員側の弁護団の指摘はあったが、横山教育長や都教委の法務関係者の意見を信用した。違憲違法なことをしているとの認識はなかった」と言って通るかも知れない。
しかし、9・21判決が、あれだけ明確に違憲違法を言ったあとには、その弁明はもはや通らない。
国賠法上、公務員は故意または重過失ない限り、個人としての責任は問われないが、逆に故意または重過失あれば個人として責任を問われることになる。
東京地裁が判決という形で明確にした警告を無視して、敢えて処分を重ねた者の個人責任は、厳重に問われなければならない。
石原慎太郎知事・木村孟教育委員長・中島正彦教育長・米長邦雄等教育委員、人事局長・職員課長までの個人責任は当然である。
この点は、校長も同じことである。東京都教育委員会・東京都教育庁は、「個人責任を覚悟のうえで職務命令を出せ」と校長に言えるのか。
権力を持つ者が、違法に権力を行使すれば影響は大きい。当然に責任も大きいのだ。自己保身のためにも、判決を尊重して、上級審判決あるまでは、乱暴なことは差し控えるべきだという警告に耳を傾けなければならない。
 われわれは、「10・23通達」とその強制によって生じた被害についての公務員の個人責任を徹底して追及する。そのことが無責任な知事や都教委幹部・校長らの行為によって違憲違法な教育行政がまかり通ることを予防する監督機能を果たすであろうから。

具体的には、国家賠償請求に公務員個人も被告として加えることを検討する。確定判決後には東京都が支払った損害賠償ならびに、「10・23通達」関連で支出された諸経費について、東京都が知事・教育委員会委員長・教育長外の責任ある公務員個人への求償をなすべく、監査請求をし、住民訴訟を提起することを検討する。

このことを事前に警告し、本気で追求しようではないか。

圓生に教わる。

このところ、夜な夜な圓生を聞いている。好みではないのだが、さすがに聞かせる。聞き飽きない。
昨日聞いたのは珍しい噺で「遠山政談」。4代目圓生の作だという。今は演る人がなかろうと思う。政談とつくが、お白州場面は出て来ない。この噺は大嫌い。こんな話を平気で演じている圓生も好きになれない。
たまたま、聞く話に「政談」ものが続いた。落語や講談の題に「政談」と付けば、お白州もの。「鹿政談」「唐茄子屋政談」「佐々木政談」「小間物屋政談」‥。大岡政談の類では「三方一両損」「大工調べ」「一文惜しみ」「城木屋」「帯久」など。「テレスコ」も政談ものにはいるだろう。
いずれも、庶民の司法への理想を語ったもの。近代的な訴訟の原則から言えば無茶苦茶ではあるが、形式的に公平な裁きというだけでなく、弱き者・愚直な者に暖かい裁きを、という期待が込められている。鹿政談が、よくできたその典型。もっとも後味のよい噺。
ところで、圓生の日本語の教養に教わることが多い。
「だらしない」とは、元は「しだらない」であったという。「しだら」とは、ことの成り行き・次第・事情をいうだけでなく、物事が引き締まった様をいうのだそうだ。確かに辞書にそう出ている。俗語で「場所」を「しょば」と言い、「タネ」を「ねた」というごとく、「しだら」を「だらし」と倒置して言いならわすうちに、「しだらがない」という意味の「だらしない」だけが残ったという。
ここまでなら感心しない。が、「しだら」の方は、「ふしだら」という言葉に残っている。「ふだらし」とは言わない。そういわれると、あっ、なるほどと感心しきりである。
ナニが面白いかって? いえ、特に面白くもありません。それだけのことでございます。

