2007年1月

もうすぐ通常国会

通常国会の開会まであと一週間。来週の木曜日に「第166常会」が始まる。会期は6月23日までの150日間。これが終われば参院選だ。憲法の命運と大いに関わる。
毎次の国会に、政府与党から「悪法」の提案が続く。「法案成立に反対」と叫び続けなければならないのが、悲しいかな我が国の現実。
この国会の最大の焦点は、「改憲手続き法」案である。当然のことながら、「改憲地ならし法案」であり、「改憲外堀埋め法案」でもある。その内容如何にかかわらず、「改憲の必要なしが民意」だという立場で反対。
しかし、法案の内容に目もくれないのではもったいない。土台、政権与党には民意の正確な反映手続きに関心はない。小選挙区制へのしがみつきが彼らの心根をよく表している。
「改憲手続き法案」の民意をゆがめる醜さも、十分に指摘し反論しなくてはならない。
ところで、ホワイトカラーエグゼンプション(残業代ゼロ法案)については、財界の意を受けた厚労省が提案に熱心だったが、与党は参院選に不利と見て法案提出断念を表明した。
彼らも、「民意」には決して鈍感ではない。改憲も、改憲手続き法も、「民意」を喚起できるか否かにかかっている。

阪神淡路大震災から12年

年末からの風邪がまだ治らない。すっかり、健康への自信を無くしてしまった。体調が悪いと、なんとも仕事への意欲が減退する。
ときどき自分の年齢を思いだしては溜息をつく。なるほど、トシには勝てないのだ。
ところが、高齢な政治家諸氏のお元気さには驚嘆せざるを得ない。きっと、それなりの節制をしているのだろう。その点はご立派である。真似をさせていただこう。
ところで、今日は1月17日。12年前の今日、阪神淡路大震災の惨事が起こった。6000人の命の重さに、ただただ黙祷。
12年前、この震災の直後に東京地裁の「市民平和訴訟」で、シンガポールのジャーナリストであるルウ・ペイチュンさんの証人尋問を担当した。彼は、法廷で次のように言っている。
「阪神淡路大震災の被害者5000人(震災直後の人数)ということは、たいへん大きな犠牲です。でも、考えてみてください。アジア・太平洋戦争で日本皇軍が殺戮したアジア諸国の犠牲者総数は2000万人と言われています。今日1日の震災で5000人が亡くなり、次の日も、その次の日も、5000人が毎日毎日亡くなり続けて2000万人に達するまで、どのくらいかかると思いますか。10年かかっても、2000万人には到達しないのです」
おびただしい太平洋戦争の無辜の死者に合唱。不本意に殺戮に荷担させられた皇軍の死者にも。

中国残留孤児問題ー安倍首相の政治決断を

敬愛してやまない井上ひさしさんに、次のような言葉がある。
「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に」
なんと、素晴らしくステキな言葉だろう。文章を書くにあたっての心構えとして、これ以上のものはなかろう。
付け加えれば、書くに値することを書きなさい、ということであろうか。
本日の朝日「オピニオン」欄(13面)の「政態拝見」は、中国残留孤児支援をテーマにした達意の文章だ。
「複雑なことの本質をえぐって分かり易く、その本質を語ること深く、しかも柔らかいスタイルで批判は鋭い」
何よりも、安倍首相自身の拉致家族問題への筆法をそのまま借りて、中国残留孤児支援の政治決断を迫っている、その論建てのみごとさ。こんな文章を手際よく書ける能力を身につけたいものだ。
ときどき嫌いになりそうな朝日だが、この記事はステキだ。

岩手靖国訴訟

「法学館憲法研究所」からご連絡をいただいた。ホームページでの新しい企画への協力依頼。
「全国憲法MAP」と題するページを設け、憲法に関する各都道府県における裁判や運動を順次紹介するのだという。「各地にお住まいの皆さまが憲法をより身近に感じ、生活に密接にかかわる問題として語り合える機会を増やすことができれば幸いであると考えております」とのこと。まことに結構なことではないか。
その第3回として岩手県の「岩手靖国違憲訴訟」を採りあげるので、「この裁判に関連する文章などをご寄稿いただきたい」との依頼。
世の中、捨てたものでもない。こんなことを熱心にやっている人もいるのだ。
私は盛岡の生まれだが、父方のルーツは黒沢尻。今は、北上市の一部。
1970年代のことだが、その北上市に「政教分離を守る会」という市民運動組織ができた。宗教家と教育者と社共の活動家などがこれに参加した。
国家神道が臣民の心の内奥を支配したことについての苦い記憶と、靖国公式参拝への危機意識が、この市民運動を立ち上げた。
この人たちの運動が盛岡にも飛び火して、岩手靖国訴訟を立ち上げ、大きな成果をあげた。
1991年1月10日、仙台高裁は、「天皇と首相の靖国神社公式参拝は違憲」「県費からの玉串料奉納は違憲」と明確な判断を示した。私も、いささかの役割を担ったこの北上と岩手県の運動に、いまだに誇りをもっている。

