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日記

不当判決に対して控訴

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 2月7日、関東訴訟原告40名は、1月30日に東京地裁民事28部により言い渡された不当判決に対し、控訴しました。
 
 1月30日の東京判決は、その結論において不当なだけでなく、その内容においても最低・最悪の不当判決でした。

1)法的論理性(ロジック)の欠如

 判決は,原告が主張する先行行為に基づく作為義務が認められるためには,「法的」因果関係が必要であり,その「法的」因果関係が認められないなどとして,原告が主張した一連の歴史的事実の先行行為性を否定しています。
 しかし,判決は,例えば,@(「法的」因果関係のある)先行行為がなく,作為義務が発生しないとしたにもかかわらず,義務違反の有無を規定するための要件である予見可能性,結果回避可能性,そして義務違反の有無を「詳細」に検討しています。しかし,作為義務の発生を否定した以上,義務違反の要件の検討は論理的に不要なはずです。また,A原告主張の先行行為が先行行為足りえないと認定し,論理的に不要となるこれら先行行為と原告らが孤児となったこととの関係について論じています。そして,B先行行為性の判断に関する「法的」な因果関係の有無につき,「一定の歴史観・価値観に基づいた歴史的な評価を優先することにも問題がある」としておきながら,自ら後述のように極端な歴史観・価値観に基づく評価をしています。
 判決はさらに,国に自立支援義務はないと認定しつつも,自立支援義務違反の有無について検討しており,やはり論理的に不要な判断をしています。そして,その判示に続けて,わざわざ,国の自立支援策は「人道上必要であって実行可能なものとして行われた」,「生活保護の受給を受けられる」など原告の主張を否定するベクトルでの判示を行っています。加えて,義務も責任もないとしながら,原告の主張を歪曲した形で共通損害をまとめるという不要な作業までをも行っています。
 このように,判決には,結論を導くために不要な判示が,しかも原告の主張を否定する形で多数存在します。原告敗訴の大阪判決(2005.7.6)は,「不当判決」であるものの,それなりの論理性は認められたのに対し,加藤謙一判決は,上記のとおり「判決」に必要な論理の欠片すら見られない「意味不明」「解読困難」な,判決の体を備えていないものと断ぜざるを得ません。


2)驚くべき極端な歴史観と市民感覚からの乖離

 判決は,前記のように,価値中立的な歴史評価をすべき旨指摘しつつ,次に一例を示すように,驚くべき事実認定を行っています。
 例えば@満州国への移民について,「法的には,強制されたのではなく,自由な意志による判断に基づいて渡満したものとみざるを得ない」と当時の時代背景を無視した認定を行い,また,A「軍隊は原則として個々の民間人を直接に保護するものではなく,敵の軍隊と戦闘行為を行っていわば間接的に民間人の生命・身体その他の利益を守るものである」との独自の軍隊論を展開した上で,関東軍が国民を守る任務を遂行しなかったことについて免責し,さらに,B1972年の日中国交回復後,「帰国者及びその家族が一挙に大量に入国することになれば」「国内で混乱と厳しい批判の生じるおそれもあ」るとするなど,祖国への帰国を切望する原告に対し,祖国に帰ってくるな!と言わんばかりの市民感覚に反する認定を行っています。@〜Bはいずれも被告国すら主張していない事実を「価値中立的に評価」するとの前提で認定したものです。そして,C「原告らが生活保護の支給を受けられることを考慮すると,これらの施策の立案・実行が,著しく合理性を欠き,それによって原告らに看過できないほどの損害が生じているとまではいえない」とし,原告らの約6割以上が生活保護を受けている現状を直視しない(一般国民の受給率は約1%)特異な価値観に基づく認定もしています。
 以上のように,判決は,原告勝訴の神戸判決(2006.12.1)はもちろん,原告敗訴の大阪判決ですら触れられている,原告たちが歩んだ筆舌尽くしがたい苦難を顧みる一言もないまま,「人権の最後の砦」となるべき裁判所の存在意義を放棄しました。
 自民党の野田毅議員は「氷のように冷たい判決」,「暴論に近い内容が含まれている」と評し(2月1日衆議院予算委員会での質疑),作家の瀬戸内寂聴氏は,「こういう判決文の書ける人の想像力のなさに恐怖と絶望を覚え,身も心も震えあがった。」と述べています(2月3日付京都新聞)。

 原告団及び弁護団は,このような司法の正義を失墜させた判決の存在を全面的に是正するため,東京高等裁判所に控訴しました。
 皆様,是非あたたかいご支援をお願いいたします。

2・6市民フォーラムのお知らせ

 2月6日、「2・6市民フォーラム 『残留孤児』の支援策はどうあるべきか」を開催致します。
 1月31日,安部総理大臣は、原告団代表と面談し、「新しい支援制度」を約束したが、その内容は具体化されていません。そこで、「残留孤児」の支援策はどうあるべきか?それを実現するためには何が必要なのか?共に考えたいと思います。
 多くの皆様の参加をお待ちしております。

日時:2月6日(火)午後6時30分〜8:30
場所:航空会館大ホール
   東京都港区新橋1-18-1
   地図http://www.kokukaikan.com/tizu.htm
入場無料

次第:
1 開会あいさつ:橋本左内(国民学校1年生の会)
2 構成劇『わたしたちなにじんですか?−国に翻弄される人生』  
   出演:大阪・京都・兵庫訴訟原告ほか
3 シンポジウム
   コーディネーター:大阪訴訟弁護団・神谷誠人
(1)基調報告:木下秀雄氏(大阪市立大学法学部教授)
 「中国残留孤児の個人の尊厳と生活保護制度の問題点」
(2)シンポジスト発言:            
 @ 菅原幸助氏(全国原告団連絡会相談役)
 「政府(厚労省)の残留孤児施策の誤りはどこにあるのか〜ボランティアの経験から」
 A 浅野慎一氏(神戸大学発達科学部教授)
 「中国残留孤児訴訟の現代的意義と神戸地裁判決の意義」
 B 鍛治 致氏(京都大学大学院)
 「原告団生活実態調査アンケート分析結果」
 C 大久保明男氏(中国帰国者二世・三世の会代表)
 「2世・3世から見た生活保護制度の問題点及び2世・3世支援策の問題点」
(3)討論、質疑応答                
4 閉会あいさつ:安原幸彦(関東訴訟弁護団幹事長)