安倍君、憲法守らなきゃだめじゃないか。

昨日、伊勢神宮に参拝したって?
だめだよ、君。首相である間は、靖国でも伊勢でも、神宮・神社と名の付くところに行っちゃいけない。
中国も韓国も、靖国にはうるさいけれど、伊勢にはうるさくないからいいだろうって? 外国からの批判を基準にしてはだめだ。行動の基準は憲法が基本ではないか。日本国憲法20条3項は、国が特定の宗教施設と関わりを持つことを禁じている。伊勢は、国家神道の大元締め。憲法の政教分離原則は、靖国だけではなく伊勢も明治神宮も、首相が参拝の対象とすることを禁じている。
君が伊勢神宮への信仰厚くて、これまで新年の参拝を欠かしたことがないということであったとしても、お気の毒だけど我慢するんだね。ナニ、安倍は賞味期限切れだと言われ、ポスト安倍が囁かれているご時世だ。我慢の期間もたいしたことはなさそうじゃないか。
えっ?伊勢信仰への思い断ちがたい?
ならば、公邸の自室で伊勢神宮の方角に向かって、遙拝していればよろしい。
えっ?それでは信仰を貫くことにはならない?
では、こうしたらどうだろう。
メーキャップを施して似ても似つかぬ人物に変装するのだ。そして、こっそりと人混みに紛れて参拝する。もちろん、勤務時間外を見計らっての行動。けっしてその名を明かさない。もちろん、記帳もしない、公用車も使わない。随員もなし。いかなる名称にせよ、一切の出費は自費で賄う。しかも、参拝に行ったとは誰にも言わないのだ。厳重な秘密。信仰心の発露に相応しいやり方ではないか。それなら、私人の参拝として許される可能性がある。
大っぴらに記者会見なんてしちゃだめ。「皇室の弥栄をお祈りしました」なんて、はしゃぎすぎにも程がある。
現行憲法に不満あるからと言って、守らなくても良いことにはならない。
やっぱ、首相は憲法を守れる人でないと困る。

君が代解雇事件を訴える。

仕事初め。午前8時半から9時半過ぎまで、霞ヶ関の東京地裁門前での宣伝行動。「君が代解雇訴訟」の原告の呼びかけで、賑やかなビラ配りとなった。
私が数えた限りでの行動参加者は64名。これに、裏門側の担当者が数名。途中で帰られた方もあったろう。とにかく「大勢」だった。
私も、風邪引きの聞き苦しい声で何度かマイクを握る。
「たった一回。国歌斉唱時に静かに坐っていただけで解雇。こんなことが信じられますか。石原慎太郎知事その人でさえ、『たった一回でと言うことはないだろう。これまでにいろいろと問題を起こしていたんじゃないの?』と言っています。
しかし、本当に、たった一回の不起立でクビにされたのです。その10名が起こしているのが、『君が代・解雇訴訟』です。
東京都は、定年制を導入するに際して、年金受給年齢の65歳に達するまでは嘱託として再雇用する制度を設けました。60歳になった職員は、働く意思と能力ある限り無条件で嘱託として再雇用されたのです。
ところが「10・23通達」の翌年、9人の教職員が、たった1回の不起立で、既に決まっていた再雇用が取り消されました。翌年にも1名。今、10名の教職員がこの再雇用取消を違法として、地位確認を求める訴訟を提起しています。暮れの27日に結審して、今年の春には判決が言い渡されることでしょう。
そのほかにも、嘱託として再雇用を拒否された方15名が、東京都に対する損害賠償請求訴訟を提起しています。
石原教育行政の酷さ、無道、無茶苦茶がこれほどはっきりしている事件はありません。
憲法は、すべての国民に思想・良心の自由を保障しています。しかし、その自由を実現するのは裁判を通じてのこととなります。
人権の砦であるはずの裁判所は、今その存在意義を問われています。憲法の理念を実現する裁判所であるのか。行政の違憲違法な行為を厳しく断罪する裁判所であるのか。本当に、国民の立場において、役に立つ裁判所であるのか。
昨年9月21には、予防訴訟において東京都の教育行政を違憲違法とする立派な判決が出ました。今度の「君が代・解雇」事件は、「予防」ではなく、現実にクビを切られ、不本意に教壇を追われた10人の切実な思いを込めた訴訟です。
司法に携わる立場にある皆さん、司法に関心を寄せられる市民の皆さん。君が代解雇裁判にご注目ください。石原教育行政がどう裁かれるかだけでなく、司法がどう裁くかにもご注目ください」