倫理を欠いた大臣の、教育法体系いじり

伊吹文科相の政治資金収支報告問題が報じられたのは、今月11日。各紙とも、「賃料のかからない議員会館を所在地としながら多額の「事務所費」を支出したと政治資金収支報告書に記載し、一部を会合・飲食費や交通費に流用していることが10日、明らかになった」との記事だった。
同様のことは、中川昭一自民党政調会長、松岡利勝農相ら既に複数の政治家で発覚していたが、伊吹さんには、格別の倫理が求められる。なにしろ教育行政を所管する大臣だ。しかも、教育基本法以下の教育法体系の再編を唱導しているさなかなのだ。
この問題発覚が1か月前なら、12月15日参議院で成立した教育基本法改悪をストップさせることができたかも知れない。ウーム、なんとも残念。
でも、この問題、いったい誰が火を付けたのだろう。誰が報告書を丹念に見直したのだろう。その人には最高の敬意を表するけれども、もう1か月前にやってくれてれば、との憾みも残る。
政治資金規正法がザル法だとは誰もが知っているところ。総務省の見解では、「事務所費には領収書の添付不要なのだから問題はない」とのこと。しかし、適法違法の問題と、政治倫理の問題とは次元が異なる。
伊吹文科相に問われているのは教育を語る資格である。彼には、改悪教育基本法以下の諸法の改正を云々する資格はない。
この事件、教育法体系改悪阻止の運動に、大いに活用しようではないか。

加藤紘一さん、あなたは立派だ。

この件は、毎日新聞の記事が目に留まった。他紙の記事には問題意識が感じられない。
山形地裁で開かれた、加藤紘一氏実家の現住建造物放火被告事件の初公判。
この日、被告側も冒頭陳述をしたそうだ。われわれも、弾圧事件では大いに被告人の行為の正当性を述べる。
しかし、この事件の弁護人主張は筋が違っていたようだ。
「動機について検察官は「多額の借金や糖尿病から人生に希望が持てなくなり自殺を考え、最後に華々しい行動を起こして仲間に存在意義を示そうとした」と指摘。
これに対して、弁護人は「首相の靖国神社参拝を妨げる者に、かねて強い公憤を抱いていた」と述べ、「加藤氏の母には申し訳ないが、討伐は祖国を守る正当なものだった」と主張した。堀米被告も起訴事実の認否で「加藤氏は売国奴」などと述べ、金子裁判長からたしなめられる一幕もあった」という。
「加藤議員を狙った理由については、参拝自粛を求めた経済同友会の北城恪太郎代表幹事の襲撃を昨年5月ごろ考えたが、月刊誌の加藤議員の対談記事を7月に読んで標的を変更したことが双方の冒頭陳述で分かった。弁護側は、加藤議員が小泉純一郎前首相に靖国神社の前倒し参拝を提言し、中国側の様子も取材したと書かれた部分を、被告が「内政干渉に屈服させた」などと受け止めたことを挙げた」というのが毎日の報道。
法廷で、被害者を「売国奴」と放言する放火犯。これと符節を合わせた弁護人。本来の弁護を放棄し、確信犯として法秩序を攻撃する人格をむきだしつつ、政治的主張を行っているだけではないか。
弁護人から、「被告が標的にした相手に自民党の山崎拓、古賀誠の両衆院議員に加え、「日本経済新聞社の社主」も挙げた」という。言論に対する恐るべき右翼テロ。肌寒さを感じざるを得ない。
この件では、被害者である加藤紘一氏の態度を立派だと思う。恐怖心もあったろうし、腹立たしくもあったろう。その感情を露わにすることなく、終始落ち着いて、決めつけをしない対応には、風格を感じる。
けっして、暴力に屈しない静かな気迫も感じられる。
卑劣な犯人の意図とは反対に、加藤氏を讃え、この事件をむしろ加藤待望論再浮上のきっかけとしたいものだと願っている。