文化人緊急アピール

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1・30東京地裁判決をうけての緊急アピール
祖国よ 中国「残留孤児」の苦難の人生に謝罪し,
人間回復のための政治決断を

 2007年1月30日,東京地方裁判所は,中国「残留孤児」たちが,帰国の著しい遅れと帰国後の自立支援がきわめて不十分であったことの国の責任を追及した裁判において,国には中国「残留孤児」を早期に帰国させる義務も,帰国後に自立を支援する義務もまったくなかったとする,驚くべき不当な判決を言い渡しました。

 中国「残留孤児」が,「満州国」の建国,開拓団の送出,ソ連参戦を前にした関東軍の密かな撤退,終戦時の民間人置き去りなどの一連の国策によって生み出されたことは,動かすことのできない歴史的事実です。ところが,今回の東京地裁判決は,そのことすら否定し去りました。幼くして旧「満州」に取り残され,「日本鬼子」と呼ばれ,日本軍の犯した罪を一身に背負いながら,別れた親を思い,あたたかい祖国の懐に抱かれることを夢見て,中国の地で懸命に生きてこられた「残留孤児」の苦難の人生への思いやりがひとかけらもありません。終戦後40年以上もたって,やっとの思いで帰国した祖国での冷たい施策に対する批判的視点は全くなく,「政府や国会の責任で解決すべきだ」という言葉すらありません。
 国には,自国民を保護すべき基本的な義務があるという現憲法下における当然の条理を根本から否定した,歴史的にも,国際的にも,恥ずかしい限りの判決です。

 しかし,2006年12月1日,神戸地方裁判所は,中国「残留孤児」の被害は「自国民の生命・身体を著しく軽視する国の無慈悲な政策」によるものだと述べ,中国「残留孤児」の方々の被害に対する国の責任を明確に認めました。国民世論はこぞってこの判決を支持し,国は戦後60年以上も苦難の人生を送ってこられた中国「残留孤児」の方々が,せめてこれからの人生を安心して過ごせるような解決をすべきだ,控訴をすべきではないと願いました。
許し難いことに国は控訴しましたが,中国「残留孤児」を救済すべきだという世論の高まりの中で,このたびの東京地裁判決は国「勝訴」であったにもかかわらず,判決言渡しの翌日である昨1月31日,安倍総理大臣が全国の原告代表と会って,その苦しみを直接聞いたそうです。

 私たちは,戦後62年にもなる今年,国は「無慈悲な政策」を終わらせ,中国「残留孤児」の方々が心から祖国に帰ってきてよかったと思える解決が実ることを心から望みます。それは,「孤児」の方々の人間としての尊厳を回復すると同時に,国策によって再び幼い子どもが棄てられることがあってはならないという,多くの日本国民の願いにつながるものでもあります。
 私たちはこのような立場から,国民の皆さんと政府に向けて,緊急のアピールをするものです。

2007年2月1日


浅野慎一(神戸大学発達科学部教授)
池辺晋一郎(作曲家)
石坂啓(漫画家)
井出孫六(作家)
井上ひさし(作家・日本ペンクラブ会長)
衛藤瀋吉(東京大学名誉教授)
遠藤誉(筑波大学名誉教授)
岡部牧夫(著述業,歴史研究者)
小川津根子(ジャーナリスト・女性史研究家)
加藤登紀子(歌手)
木下秀雄(大阪市立大学法学部教授)
坂本龍彦(ジャーナリスト)
佐野洋(作家)
澤地久枝(作家)
ジェームス三木(脚本家)
新藤兼人(映画監督)
曾徳深(日本華僑華人連合総会会長) 
宝田明(俳優)
中島茂樹(立命館大学法学部教授)
永田秀樹(関西学院大学司法研究科教授)
仲代達矢(俳優)
羽田澄子(記録映画作家) 
林郁(作家)
人見剛(北海道大学法学部教授)
古川万太郎(元大学教授)
古谷三敏(漫画家)
松本克美(立命館大学法科大学院教授)
森村誠一(作家)
山崎朋子(ノンフィクション作家)
山田洋次(映画監督)
横井量子(演劇人)
渡辺一枝(作家)
渡辺義治(演劇人)

以上34名


※写真は2月1日法曹会館での記者会見
左より遠藤誉、澤地久枝、衛藤瀋吉、小川津根子、山崎朋子、渡辺一枝、井出孫六、林郁 各氏

安倍総理大臣と面談!「新たな支援策」を約束!!

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 1月31日、安倍総理大臣は中国「残留孤児」国家賠償訴訟の原告団代表7名と面談しました。安倍総理大臣は原告の1人1人と固く握手。原告の一人である池田澄江さんは、「残留孤児」が高齢化し、日本語に不十分な中で苦難の生活を強いられている実態を訴えました。これを受けて安倍総理大臣は、「(これまでの「残留孤児」対策に)不十分なところがあった。『残留孤児』と協議しながら『本当に日本に帰ってきたよかった』と思っていただけるように、また、『日本人として尊厳をもてる生活を』という観点から新たな対応を考えていきたい」と述べました。そして、引き続き原告団代表と面談した柳沢厚生労働大臣も、新たな支援策を今年の夏までに行うと述べました。

「残留孤児」は高齢化の一途を辿っており、解決をのんびり待っている時間はありません。わたしたちは、日本政府に対し、安倍総理大臣と柳沢厚生労働大臣が約束した「新たな支援策」について、以下の観点を踏まえた、内容ある具体的制度を早期に実現するよう強く求めます。

(1)「残留孤児」たちが戦後60年以上にわたって侵害され続けた人間の尊厳を回復すること
(2)言葉の障害や高齢化などに伴う経済的困窮から脱却し、医療介護を含め老後の生活の安定を図ること
(3) 社会から疎外され、孤立している状況から脱却すること

不当判決(弁護士会会長声明・談話)

中国残留孤児国家賠償請求訴訟東京地裁判決に対する会長談話(東京弁護士会)