電話勧誘被害は先物取引だけでない。

今年初めてわが家にかかってきた電話。誰かからの年賀のご挨拶かと思いきや、甘ったれた若者の声で、「サワフジ・センパイでいらっしゃいますか」と来た。
私は、体育会系の「センパイ・コウハイ」という語感が大嫌い。不機嫌に、「なんの用だ?」と問い質したところ、自分は東大生だが、学内紙である「東大新報」を購読してくれという電話勧誘。先輩に年間2万円の賛助金をお願いしているという。
「東大新報?東大新聞じゃないのか?」
「東大新聞とは違います。30年ほど前に、東大新聞が学生運動の影響で左翼一色になったときに、それを批判する立場で創刊されたのが、東大新報です」
「ことさらに紛らわしい名前を付けおって。それだけでお前の新聞はうさんくさい。誰が、新聞を作っているんだ?」
「東大とは無関係に、学生10人ほどでサークルとしてやっています」
「左翼を批判してというなら、お前らは右翼か」
「いえ、ボクは右翼ではありません」
「左翼でも右翼でもない?お前の新聞のポリシーはなんだ」
「今の世の中、個人主義が行き過ぎていると思います」
「なんだって?個人主義に反対?お前は全体主義者か?
ナチスやファシズムが好きなのか。戦前の超国家主義や天皇制に戻ればよいと思っているのか?」
「いえ、そうは思っていません」
「左翼でもない右翼でもない。個人主義でも全体主義でもない、お前の主義主張っていったいなんだ。はっきり言ってみろよ」
「特にありません」
「お前はアホか。主義主張がなくて新聞を発行するということはありえない。そんな新聞やめてしまえ。
だいたい、反体制であることは若者の特権だ。社会としがらみを持たない若者であればこそ、純粋に社会を批判できる。年をとれば、心ならずも反体制や左翼ではいられなくなる。
お前はなんだ。学生のうちから、体制におもねって、個人主義の行き過ぎだとか、左翼批判だとか、ちゃんちゃらおかしい」
「はい、よく分かりました」
「新聞を発行するって、金がかかることじゃないか。いったい誰がスポンサーなんだ」
「いいえ、スポンサーなんてありません」
「嘘をつけ。スポンサーなしでお前みたいな頼りない学生が集まって新聞の発行ができるはずはない。世間では、統一協会・勝共連合がバックにいると言われているではないか。お前もその片割れか」
「いいえ違います」
「だいたい、どうして私の電話番号を知ったのか」
「同窓会名簿を見ました」
「東大の同窓会名簿なんて、そんなものがあるはずはなかろう。あったとて、私は卒業していない」
「高校の同窓会名簿です」
「なんだと?聞き捨てならない。いったい誰が私の高校時代の名簿をお前に見せたのか」
「仲間の一人です」
「個人情報保護法というのを知っているか?」
「‥」
ここで、電話を切られた。無礼千万なやつめ。

今年は憲法施行60年

今年は日本国憲法が還暦を迎える。2007年5月3日が憲法施行60周年に当たる。
日本国憲法は、1946年の明治節(11月3日)を選んで公布され、憲法100条によって、その6か月後に施行された。以来60年の年月を経たことになる。
憲法の基本的な役割は、主権者たる国民の立場において、国家権力の行使に厳格なタガをはめるもの。出来のよい憲法ほど、為政者に疎まれる運命にある。
それにしても、日本国憲法ほど、国民に愛され為政者に冷淡に扱われた憲法はないのではないか。
為政者と財界とアメリカとが、大声で日本国憲法に非を鳴らしているのは、それが彼らに不都合だから。国民がこれを守り抜こうとしているのは、それが国民の利益に具体的に役立つものだから。
しょせん憲法も道具である。その評価は、役に立つかどうかにかかっている。国民の利益に役立ち、為政者には目の上のコブでなくてはならない。
為政者が歓迎する憲法では、民衆には役に立たないのだ。為政者がその存在に痛痒を感じないのでは、憲法を生かしてはいないことになる。
もっともっと憲法を使いこなそう。憲法の理念を実現する司法が必要だ。憲法の理念を実現することに執念を持つ法律家の育成も重要だ。そして何よりも、職場で、学校で、社会で、議会で、為政者の横暴に抵抗する運動がなくてはならない。
日本国憲法施行から60年。この憲法を守り抜いた国民の力量に乾杯。
そして、これを使いこなす国民の力量はこれからの課題。