ぼく、ブッシュ。本音を言っちゃおう。

あー、やんなっちゃった。うまくいかないな。どうしてこんなになったんだろう。ぼくって頭悪いから、自分の頭じゃよくわかんないんだ。
ぼくって、部下の作った原稿をテレビの前で読んだり、空母で戦勝演説するなんてかっこいいパフォーマンスするのは、好きだし得意なんだ。もう一度、勝利宣言やりたいな。あと2年もないんだもん。焦っちゃうよな。
大統領となったからには華々しく戦争しなくちゃ、そして勝たなくちゃ、歴史に名を残すことはできないだろう。今考えるのはそれだけさ。
世の中、善と悪しかないんだよ。もちろん、ぼくが善で、ぼくに敵対するものはみんな悪。テロをやるやつは悪で、テロと戦うぼくは善。徹底してテロと戦うのが当たり前だろう。悪は滅ぼさなくちゃ。こんな単純なこと、どうしてみんなわかんないんだろう。
それに、アメリカは正しいだけでなくて強いんだよ。だから、絶対に勝てるはずだった。イラクがアルカイダと繋がりがあるかどうか、大量破壊兵器を隠しているかどうか、そんなことはどうだって良かったんだ。戦いが始まれば、強い者に靡くのが世の常だろう。ブレアーだって小泉だって、シッポを振ってついてきたじゃないか。ここまでは、とても分かり易かった。
だけど驚いた。世界最強のぼくの軍隊が、イラクの国軍には勝てても、イラクの見えない敵には勝てないんだ。世界最強の軍事力も、一国の治安を守ることはできない。どうしてだか、まだ分からない。
いつの間にか、米兵の死者は3000人を超した。米国民の不満を抑えきれない。中間選挙にも大敗だ。国際世論はぼくを悪者と言い出した。アメリカのイメージダウンも甚だしい。
いま、このまま撤退したんじゃ、戦争に負けた惨めな大統領として名を残すことになっちゃう。断固として聖戦完遂あるのみ。一度は相手を華々しく叩いて、上手に引き際を作らなくちゃ。なに?ヒロヒトに似ているって?追いつめられた独裁者は、保身のために同じ思いになるんだろうな。だけど、ぼくはヒロヒトほどの独裁者じゃないよ。少しインチキはしたけど、形の上では選挙で選ばれたんだし、みんな遠慮なくぼくを虐めるじゃないか。
戦争おっぱじめたのが間違いではなかった。勝てさえすれば、戦争に批判なんてありえない。勝てなかったことだけが問題だ。なぜ勝てなかった?戦力の逐次投下で分散させてしまったことが失敗だった。ラムズフェルドの責任だ。ここは、惜しみなく、バグダット中心に大量の戦力を注ぎこもう。直接戦力だけで21000の追加だ。このうち、1割くらいは死ぬかも知れないが、そこは盛大な追悼式で神妙な顔をして立派なスピーチをして乗りきろう。それはぼくの得意分野だ。
敵味方何人死のうと、予算がどうなろうと、国内外の世論がどうなろうと、そんなことは些細なこと。善であるぼくが勝つこと、勝って偉大な大統領として名を残すことが何よりも大切じゃないか。
‥ほんとは、もう自信はないんだけど‥。

9本の「9条楊枝」

有村一巳さんは、裁判所職員で組織する全司法労働組合の元委員長。日本民主法律家協会の代表理事のお一人で、「9条の会・杉並」の中心メンバーとして地域の護憲運動を支えてもおられる。
杉並の区立中学校に扶桑社版教科書が採択されたことを痛恨時とし、大きな市民運動を起こして、4年後の雪辱を期しておられる。
この人の周囲には、いつも明るく暖かい風を感じる。私には望んでも得られない人徳。
その有村さんから、和紙ののし袋に入れた「9条楊枝(大中小各3本)」をいただいた。
次の口上書がはいっている。
「明けましておめでとうございます。
埼玉の家の庭にある香木「黒文字」で年末年始に作りました。
木の特徴を生かして削ってみました。ときどき水に戻して、何回でもお使いください。
2007年1月
9条の会・杉並 有村一巳」
なるほど、私もこうやって人を励ましてみたい。
9本の「くろもじ」心して使わせていただろう。お茶うけをいただくたびに「9条よ、美しく香れ」と、思いを新たにしつつ。