 本日,東京地方裁判所は,いわゆる中国「残留孤児」国家賠償関東訴訟において,国の「早期帰国実現義務」,「自立支援義務」そのものを認めず,原告らの請求を全面的に棄却する極めて不当な判決を言い渡した。
 当会は,1986(昭和61)年10月,中国残留邦人に対し,一時帰国者・永住帰国者に対する対策と中国永住者・即時帰国できない者についての対策という2つの視点から,政府に対し,中国残留邦人に関する要望書を提出した。
 しかし,その後も中国残留邦人に対する支援策が不十分であったことから,2002(平成14)年12月20日,残留孤児40名が,国に対し,早期帰国実現義務違反と自立支援義務違反に基づく損害賠償請求訴訟を起こした。その後も全国各地で同種の裁判が提起され,現在,全国14地裁,1高裁において約2200名もの中国「残留孤児」が原告となり,被害救済を求めて闘っている。また6割を超える孤児が生活保護のもとでの生活を余儀なくされており,原告らの請求は切実である。
 しかしながら,本日言い渡された本判決は,このような原告ら中国「残留孤児」の思いや悲痛な叫びを一顧だにしない,極めて非情で冷酷な判決であった。
 2006年12月1日の神戸地裁は,国の「帰国制限」施策の違法および「自立支援義務」違反を厳しく指摘する判決を言い渡した。同日,安倍晋三首相は「中国残留孤児は高齢化しており,大変な苦労があったと思う。国としてきめ細かな支援をしていかなければならない」とコメントしたものの,実際になされた支援は,わずかに,「中国帰国者あんしん生活支援計画」経費(新規分)4億2400万円の予算増額がなされたのみであり,残留孤児の苦難に満ちた人生に対する政府の措置としては不十分極まりないものであった。
 戦後60年以上が経過し,残留孤児も高齢化が進み,残留孤児が生きているうちに残留孤児問題を解決するためには一刻の猶予もできない。
 当会は,国の責任を否定した本日の東京地裁判決に遺憾の意を表明するとともに,政府及び国会に対し,本日の東京地裁判決を評価するよりも,神戸地裁判決の判断を重く受け止め,引き続きその責任において,残留孤児の老後の生活保障など支援施策の抜本的な見直しや立法措置を行うなどの施策を早急に実現することを求めるものである。

2007年1月30日
東京弁護士会
会 長 吉岡桂輔

http://www.toben.or.jp/whatsnew/webapp/whatsnew/detail/?id_whats_new=671

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 中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟東京地裁判決に対する会長声明(第二東京弁護士会)

 第二次世界大戦終戦後、中国に取り残され、帰国した後も困難な生活を送っている日本人「残留孤児」たちが、国に対して損害の賠償を求めていたいわゆる中国「残留孤児」国家賠償請求東京訴訟(1次)において、東京地方裁判所民事第28部は、1月30日、原告らの請求をすべて棄却する判決を言い渡した。
 先に、日本弁護士連合会は、1984年の人権擁護大会において、「中国残留邦人の帰還に関する決議」を採択し、中国「残留孤児」を含む残留邦人の日本国籍取得の手続きを速やかに整備し、早期に日本への帰還を実現すべきことや、自立促進のための特別の生活保障策を速やかに講じることなど、残置された人々の人権を回復すべきことを国に対して求めた。しかし、その後も中国残留邦人に対する国の支援は十分に行われず、2002年12月の東京地方裁判所への本件提訴を皮切りに、永住帰国した元中国「残留孤児」の8割を超す2200人以上が、全国15の地方裁判所に損害賠償請求訴訟を提起する事態となった。
 今回の東京地裁判決は、「国の実質的な植民地政策や戦争政策は高度の政治的判断に基づくものであり、本来司法審査の対象とはならない」「そのような司法審査の対象外とされるべき国の政策を、国の作為義務を発生させる先行行為として取り上げることが相当であるのか疑問」などと述べたうえで、国の「早期帰国実現義務」と「自立支援義務」のいずれの存在も否定し、原告らの請求を全面的に退けた。
 昨年12月、本件と同様の事件について、神戸地方裁判所は「残留孤児」が生じるに至った経緯を具体的に認定したうえで、「戦闘員でない一般の在満邦人を無防備な状態に置いた戦前の政府の政策は、自国民の生命・身体を著しく軽視する無慈悲な政策であったというほかなく、憲法の理念を国政のよりどころとしなければならない戦後の政府としては、可能な限り、その無慈悲な政策によって発生した残留孤児を救済すべき高度の政治的な責任を負う。」として、国に総額約4億6000万円の支払いを命じた。今回の東京地裁判決は、この神戸地裁判決とは対照的に、国の義務を否定することによって中国「残留孤児」の法的な救済の途をとざすもので、人権の砦たる司法の役割に照らし、きわめて問題が大きいと言わざるを得ない。
 神戸地裁判決が指摘するとおり、日中国交正常化後も、「残留孤児」の多くが日本の親族の身元保証を求められるなどの制限措置によって帰国できない状態が続いた。やっと帰国できた「残留孤児」の多くが、日本語の教育を受けられず、就労の機会がないことから経済的困窮に陥っている現状は、深刻である。本件訴訟の原告らの6割以上が生活保護を受けている現実があり、高齢化も進んでいる。当会は、国会と政府に対し、少なくとも永住帰国した元「残留孤児」に対し、医療・住宅など生活全般にわたる支援制度や老後の所得保障制度を早急に整備することを、強く求める。

   2007年(平成19年)1月31日
第二東京弁護士会
会長  飯 田   隆

http://niben.jp/

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「中国残留邦人帰国者」の尊厳回復を求める会長声明(埼玉弁護士会)