疾風に勁草とならん

あらたまの年の初めに、人並みの感慨を綴らんとす。
天地鳴動することもなく、軍靴も爆音も直接には聞こえない、一見穏やかな正月。しかし、耳を澄ますと、時代の軋みが聞こえる。大地の底から。天空のかなたから。
この暮れに教育基本法が変えられた。格調の高い、すばらしい法から、無様な法に。しかも、こう変えなければならないことについての理由の説明は全くなかった。
愚かにも議員の数だけが、教育基本法「改正」の力だった。次は学校教育法・地教行法をはじめとする教育関連諸法規の改悪が待ち受けている。うかうかしていると、「戦争は教室から始まる」ことになりかねない。
本日の朝日の報じるところでは、日本経団連が、今後10年を見据えた将来構想「希望の国、日本」(御手洗ビジョン)を発表した。
「企業や官庁が日常的に日の丸を掲げ君が代を斉唱することを初めて提言した」と言う。恐るべきことではないか。愛国心の強制は、教室から企業、そして「スポーツイベントなど社会のさまざまな場所」に広がりつつある。
権力にとっても資本にとっても、望ましきは牙も魂もない従順なだけの人材なのだ。政権与党や官僚だけでなく、財界までもが愛国心を煽り、「基本的な価値観を共有する共同体の一員という自覚」を唱え始めた。

酷い時代となったものだ。どうしたらよいのやら。
まずは、今後キャノンの製品を買うことは一切やめよう。これまで私が経済制裁の対象としてきたのは、@産経・扶桑社、A日の丸タクシー、Bアメリカ産牛肉。これに続く、ささやかな抵抗手段としての個人的経済制裁‥。残念ながら、それ以外に有効な手立てを思いつかない。

60年余生きてきて、自分には社会を動かす力量のないことを良く知っている。しかし、時流に抵抗する姿勢は頑固に堅持したい。
「疾風に勁草を知る」とは気に入った言葉。疾風をとどめる力はなくとも、けっして風のまにまに靡くことはすまい。
せめては、年の初めに、そのくらいの覚悟を決めよう。