憎いし,苦痛! 「美しい国」

安倍政権発足が昨年の9月26日。それから8日後の10月4日、一通のメールに目が釘付けになった。
送信者は大山勇一弁護士(城北法律事務所)。
「●安倍新政権「美しい国」の本質を見たり!
  憎いし,苦痛! 「美しい国」
 (にくいしくつううつくしいくに)
  回文にすると物事の本質がよく分かります・・」
ウーン、みごと。してやられた。「にくいしくつう」の著作権は彼のものなのだ。
私の知っている限り、「憎いし,苦痛!」がマスコミに出たのはこれ以前にはない。週刊朝日も年明けの号で、「誰が言い出したやら」としている。
大山案をいただいたのは、日民協機関誌の「法と民主主義」12月号。編集後記に当たる「KAZE」の欄に、「回文・美しい国、憎いし苦痛」と大山さんにご登場いただいた。
本日の各紙が報ずるところでは、民主党は次の通常国会を「格差国会」として、この国の苦痛を論点とするという。「美しい国」の本質よ、暴かれよ。
なお、大山さんは回文の達人。靖国の上告趣意書ができたときは、
「くふうこらしかんせい,いいせんかしら,こうふく
(工夫凝らし完成。いい線かしら?幸福)」
と送ってきた。実にいい線行っている。
そのほかにも、
 ●激務の親王妃2人に何が・・・
 「うかつ! 紀子・雅子さま,こき使う」
 (うかつきこまさこさまこきつかう)
 ●安倍総理とタカ派議員の関係とは?
 「改憲・核武装」とうそぶく関係か!
 (かいけんかくぶそうとうそぶくかんけいか)
 ●話し合いではなく,核保持へ向かう中川政調会長の発言にNO!
 「駄目! 中川異端。対話が要(かなめ)だ」
 (だめなかがわいたんたいわがかなめだ)
 ● 活憲か改憲か? 議論百出する中で,膠着状態を突破せよ
 「活憲賛成! かっこいい国会戦,酸欠か?」
 (かつけんさんせいかっこいいこっかいせんさんけつか)
みごとなものだ。

憲法「改正」・ミニ国民投票

ヤフーの「意識調査」なるサイトに、次のテーマが掛けられている。
「安倍首相が年頭会見で「私の内閣で憲法改正を目指す」と表明しました。あなたは憲法改正に賛成ですか? 反対ですか?」
1月4日から10日までの期間ということだが、9日の午後4時現在では下記のとおり。
反対 20104票 53%
賛成 17059票 45%
関心無 1050票  3%
ヤフーにこんなサイトがあることは知らなかった。驚いたのは、その前のテーマが、「2006年のNHK紅白歌合戦。2005年と比べてどうでしたか?」というもの。わずか4日間(12月31日〜1月3日)で、このテーマに15万票の回答が寄せられている。ちなみに、一人が2票は投じられない仕組み。
「紅白歌合戦が面白かったかつまらなかったか」という問には15万人となる回答者が、改憲問題となると4万人となるのだ。この差の10万人は、改憲に反対・賛成のどちらに投票することになるのだろうか。
なお、このアンケートには、コメントが付されている。
「ネット右翼」と言われる人たちの延々たる「意見」の羅列。虐げられている側の人々の屈折した意識構造。いつかは、きちんと向き合わねばならないが、不毛の論争。論争の不毛。
関心ある人は、覗いて見てはいかが?
http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/research/

祝・盛岡商業全国優勝

高校サッカーの中継を初めて見た。岩手県立盛岡商業が出場した決勝戦。見ていて面白い、レベルの高い試合だった。そして、盛岡商業が逆転で2−1の勝利。全国優勝。
規模の大きくない県立の高校で、地元の生徒ばかりで全国優勝というのが素晴らしい。決勝の対戦相手となった津山の作陽高校も、私立だが規模は大きくない。
私自身は盛岡商業の出ではないが、故郷の高校の活躍は、何となく誇らしく嬉しい。
故郷・郷土を愛する心と愛国心。同じものなのだろうか、どう違うのだろうか。
昨年暮れの毎日新聞「記者の目」欄に、鳥取発の記事があった。
県内の大学生のアンケートでは、「愛国心と愛郷心は異なる」という意見が6割だったそうだ。
鳥取を選挙区とする石破茂氏が「故郷に戦力がないのが決定的な違い」と言い、「愛郷の延長には家族があり、愛国の延長には天皇がいる」という学生の声を紹介していた。この記者も、「言い得て妙と感じた」としている。
自然発生的な愛郷心を、人工的な作為芬々の愛国心にすり替えさせてはならない。ご用心、ご用心。