 本年1月30日,東京地方裁判所民事第28部は,「中国残留孤児国家賠償請求東京訴訟」について,請求を棄却する判決を言渡した。
1 本判決は,国の「早期帰国を実現する義務」及び「自立支援義務」のいずれも認めず,同種事案の「兵庫県訴訟」における2006年12月1日付神戸地裁判決とは異なり,国の損害賠償責任を認めなかったものである。
2 しかしながら,本判決の原告らを含む「中国残留孤児」や「同婦人」と呼称される人々の人権問題について,日本弁護士連合会は,1984年の人権擁護大会において「中国残留邦人の帰還に関する決議」を採択し,その中で特に,国に対し特別の生活保障等の立法措置を速やかに講ずるよう求め,さらに,2004年3月には,日本政府の任務懈怠により,「中国残留邦人」は,1945年8月の敗戦前後の時期に中国東北部(旧「満州」)に取り残されたまま長年月にわたって中国に「残留」を余儀なくされ筆舌に尽くし難い苦難を被り続けた上,さらに,帰国が実現した後も今日にいたるまで尊厳に値する生活を保障されてこなかったとして,国に対し生活保護によらない特別の生活保障給付金制度の創設等を勧告しているのである。
3 本判決の原告らによる2002年12月の提訴に始まり,この間全国15の地方裁判所に総勢2000名を超える「中国残留孤児」による同種訴訟が提起されている。その中の「大阪訴訟」で請求自体は棄却した2005年7月の大阪地裁判決でも,「中国残留邦人」のうち帰国が実現した人々(以下「中国残留邦人帰国者」)の「多くが生活保護により生活をしている実態は看過することはできない」と指摘されていたのであり,また,上述の神戸地裁判決は,厚生労働大臣の「自立支援義務」の懈怠が違法であるとして国の損害賠償責任を認めたもので,これら判決が示すとおり,中国残留邦人帰国者の生活支援策の策定は国の喫緊の課題といわねばならない。
4 しかるに,この間,政府及び国会は,中国残留邦人帰国者に対する抜本的且つ十分な支援策を何ら具体化することもなかった。本判決後,安部首相は,政府・与党で中国残留邦人帰国者の支援策の拡充を検討する考えを明らかにしたが,厚生労働省は,他の「戦争被害者」支援との均衡を欠くとして難色を示していると報道されている。 
5 当会は,政府及び国会に対し,中国残留邦人帰国者の人権問題は,「戦争被害」によるものというよりも,むしろ「戦後」の内閣及び国会の任務懈怠による被害であること,及び,帰国者の殆どが帰国時点で既に高齢となっており,その残された時間が必ずしも長くないことを真摯に受け止め,直ちに,本判決の原告らを含むすべての中国残留邦人帰国者の人間としての尊厳を回復するため,生活保護によらない特別の生活保障給付金制度等の生活支援に向けた施策策定等を直ちに実現するよう強く求める。

 2007年1月31日
 埼玉弁護士会会長 蔭 山 好 信

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中国残留孤児国家賠償請求訴訟東京地裁判決に対する会長談話(横浜弁護士会)

 平成19年1月30日,いわゆる中国残留孤児国家賠償訴訟について,東京地方裁判所は,「早期帰国実現義務」及び「自立支援義務」そのものを認めず,原告らの請求を全面的に棄却する判決を言い渡した。
 原告ら中国残留孤児(以下単に「残留孤児」という)は,幼くして満州の地に取り残されてから現在に至るまで,約60年間の長きにわたり,日本人であれば当然に有すべき権利を侵害され続け,帰国後も6割を超える残留孤児が生活保護を受給するという悲惨な状況で生活し,さらに,老後の生活にも不安を抱えている。全国には約2500名の帰国した残留孤児が生活しているところ,神奈川県在住の約200名を含む残留孤児が東京地方裁判所へ提訴したのを皮切りに,15ヶ所の地方裁判所に,総数2000名を超える残留孤児が本件と同様の訴訟を提起している。
 ところが,本判決は,原告ら残留孤児の被害の実態から目を背け,日本人としての尊厳の回復を求める原告らの願いを退けた。
 日本弁護士連合会は,1984年の人権擁護大会で,「中国残留邦人の帰還に関する決議」を採択し,残留孤児を含む中国残留邦人の日本国籍取得手続を速やかに整備して早期帰還を実現することや,自立を促進する特別の生活保障をするなどの特別立法を含む諸措置を速やかに講ずることを求めた。また,2004年3月には,人権救済申立を受けて,日本弁護士連合会が国に対して,帰国促進策等の徹底や戸籍回復・国籍取得手続の改善のほか,生活保護によらない生活保障給付金制度の創設や日本国民が受給する平均金額以上の年金が受給可能となる所要の立法措置を講ずることなどを勧告している。
 横浜弁護士会は,国が原告ら残留孤児に対する責任を速やかに認めることを願うものであるが,残留孤児のほとんどが高齢となっている現状において,その生活支援の必要性があることは紛れのない事実であり,そのための抜本的な支援策の実現が急がれる状況にあることにかんがみ,政府及び国会は,このような状況を重く受け止め,速やかに残留孤児の老後の生活保障など支援施策の抜本的な見直しや立法措置を行うなど施策を実現することを強く求めるものである。

2007年1月31日
  横浜弁護士会
   会 長  木 村  良

http://www.elint.co.jp/yokoben/info/statement/f_20070201_11182.html

07.1.30東京地裁判決の要点QアンドA

Q1 07.1.30東京地裁判決の内容を一言で言うとどういう判決ですか

A 判決内容を一言で言えば、「意に反して海外に留め置かれた日本人同胞について、国家はその早期帰国の実現をはからなくてもいいし、帰国後に支援しなくてもいい」というものです。
この理屈でいくと、国は北朝鮮拉致被害者を救出する義務もないし、帰国後に支援する義務もないことになります。それほど東京地裁の判断は、国民意識や社会常識に反するものと言わざるを得ません。判決は随所に「法的判断」を強調していますが、「法的判断」が国民意識や社会常識からかけ離れていいわけがありません。神戸地裁判決(06.12.1)は、孤児の帰国を制限する国の措置を違法と判断しましたし、結論的には孤児たちの請求を認めなかった大阪地裁判決(05.7.6)も、「帰国を希望する残留孤児のために早期帰国を実現させる施策を立案実行すべき」義務があったと判断しています。こうした点からも、今回の判決は、非常に特異な判断です。


Q2 判決は、残留孤児が発生した原因についてどう認定しているのですか

A 満州国の建国、移民政策、ソ連参戦を前にした関東軍の密かな撤退、終戦時の民間人の置き去りなどの一連の国策が、残留孤児を生み出した原因であることは、歴史的事実であり、大阪地裁判決・神戸地裁判決でも認定されている事実です。神戸地裁判決は、これを「無慈悲な政策」と述べました。
 ところが、判決は「法的因果関係」がないとして、それを否定し、何とソ連の侵攻だけを取り上げて孤児発生の原因としました。だから、国には救済する義務がないというのです。しかし、これまた「法的判断」の名の下に歴史事実に目をつぶるものであり、とうてい受け入れられません。