富田メモをめぐって

日経20日朝刊の一面トップが、富田メモの公表。
「A級戦犯靖国合祀 昭和天皇が不快感」。「大スクープ」と言わんばかりの大見出しである。記事発表は絶妙のタイミングを狙ったものであろう。
「富田朝彦・元宮内庁長官(故人)のメモを日経が入手した。そのメモのなかに、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示していたことが記されている」という。
天皇がA級戦犯に不快感を有していたという事実は、極右にとって相当の打撃ではあろう。二一日早朝に、日経本社に火炎瓶が投げつけられてもいる。
靖国は天皇の神社である。天皇への忠死ゆえに戦没した者を神として祀ることが建前。その忠誠の対象である天皇が、「A級戦犯合祀に不快感」なのだから、右翼にとって怒りや当惑は当然であろう。
「大東亜戦争正戦論」の立場からは、もともと戦争犯罪人などあるはずもない。A級戦犯とは勝者の貼ったレッテルに過ぎず、本来は愛国者であり「忠臣」なのだということになる。従って、昭和殉難者を護国の神として靖国神社に合祀することは当然のこととなる。A級戦犯合祀は、過去の侵略戦争を正当化し国家主義を肯定する最大の証しなのである。
しかし、日本の保守の立場においても、この極右的合祀肯定論には賛意を表しがたい。再び日本を孤立させ、前車の轍を踏みかねない危険が明らかなのだから。
小泉首相の五回目の靖国参拝がささやかれている八月一五日を目前に、絶妙のタイミングで公表された富田メモは、極右への打撃となり、A級戦犯分祀派への追い風となっている。あるいは、火の消えかかった国立戦没者追悼施設建設への追い風。
だが、冷静に考えなければならない。
問題は二点。
第一点は、靖国問題をA級戦犯問題に矮小化してはならない。A級戦犯分祀で靖国問題が片づくものではない、ということ。
最悪のシナリオは、「分祀が実現すれば近隣諸国の外圧もなくなる。心おきなく、天皇も首相も、靖国神社参拝が可能になる」というものである。
A級戦犯問題は、靖国神社の好戦性、過去の戦争への無反省をよく表すものではあるが、その本質ではない。靖国問題の本質は、国民精神を戦争へ動員するにあたっての宗教感情の利用そのものにある。
首相参拝が靖国を参拝してはならないのは、外圧があるからではなく、過去の大戦の痛恨の反省から憲法上の原則として確立された政教分離に違反するからである。そのことは、A級戦犯の分が実現しても変わりはない。
だから、分祀実現のあとなら天皇や首相の参拝オーケーとはならない。
第二点。保守中道派が、天皇への敬愛を当然とし、「平和を愛した昭和天皇の思いを受けとめよう」としていることの危険性である。分祀や国立追悼施設建設の推進に有利とみた明らかな天皇の政治利用である。見逃せないのは、「平和愛好天皇」「リベラル天皇」像を政治利用に有利とみていること。
国家神道とは「天皇教」にほかならない。靖国神社とは天皇の神社である。天皇への盲目的服従精神の涵養が軍国主義的国民精神の支柱となった。
天皇の政治利用の極致として靖国のシステムがあった。いま、靖国を考えるときに、天皇の「心」だの「思い」を受けとめようなどとは、けっして口にしてはならない。
天皇制の危険は、それが政治シンボルとして特定政派に利用されるところにある。富田メモの公表は、極右勢力への打撃とはなったが、同時に今なお、天皇制というもの危険性を示すものともなった。
私たちには、平和愛好の天皇も、リベラルな天皇も要らない。天皇そのものが本来不要であり、危険なものであることを再確認しよう。
象徴天皇制下では、天皇は憲法上の存在とは言え、その言動に、いささかも政治的影響をもたせてはならないのだ。

米兵の強盗殺人に怒る。

私はナショナリストではない。ナショナリズムそのものの価値を認めない。ナショナルなシンボルの呪縛を排斥しなければならないと考えている。
サッカーの試合では絶対に日本を応援しない。オリンピックでは、小国、新興国、第三世界の選手の活躍に拍手を送る。日本人だから声援を送ることはあり得ない。
その私も、米兵の日本人に対する犯罪には、心底腹が立つ。切歯扼腕である。

暮れの八王子での米兵轢き逃げは、「公務中」の犯罪だったという。地位協定17条3項a(A) では、「公務執行中」の犯罪については米軍が第1次的に刑事裁判権を持つ。米軍が裁判権を放棄しない限り、日本の司法当局はどうにも手出しができない。なんたること。幕末の不平等条約さながらではないか。

1月3日早朝には、横須賀の女性がキティホークの水兵に殺害された。敢えて断定は避けるが、状況からは強盗殺人であるらしい。極めて凶悪な犯行である。今度は、公務執行中ではない。従って、第一次の裁判権は日本側にある。ところが、地位協定の同条5項cでは、「犯罪者の身柄が米軍の手にあるときは、起訴まで米軍が拘禁する」となっている。
身柄を日本の警察・検察に引き渡さないというのだ。これで、日本の警察・検察が十分な捜査ができるか。何よりも、日本で犯した日本人に対する犯罪ではないか。他の日本人犯罪者と同等に取り扱え。

たまたま、今回は監視カメラに、犯人が写っていたようだ。それなければ、身柄を押さえずしては、起訴までの証拠固めもできはしないだろう。

地位協定なんぞ廃棄せよ。そもそも、安保条約そのものが不要だ。轢き逃げや、殺人、強姦を繰り返している米軍の駐留など、まっぴらごめんだ。

大国の横暴に対する抗議に有効である限りにおいて、ナショナリズムもまた良し。都知事・石原慎太郎よ、横須賀市民・小泉純一郎よ、米軍に抗議せよ。