都教委幹部の個人責任追及を

久しぶりに風邪をこじらせた。咳が続いて腹筋が痛い。
病を押して、今日は今春の卒業式入学式における「日の丸・君が代」強制問題について原告団との打ち合わせ。
私の提案は、都教委幹部に対する個人責任の追求。
太平洋戦争においてもこの国は一億総無責任。すべて「天皇の命令」ということで個人の責任が糊塗された。天皇自身も、「開戦は余儀なくされたもの。終戦は私の決断」と無責任に平和主義者を装ったのだ。
東京裁判もニュールンベルグ裁判も、このような言い訳は許さなかった。
違憲・違法な「10・23通達」を出し、これを徹底して、教育に不当な支配を及ぼし、精神の自由を蹂躙した者の個人の責任を厳格に追及しなければならない。

以下は、まだ個人的見解である。
都教委は、「控訴によって9・21判決は確定を阻まれている。だから、これまでの方針を変更する必要はない。「10・23通達」は変更しないし、校長の職務命令もこれまでと同様に出してもらう」と言っている。
しかし、そんな形式論で片づく事態ではない。
行政裁量を幅広く認めて、望ましからぬ行政行為にも目をつぶっているのが今の裁判所である。その裁判所が、「10・23通達」とその指導には憲法上到底看過できないとした。起立・斉唱を命じる校長の職務命令に対しては、「重大かつ明白な瑕疵あり」と断じた。この重みを受けとめていただきたい。
上級審の判断を仰ぎたいということでの控訴あっても、少なくとも、「重大かつ明白な瑕疵あり」とされた職務命令を強要したり、違憲違法とされた処分を強行するような乱暴なことは控えなければならない。
それが行政のあるべき姿勢だし、道義であり社会常識でもある。
9・21判決が上級審でも支持される確率は限りなく高い。控訴棄却となり、あるいは上告棄却となって確定したとき、誰がどう責任をとるのか。
9・21判決の前後で決定的に異なるのは、担当者の個人責任である。
この判決の以前には、客観的なには違憲・違法な公権力行使であっても、「主観的には違憲違法とは考えなかった」という弁解が通る余地はありえた。「教職員側の弁護団の指摘はあったが、横山教育長や都教委の法務関係者の意見を信用した。違憲違法なことをしているとの認識はなかった」と言って通るかも知れない。
しかし、9・21判決が、あれだけ明確に違憲違法を言ったあとには、その弁明はもはや通らない。
国賠法上、公務員は故意または重過失ない限り、個人としての責任は問われないが、逆に故意または重過失あれば個人として責任を問われることになる。
東京地裁が判決という形で明確にした警告を無視して、敢えて処分を重ねた者の個人責任は、厳重に問われなければならない。
石原慎太郎知事・木村孟教育委員長・中島正彦教育長・米長邦雄等教育委員、人事局長・職員課長までの個人責任は当然である。
この点は、校長も同じことである。東京都教育委員会・東京都教育庁は、「個人責任を覚悟のうえで職務命令を出せ」と校長に言えるのか。
権力を持つ者が、違法に権力を行使すれば影響は大きい。当然に責任も大きいのだ。自己保身のためにも、判決を尊重して、上級審判決あるまでは、乱暴なことは差し控えるべきだという警告に耳を傾けなければならない。
 われわれは、「10・23通達」とその強制によって生じた被害についての公務員の個人責任を徹底して追及する。そのことが無責任な知事や都教委幹部・校長らの行為によって違憲違法な教育行政がまかり通ることを予防する監督機能を果たすであろうから。

具体的には、国家賠償請求に公務員個人も被告として加えることを検討する。確定判決後には東京都が支払った損害賠償ならびに、「10・23通達」関連で支出された諸経費について、東京都が知事・教育委員会委員長・教育長外の責任ある公務員個人への求償をなすべく、監査請求をし、住民訴訟を提起することを検討する。