Q3 どうして判決は国交回復後まで帰国させなくてよいというのですか

A 判決は国交回復の時点では、既に26年以上経過しているので、既に「損害の発生という結果が生じてしまっている」とし、いかにも今さら手遅れだから、帰国を実現しなくてもいいと言わんばかりの判断をしています。
 とんでもありません。72年の国交回復から本格的に帰国が始まった85年までの13年の遅れは孤児たちに重大な被害を与えました。帰国が遅れるにつれて身元未判明および生活保護受給の率が高くなることも明らかです。
 さらに驚くべきことに判決は、大量に帰国させると、「国内で混乱と厳しい批判の生じるおそれ」があるとまで述べています。祖国に帰りたいという孤児の切実な願いと「国内の混乱」といったいどちらが重要だというのでしょうか。


Q4 判決が孤児の被害補償を認めなかった理由のポイントは何ですか

A 孤児の被害は戦争損害である、戦争ではみんなが損害を受けたのだから孤児といえども受忍すべきだ、というのです。
 しかし、孤児の被害は、歴史的には戦争に起因する被害ですが、より本質的には戦後の日本の政策による被害です。日本社会で育った日本人なら、どんなに貧しくても、どんなにハンディキャップを負っていても、少なくとも、日本語・日本の生活習慣・家族や友人関係など、日本で社会生活を送る基本的な能力・資質・人間関係を身につけています。しかし、孤児らは、戦後長期にわたって中国に置き去りにされたため、日本語や日本の生活習慣を身につける機会を全く与えられず、日本における人間関係を形成できず、何の財産もないまま、日本での生活を始めることを余儀なくされました。
 孤児たちが要求する「孤児独自の給付金」は、いかなる立場にある国民でも、戦後多かれ少なかれ享受することができた戦後復興の恩恵を孤児にも還元するものです。従って,戦争被害一般に対する補償とは全く趣旨を異にします。


Q5 判決はどうして孤児の生活支援をしなくていいとしているのでしょうか

A 判決は国に早期帰国実現義務がないのだから、帰国が遅れたことによる生活困窮を助けなくてもいいと判断しています。
 しかし、義務や義務違反の点をおくとしても、少なくとも戦後の政策によって帰国が遅れた孤児に対し、生活支援をしなくていいわけがありません。
 判決は生活保護で処遇しているからそれでいいとも述べています。これは国の主張の全くの引き直しです。孤児たちは、中国では社会人として立派に役割を果たしてきた人たちであり、能力もプライドも持っています。しかし、帰国の遅れと自立支援政策の不十分さの結果、その能力が活かせないために、生活苦に陥っているのであって、本来なら自立して生活できる人たちなのです。そのために、孤児たちは生活保護を受けること自体に強い屈辱感を感じるとともに、人間として、あるいは国民としての尊厳を傷つけられている現状を何とかしてほしいと訴えているのです。

不当判決(原告団・弁護団声明)

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              2007年1月30日

中国「残留孤児」国家賠償関東訴訟の判決について

     中国「残留孤児」国家賠償関東訴訟・原告団
     団 長  池 田 澄 江
     中国「残留孤児」国家賠償関東訴訟・弁護団
     団 長  鈴 木 經 夫


 本日,中国「残留孤児」国家賠償関東訴訟について,東京地方裁判所民事第28部は,原告らの請求を全面的に棄却する判決を言い渡した。
 本判決は,「早期帰国実現義務」,「自立支援義務」そのものを認めず,全面的に請求を棄却する極めて不当なものである。

 原告らは,幼くして満州の地に取り残されて以来,現在に至るまで,約60年間の長きにわたって,国の誤った孤児政策によって,「日本人として,日本の地で,人間らしく生きる権利」という,日本人であれば当然に有すべき権利の侵害を受け続けてきた。
 本件訴訟は,このような原告らが,国の政策の過ちを問い,日本人としての,そして人間としての尊厳の回復を求めるとともに,国策によって子や孫を再び残留孤児にするようなことがあってはならないとの願いを込めた裁判であった。さらには,私たち国民一人ひとりが,戦後一貫して日本人として当然の権利から排除,隔離されてきた日本国民がいるという現実を直視し,戦後日本の民主主義の質を問い直す契機となるべき,現代的意義をも有する裁判であった。

 ところが,本判決は,原告ら中国「残留孤児」の被害の実態から目を背け,日本人としての,人間としての尊厳の回復を求める原告らの思いを退けた。
 原告ら中国「残留孤児」は,これまで幾度となく祖国日本に見捨てられ,国会請願により国権の最高機関の良識ある対応を求めたが受け容れられなかったため,戦後約60年が経過してようやく「人権擁護の最後の砦」である司法に一縷の望みを託し,その救済を求めたのである。原告ら中国「残留孤児」にとって,司法が,日本人としての,そして人間としての尊厳の回復を求めることのできる,唯一最後の望みであった。
 しかしながら,本日言い渡された本判決は,このような原告ら中国「残留孤児」の思いを一顧だにしない,極めて非情で冷酷な判決であった。
 「人権の最後の砦」となるべき司法が,このような判決を下すことは,その職責を放棄したと言わざるを得ず,我々,原告団および弁護団は,この判決に対して強く抗議するものである。また,同時に,本判決に対しては,直ちに東京高等裁判所に控訴し,全国14の裁判所で闘っている原告(総勢約2200名)らと共に,闘い続けることを表明する。

 本判決は,国の責任を認めなかったが,昨年12月には,神戸地方裁判所が,国の「帰国制限」施策の違法および「自立支援義務」違反を厳しく断罪する判決を言い渡している。また,昨年2月に東京地裁で言い渡された先行訴訟判決(野山判決)においても,国の自立支援策が極めて不充分であったと厳しく指摘しており,国はこうした判断を真摯に受止めるべきである。

 現在,全国の中国「残留孤児」らの8割を超える者が提訴し,深刻かつ悲惨な生活実態を訴え,かつ高齢化する中で早期の解決を求めている。そして,中国「残留孤児」らを救済するために新たな支援策を作るべきであるという声が大きな世論となっている。
 我々,原告団および弁護団は,国に対し,中国「残留孤児」らが悲惨な生活実態に置かれていることを直視し,中国「残留孤児」らに対する施策を抜本的に転換し,全国原告団連絡会が要求する全面解決要求事項について,原告団および弁護団と早急に協議を開始し,中国「残留孤児」問題の全面解決を図るよう強く要求する。
 また,同時に,我々,原告団および弁護団は,中国「残留孤児」問題の全面的解決の実現まで,全力で戦うことをここに宣言する。

 最後に,この訴訟に対し,署名・傍聴活動等により絶大なるご支援をいただいた全国の支援者ならびに他地裁の原告団・弁護団の方々,そして原告らを勇気付ける温かい取材と報道に取り組まれたマスコミ各位に対し,心よりお礼を申し上げるとともに,今後も,全面解決に向けてのますますのご協力とご支援をお願いするものである。
以 上

※※※※※※※※※
声      明
中国「残留孤児」全員に人間の尊厳の回復を!