このことを事前に警告し、本気で追求しようではないか。

圓生に教わる。

このところ、夜な夜な圓生を聞いている。好みではないのだが、さすがに聞かせる。聞き飽きない。
昨日聞いたのは珍しい噺で「遠山政談」。4代目圓生の作だという。今は演る人がなかろうと思う。政談とつくが、お白州場面は出て来ない。この噺は大嫌い。こんな話を平気で演じている圓生も好きになれない。
たまたま、聞く話に「政談」ものが続いた。落語や講談の題に「政談」と付けば、お白州もの。「鹿政談」「唐茄子屋政談」「佐々木政談」「小間物屋政談」‥。大岡政談の類では「三方一両損」「大工調べ」「一文惜しみ」「城木屋」「帯久」など。「テレスコ」も政談ものにはいるだろう。
いずれも、庶民の司法への理想を語ったもの。近代的な訴訟の原則から言えば無茶苦茶ではあるが、形式的に公平な裁きというだけでなく、弱き者・愚直な者に暖かい裁きを、という期待が込められている。鹿政談が、よくできたその典型。もっとも後味のよい噺。
ところで、圓生の日本語の教養に教わることが多い。
「だらしない」とは、元は「しだらない」であったという。「しだら」とは、ことの成り行き・次第・事情をいうだけでなく、物事が引き締まった様をいうのだそうだ。確かに辞書にそう出ている。俗語で「場所」を「しょば」と言い、「タネ」を「ねた」というごとく、「しだら」を「だらし」と倒置して言いならわすうちに、「しだらがない」という意味の「だらしない」だけが残ったという。
ここまでなら感心しない。が、「しだら」の方は、「ふしだら」という言葉に残っている。「ふだらし」とは言わない。そういわれると、あっ、なるほどと感心しきりである。
ナニが面白いかって? いえ、特に面白くもありません。それだけのことでございます。

安倍君、憲法守らなきゃだめじゃないか。

昨日、伊勢神宮に参拝したって?
だめだよ、君。首相である間は、靖国でも伊勢でも、神宮・神社と名の付くところに行っちゃいけない。
中国も韓国も、靖国にはうるさいけれど、伊勢にはうるさくないからいいだろうって? 外国からの批判を基準にしてはだめだ。行動の基準は憲法が基本ではないか。日本国憲法20条3項は、国が特定の宗教施設と関わりを持つことを禁じている。伊勢は、国家神道の大元締め。憲法の政教分離原則は、靖国だけではなく伊勢も明治神宮も、首相が参拝の対象とすることを禁じている。
君が伊勢神宮への信仰厚くて、これまで新年の参拝を欠かしたことがないということであったとしても、お気の毒だけど我慢するんだね。ナニ、安倍は賞味期限切れだと言われ、ポスト安倍が囁かれているご時世だ。我慢の期間もたいしたことはなさそうじゃないか。
えっ?伊勢信仰への思い断ちがたい?
ならば、公邸の自室で伊勢神宮の方角に向かって、遙拝していればよろしい。
えっ?それでは信仰を貫くことにはならない?
では、こうしたらどうだろう。
メーキャップを施して似ても似つかぬ人物に変装するのだ。そして、こっそりと人混みに紛れて参拝する。もちろん、勤務時間外を見計らっての行動。けっしてその名を明かさない。もちろん、記帳もしない、公用車も使わない。随員もなし。いかなる名称にせよ、一切の出費は自費で賄う。しかも、参拝に行ったとは誰にも言わないのだ。厳重な秘密。信仰心の発露に相応しいやり方ではないか。それなら、私人の参拝として許される可能性がある。
大っぴらに記者会見なんてしちゃだめ。「皇室の弥栄をお祈りしました」なんて、はしゃぎすぎにも程がある。
現行憲法に不満あるからと言って、守らなくても良いことにはならない。
やっぱ、首相は憲法を守れる人でないと困る。

君が代解雇事件を訴える。

仕事初め。午前8時半から9時半過ぎまで、霞ヶ関の東京地裁門前での宣伝行動。「君が代解雇訴訟」の原告の呼びかけで、賑やかなビラ配りとなった。
私が数えた限りでの行動参加者は64名。これに、裏門側の担当者が数名。途中で帰られた方もあったろう。とにかく「大勢」だった。
私も、風邪引きの聞き苦しい声で何度かマイクを握る。
「たった一回。国歌斉唱時に静かに坐っていただけで解雇。こんなことが信じられますか。石原慎太郎知事その人でさえ、『たった一回でと言うことはないだろう。これまでにいろいろと問題を起こしていたんじゃないの?』と言っています。
しかし、本当に、たった一回の不起立でクビにされたのです。その10名が起こしているのが、『君が代・解雇訴訟』です。
東京都は、定年制を導入するに際して、年金受給年齢の65歳に達するまでは嘱託として再雇用する制度を設けました。60歳になった職員は、働く意思と能力ある限り無条件で嘱託として再雇用されたのです。
ところが「10・23通達」の翌年、9人の教職員が、たった1回の不起立で、既に決まっていた再雇用が取り消されました。翌年にも1名。今、10名の教職員がこの再雇用取消を違法として、地位確認を求める訴訟を提起しています。暮れの27日に結審して、今年の春には判決が言い渡されることでしょう。
そのほかにも、嘱託として再雇用を拒否された方15名が、東京都に対する損害賠償請求訴訟を提起しています。
石原教育行政の酷さ、無道、無茶苦茶がこれほどはっきりしている事件はありません。
憲法は、すべての国民に思想・良心の自由を保障しています。しかし、その自由を実現するのは裁判を通じてのこととなります。
人権の砦であるはずの裁判所は、今その存在意義を問われています。憲法の理念を実現する裁判所であるのか。行政の違憲違法な行為を厳しく断罪する裁判所であるのか。本当に、国民の立場において、役に立つ裁判所であるのか。
昨年9月21には、予防訴訟において東京都の教育行政を違憲違法とする立派な判決が出ました。今度の「君が代・解雇」事件は、「予防」ではなく、現実にクビを切られ、不本意に教壇を追われた10人の切実な思いを込めた訴訟です。
司法に携わる立場にある皆さん、司法に関心を寄せられる市民の皆さん。君が代解雇裁判にご注目ください。石原教育行政がどう裁かれるかだけでなく、司法がどう裁くかにもご注目ください」

電話勧誘被害は先物取引だけでない。

今年初めてわが家にかかってきた電話。誰かからの年賀のご挨拶かと思いきや、甘ったれた若者の声で、「サワフジ・センパイでいらっしゃいますか」と来た。
私は、体育会系の「センパイ・コウハイ」という語感が大嫌い。不機嫌に、「なんの用だ?」と問い質したところ、自分は東大生だが、学内紙である「東大新報」を購読してくれという電話勧誘。先輩に年間2万円の賛助金をお願いしているという。
「東大新報?東大新聞じゃないのか?」
「東大新聞とは違います。30年ほど前に、東大新聞が学生運動の影響で左翼一色になったときに、それを批判する立場で創刊されたのが、東大新報です」
「ことさらに紛らわしい名前を付けおって。それだけでお前の新聞はうさんくさい。誰が、新聞を作っているんだ?」
「東大とは無関係に、学生10人ほどでサークルとしてやっています」
「左翼を批判してというなら、お前らは右翼か」
「いえ、ボクは右翼ではありません」
「左翼でも右翼でもない?お前の新聞のポリシーはなんだ」
「今の世の中、個人主義が行き過ぎていると思います」
「なんだって?個人主義に反対?お前は全体主義者か?
ナチスやファシズムが好きなのか。戦前の超国家主義や天皇制に戻ればよいと思っているのか?」
「いえ、そうは思っていません」
「左翼でもない右翼でもない。個人主義でも全体主義でもない、お前の主義主張っていったいなんだ。はっきり言ってみろよ」
「特にありません」
「お前はアホか。主義主張がなくて新聞を発行するということはありえない。そんな新聞やめてしまえ。
だいたい、反体制であることは若者の特権だ。社会としがらみを持たない若者であればこそ、純粋に社会を批判できる。年をとれば、心ならずも反体制や左翼ではいられなくなる。
お前はなんだ。学生のうちから、体制におもねって、個人主義の行き過ぎだとか、左翼批判だとか、ちゃんちゃらおかしい」
「はい、よく分かりました」
「新聞を発行するって、金がかかることじゃないか。いったい誰がスポンサーなんだ」
「いいえ、スポンサーなんてありません」
「嘘をつけ。スポンサーなしでお前みたいな頼りない学生が集まって新聞の発行ができるはずはない。世間では、統一協会・勝共連合がバックにいると言われているではないか。お前もその片割れか」
「いいえ違います」
「だいたい、どうして私の電話番号を知ったのか」
「同窓会名簿を見ました」
「東大の同窓会名簿なんて、そんなものがあるはずはなかろう。あったとて、私は卒業していない」
「高校の同窓会名簿です」
「なんだと?聞き捨てならない。いったい誰が私の高校時代の名簿をお前に見せたのか」
「仲間の一人です」
「個人情報保護法というのを知っているか?」
「‥」
ここで、電話を切られた。無礼千万なやつめ。