                2007年1月30日
     中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告団全国連絡会
     中国「残留孤児」国家賠償訴訟弁護団全国連絡会

 私たちは、2002年12月から今日まで、全国15地裁へ中国「残留孤児」2210名を原告とする国家賠償訴訟を提起し、法廷内外で闘ってきました。その目的は、裁判によって戦後60年に及ぶ「残留孤児」の筆舌に尽くしがたい深刻な被害をもたらした国の誤った「孤児」政策の違法性を明らかにすることによって、全国の「残留孤児」が願ってやまない「普通の日本人として、人間らしく生きる権利」を実現するにふさわしい政策を確立することが出来ると考えてのことです。
 昨年12月1日、私たちは、神戸地裁において待望の勝利判決を得ることが出来ました。神戸地裁判決は、帰国「孤児」の6割以上を生活保護の下で苦悩させている冷酷な国の「孤児」政策に対する厳しい国民的批判を引き起こしました。さらに、大半の「孤児」を生活保護から解放し、老後を人らしく生きることが可能となる「新たな給付金制度」の創設に対する国民的な理解と支持を強めるに至りました。また、「孤児」の悲劇を創り出した無慈悲な国の政策を厳しく指弾したとこれを支持する世論の高まりは、判決は、国会議員の中から政治の責任において中国「残留孤児」問題を解決しようとする動きを一段と加速させつつあります。
 これに対し、政府は、判決直後安倍首相が、国としての中国「残留孤児」に対する「きめ細かな支援」を表明したものの、従来の誤った政策を若干手直すためにわずかの予算を増額しただけで決着つけるという非情な構えをとっています。
 本日の判決は、原告40名を対象としているものの、全国の「孤児」原告の約半数となる1092名に及ぶ原告の訴訟を担う東京地裁の最初の判決です。それだけに、本日の判決を前にして近時国民世論の強い関心を改めて呼び起こすとともに、この判決が政府と国会が中国「残留孤児」問題を全面解決する契機となることへの国民的期待が高まりつつありました。
 このような状況の下で,本日,東京地裁は,国民の期待に反して極めて不当な判決を言い渡しました。同地裁判決は,事実を著しく歪曲し,国民の支持さえ得ることのできないものであって,神戸地裁判決の価値はいささかも揺るがないものと確信します。

 私たちは、政府に対し、次の通り要求します。
 ― 神戸地裁判決を真摯に受けとめ、これ以上裁判を争うことなく、中国「残留孤児」に対し謝罪するとともに、全ての中国「残留孤児」が日本人として人間らしく生きることが可能となる新たな給付金制度の創設を決断すること。
― 厚生労働省は、中国「残留孤児」原告団との定期協議の場を設け、中国「残留孤児」問題を全面的に解決するため、誠実に努力すること。

 最後に、私たちは、あらためて国民の皆さんに訴えます。
― 神戸地裁判決が認定した中国「残留孤児」発生と戦後60年に及ぶ苦難の歴史の真実について認識をより一層深めていただき、国がこれ以上不当に裁判を争うことを止め、速やかにこれまでの誤った政策を抜本的に転換をするよう政府へ働きかけてください。
― 中国「残留孤児」の人間回復を求める国民署名へ100万人を超える人々が署名してくれたことに示されるこれまでの私たちへのご支援に心から感謝するとともに、今後も私たちの「全面解決要求」を実現する闘いに対し引き続きご支援を下さるようお願いいたします。

以  上

不当判決(判決骨子)

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 1月30日東京地方裁判所は、原告40名全員の請求を棄却する不当判決を下しました。

【判決骨子】
平成14年(ワ)第27907号 損害賠償請求事件
平成19年1月30日午後1時30分 103号法廷

〔主  文〕 原告らの請求をいずれも棄却する。
〔理由の要旨〕
1 国が,原告らの早期帰国を実現する法的義務を負うと認めることはできない。
ア 原告らが早期帰国実現義務の根拠と主張する憲法,国際法・条約,法令は,いずれも,国に早期帰国実現義務を認める根拠とはならない。
イ 先行行為に基づく条理上の作為義務としての早期帰国実現義務も,認められない。
 歴史的な事実経過として,原告ら主張の先行行為,すなわち,満州国の建国,国策としての満州国への移民政策とその実施,昭和19年以降関東軍の防衛力が低下し,危険が高まったにもかかわらず,移民に対する何らの保護策をとらず,移民を送り続け,あえて民間人を危険な状態においたことなど,一連の政策決定とその実行のいわば延長線上に原告らが孤児となる事態が発生していることが認められるが,紛争の法的解決を目的とする民事裁判においては,これらを,国の法的責任の根拠となる先行行為(原告らが孤児となった法的な原因)とすることはできない。
ウ 原告らの損害は,戦争から生じた損害とみるべきものであり,条理によって,国に法的な早期帰国実現義務を認めることもできない。
2 原告らの帰国が遅れたとの主張に関して,国に何らかの違法又は著しく不当な行為があったものとは認められない。
3 国が,原告らに対して,法的な自立支援義務を負うと認めることはできない。  国がこれまでとってきた自立支援策は,人道的な見地から実施されたものと考えられ,これが法的に違法又は著しく不当であるとすることはできない。
4 原告らが主張する原告らすべてに共通する損害は,@中国で孤児となって中国人養父母に養育されたこと,A日本人の両親と暮らすことができず,日本語を母語とすることができなかったこと,B37歳前に帰国できなかったことであるが,これらの原因が,国の違法行為であると認めることはできない。 (以上)

※1.30レポート
http://www.geocities.jp/czk_oka/index.html
(中国残留孤児in岡山)

判決行動に多数の参加を!