今年は憲法施行60年

今年は日本国憲法が還暦を迎える。2007年5月3日が憲法施行60周年に当たる。
日本国憲法は、1946年の明治節(11月3日)を選んで公布され、憲法100条によって、その6か月後に施行された。以来60年の年月を経たことになる。
憲法の基本的な役割は、主権者たる国民の立場において、国家権力の行使に厳格なタガをはめるもの。出来のよい憲法ほど、為政者に疎まれる運命にある。
それにしても、日本国憲法ほど、国民に愛され為政者に冷淡に扱われた憲法はないのではないか。
為政者と財界とアメリカとが、大声で日本国憲法に非を鳴らしているのは、それが彼らに不都合だから。国民がこれを守り抜こうとしているのは、それが国民の利益に具体的に役立つものだから。
しょせん憲法も道具である。その評価は、役に立つかどうかにかかっている。国民の利益に役立ち、為政者には目の上のコブでなくてはならない。
為政者が歓迎する憲法では、民衆には役に立たないのだ。為政者がその存在に痛痒を感じないのでは、憲法を生かしてはいないことになる。
もっともっと憲法を使いこなそう。憲法の理念を実現する司法が必要だ。憲法の理念を実現することに執念を持つ法律家の育成も重要だ。そして何よりも、職場で、学校で、社会で、議会で、為政者の横暴に抵抗する運動がなくてはならない。
日本国憲法施行から60年。この憲法を守り抜いた国民の力量に乾杯。
そして、これを使いこなす国民の力量はこれからの課題。

疾風に勁草とならん

あらたまの年の初めに、人並みの感慨を綴らんとす。
天地鳴動することもなく、軍靴も爆音も直接には聞こえない、一見穏やかな正月。しかし、耳を澄ますと、時代の軋みが聞こえる。大地の底から。天空のかなたから。
この暮れに教育基本法が変えられた。格調の高い、すばらしい法から、無様な法に。しかも、こう変えなければならないことについての理由の説明は全くなかった。
愚かにも議員の数だけが、教育基本法「改正」の力だった。次は学校教育法・地教行法をはじめとする教育関連諸法規の改悪が待ち受けている。うかうかしていると、「戦争は教室から始まる」ことになりかねない。
本日の朝日の報じるところでは、日本経団連が、今後10年を見据えた将来構想「希望の国、日本」(御手洗ビジョン)を発表した。
「企業や官庁が日常的に日の丸を掲げ君が代を斉唱することを初めて提言した」と言う。恐るべきことではないか。愛国心の強制は、教室から企業、そして「スポーツイベントなど社会のさまざまな場所」に広がりつつある。
権力にとっても資本にとっても、望ましきは牙も魂もない従順なだけの人材なのだ。政権与党や官僚だけでなく、財界までもが愛国心を煽り、「基本的な価値観を共有する共同体の一員という自覚」を唱え始めた。

酷い時代となったものだ。どうしたらよいのやら。
まずは、今後キャノンの製品を買うことは一切やめよう。これまで私が経済制裁の対象としてきたのは、@産経・扶桑社、A日の丸タクシー、Bアメリカ産牛肉。これに続く、ささやかな抵抗手段としての個人的経済制裁‥。残念ながら、それ以外に有効な手立てを思いつかない。

60年余生きてきて、自分には社会を動かす力量のないことを良く知っている。しかし、時流に抵抗する姿勢は頑固に堅持したい。
「疾風に勁草を知る」とは気に入った言葉。疾風をとどめる力はなくとも、けっして風のまにまに靡くことはすまい。
せめては、年の初めに、そのくらいの覚悟を決めよう。