「中国残留日本人孤児訴訟」
東京地裁判決行動に多数の参加を!!

昨年12月1日の「神戸地裁勝利判決」に続いて、1月30日いよいよ「東京地裁判決」が出されます。東京地裁訴訟は、孤児原告団の半数の1000名以上が参加した大型訴訟で、各方面から大きく注目されています。この判決を受けて、原告団・弁護団・支援者は次の一連の行動を展開します。多数の方々がご参加いただきますよう心から呼びかけます。

☆判決報告集会(1月30日・PM6・30・日比谷公会堂)
1月30日(火)PM1時30分、東京地裁判決が言い渡されます。これを受け、午後6時30分から日比谷公会堂で「判決報告集会」が開かれます。弁護団報告・全国の原告団の決意表明・政党代表挨拶・原爆症訴訟団の連帯挨拶などが行われます。会場を埋め尽くすご参加をお願いします。

☆国会請願デモ(2月2日・AM11・30・日比谷霞門集合)
2月2日(金)正午(12時)から1時まで、「国会請願デモ」を行います。1日比谷公園霞門前に11時30分集合です。原告以外の支援団体・個人の参加が大きな意味を持ちます。多数のご参加を期待いたします。
※首相官邸前宣伝行動 1月31日・2月1日・2月2日 AM8・00-9・00
※厚生労働省前行動   1月31日・2月1日 正午から1時まで


◎〜市民フォーラム〜
 「残留孤児の支援策はどうあるべきか」

裁判の大きな山場を迎えて、市民を中心にしたフォ-ラムを開きます。   
★期日・時間 2月6日(火)PM6・30-8・30
★会 場  航空会館(http://www.kokukaikan.com/tizu.htm
★基調報告 木下秀雄(大阪市立大学教授)
シンポジスト 
 浅野慎一(神戸大学教授)
 鍛冶致(大阪大学院生)
 菅原幸助(原告団相談役)
 大久保明男(2世代表) 
コーディネーター 
 神谷誠人(弁護士)氏他
★会場発言・討論など 
※200人の会場を満杯にしましょう!

連絡先
中国「残留」孤児国賠訴訟 全国原告団・弁護団孤児・市民連絡会
п@03-3447−1620

国会請願署名ご協力のお願い

 1月30日の東京地裁判決を受けた後、2月2日に原告団、弁護団、支援者は中国「残留孤児」問題の全面解決を求めて、国会請願デモを行い、その際下記内容の衆参両議院議長宛署名を提出します。
 署名にご協力お願い致します。

 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/219.pdf より、署名用紙をダウンロードできますのでプリントアウトして、中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会(〒141-0022東京都品川区東五反田1-13-2五反田富士ビル5F五反田法律事務所内 TEL/FAX 03-3447-1620)までお送り下さい。


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中国「残留日本人孤児」問題の全面解決を求める請願

 中国「残留日本人孤児」は、戦前、国策により国内各地から中国東北部(旧満州)に移民させられ、1945年の終戦の直前直後には、移民に応じた多くの日本国民が筆舌に尽くしがたい逃避行を強いられ、その中で家族と離散し多数の幼子がひとり中国の大地に取り残され、中国人に預けられるなどして奇跡的に一命をとりとめて生き延び、その後長年の間中国の地で人生を過ごすも、なお望郷の念にかられ、晩年は母国で平穏に暮らしたいと念願し日本に帰国してきた人たちです。ところが、これまでの日本政府の「孤児」に対する政策は、生活保護を中心とする極めて不十分なものでした。
 昨年12月1日の神戸地裁判決は、「孤児」の被害は戦争損害ではなく、政府が日中国交回復後に「孤児」の救済責任を負っていたにもかかわらず、様々な帰国制限の措置を講じたことは違法であると認め、かつ、帰国後の自立支援が法的義務であることを認定し、それが北朝鮮拉致被害者に対する支援策より貧弱であることは許されないと判示しました。
 これに対して、安倍晋三首相は「きめ細やか支援をしていかなければならない」と談話を発表し、与党中国残留孤児プロジェクトチーム(座長・野田毅議員、座長代理・漆原良夫議員)も下記請願事項を首相官邸に申し入れました。ところが、厚生労働省は、従来の政策を改めようとしていません。
 「孤児」たちは、普通の日本人として平穏に暮らせる保障を求めて、全国15地裁で裁判を起こしています。今後、東京地裁、徳島地裁、広島地裁、高知地裁などで判決が言い渡されます。この判決を契機に、日本政府がこれまでの孤児政策を抜本的に転換することが求められます。
 そこで、私たちは「孤児」たちが「心から『日本に帰ってよかった』と言えるため」に、特に次の事項の実施を請願いたします。

1 「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立支援に関する法律」(自立支援法)を改正し、国の責任において「残留孤児」の生活を保障・支援する旨を明記すること。
2 「残留孤児」の生活保障のため、「残留孤児」を対象とした新たな給付金制度を創設すること。

衆 議 院 議 長 殿
参 議 院 議 長 殿

第2陣訴訟口頭弁論06.12.22(その3)

続いて、坂口禎彦弁護士からは、除斥期間に関する被告国の主張の誤りについての弁論が行われました。

また、米倉洋子弁護士は、原告1052名の生年月日、帰国年月日、判明・未判明の別、生活受給状況等の基礎的データを分析した結果に基づき、グラフ等をパワーポイントで示しながら、原告らの帰国の状況、判明・未判明の状況は、原告ら個人の事情によるものではなく、国の政策によりその運命が翻弄されてきたものであること、その誤った政策の結果である帰国の遅延が、原告らの今日の窮状に直接の因果関係を有する原因となっているということについて明らかにしました。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/217.pdf

その後、原告側から証拠として提出された『祖国よ!償いを〜高齢化する中国残留孤児』(SBC信越放送2005年5月19日放映)のビデオが上映されました。

裁判終了後、原告、支援者、弁護士は東京地裁宛公正判決要請署名59,636筆(累計189,636筆)を裁判所に提出しました。

第2陣訴訟口頭弁論06.12.22(その2)

さらに、原告団代表の宇都宮孝良さんが意見陳述を行いました。その内容は以下のとおりです。

1 私は原告番号1番の宇都宮孝良です。12月1日、残留孤児神戸訴訟について、神戸地裁は、国の責任を認める原告勝訴の判決を言い渡しました。原告が勝ったとのテレビの速報が流れたとき、胸が熱くなり、涙がこぼれました。私たちの長かった苦しみにようやく光が差し込んだと感じました。

2 神戸地裁判決は、「戦闘員でない一般の在満邦人を無防備な状態に置いた戦前の政府の政策は,自国民の生命・身体を著しく軽視する無慈悲な政策であった」と認定した上で、戦後の政府には,可能な限り,その無慈悲な政策によって発生した残留孤児を救済すべき責任があると認定しています。
 私の場合も、父を根こそぎ動員で奪われ、ソ連軍が侵攻してきたとき、母は、当時4歳だった私と姉を連れ、千振から佳木斯まで命がけで避難しました。しかし佳木斯の難民収容所にたどり着いたところで母は体調を崩してしまい、まともな治療も受けられず、母は、そのまま収容所で亡くなり、私は、中国人の養父に引き取られたのです。
 もし、国が、開拓団民の安全を第1に考え早期に避難させていたら、また、父が動員されていなかったら、私たち家族は、日本に引き揚げてくることができたかもしれません。私が中国人の養子となり,中国に留まることになったのは,まさに,「自国民の生命・身体を軽視する無慈悲な政策」の結果に他なりません。

3 また、神戸地裁判決は、自分の本当の親兄弟に会いたい、あるいは、祖国の地に帰還したいという残留孤児の願望は、人間としての最も基本的かつ自然な欲求の発露にほかならない、と述べていますが、私も、養父に引き取られたときから、日本に帰りたい、父や親族に会いたいという思いをずっと抱いてきました。しかし、何の情報もなく、どうすることもできませんでした。 
 1972(昭和47)年、日中国交が正常化し、同時に文革も下火になり、日本人探しを始めました。人づてに佳木斯にも日本人がいることが分かり、残留婦人の一人に手紙を書いて貰い、日本の厚生省に出して貰いました。日本名や家族の名前、出身地などは覚えていなかったので、収容所の名前・場所、母・姉とはぐれた場所、養父母の名前・住所などを書きました。その後も厚生省には何度も手紙を書きましたが、返事は来ませんでした。
 日本大使館にも4、5通手紙を出しましたが、大使館から、整理番号が第5959番であるとの知らせがきただけで、同封されていた調査用紙に必要事項を記入して送りかえしても、それに対する返事はありませんでした。
 その後1978(昭和53)年頃、同じ佳木斯に住んでいる女性の残留孤児の身元が分かったのです。その人も私と同じように父親を捜すために、残留婦人に頼んで手紙を書いて貰って厚生省に出したところ、運良く身元が分かり、父親が見つかったのです。この残留孤児が、同じ原告の一人である森実一喜さんです。
 森実一喜さんは、私より1歳年下ですが、終戦時、母親と一緒に佳木斯の収容所にいたことがあり、またいろいろ話を聞いてみると、私と同じ開拓団にいた可能性があることが分かりました。
 そこで、森実さんの父親だったら私のことについて何か知っているかもしれないと思い、わらにもすがる思いで、残留婦人に頼んで、森実さんの父親に手紙を書いて貰ったのです。そのとき私が11歳くらいの時に撮った写真を入れておきました。
 この写真が決め手となりました。森実さんの父親は、その写真を見て私が宇都宮孝良であると思ったそうです。
 その後、森実さんの父親から手紙が届き、私の名前や家族のこと母の実家の住所などを教えてもらいました。
 こうして、私の身元が分かり、1981(昭和56)年の第1回訪日調査に参加し、翌1982(昭和57)年3月17日、家族と一緒に帰国することができました。
 国は、当初、身元の分からない孤児の帰国を認めない方針をとっていました。そのため、帰国するには、自分の身元を証明しなければなりませんでしたが、国は、私の身元調査のために殆ど何もしてくれませんでした。私は、森実さんのおかげで運良く身元が判明しましたが、それでも10年近くの歳月がかかりました。もし、国が、孤児の身元調査を積極的に行い、身元の判明・未判明にかかわらず、帰国を希望する孤児を何の制限も設けずに帰国させるという方針をとっていれば、私は、どんなに遅くとも日中国交回復直後に帰国することができたはずです。神戸地裁判決は「日中国交正常化時に若くはなかった残留孤児の帰国をいたずらに遅らせ、残留孤児の高齢化を招き、残留孤児が日本社会に適応することを妨げたのであり、残留孤児に対する政治的に無責任な政府の姿勢は強く非難されて然るべきである」と述べていますが、正に私はその実例に他なりません。

4 また、帰国してからも国は、私たちに対し、殆ど何の援助もしてくれませんでした。当時は定着促進センターなどなく、私たちは、愛媛県西宇和郡三瓶町の町営住宅に住むことになり、私は、近くの浜田電機工場に勤め、船舶の修理の仕事に従事しました。しかし、給料も安く、他に仕事は見つからず、なんといっても日本語を習うところがなかったのが困まりました。
 そこで、1983(昭和58)年2月頃、友人の太田昇さん(佳木斯に住んでいた残留孤児)を頼って、東京に出ることにし、江戸川区平井の民間アパートに移り住みました。職安の紹介で、理研金属工業鰍ノ勤め、新小岩の電車修理工場で働き、夜は、小松川中学校で開いている日本語夜間学校に通いました。2年間ここで日本語を習いましたが、簡単な日常会話はできるようになっただけで、複雑な会話は今もできません。日本語ができないために職場内でもいろいろな差別を受けてきました。
 神戸地裁判決は、「拉致被害者が自立支援を要する状態となったことにつき,政府の落ち度は乏しい。」「これに対し、残留孤児が自立支援を要する状態となったのは政府の措置の積み重ねの結果であるから」、残留孤児に対する自立支援策が、拉致被害者に対する支援策よりも貧弱でよいわけがない、と判断しました。
 しかし、国は、私に対して、日本語学習支援、就労支援を全く行わず、その後の孤児に対する支援策も拉致被害者に対する支援策に比べて極めて不十分なものでした。

5 神戸地裁判決は、私たちの訴えに耳を傾け、国の責任を明らかにしました。現在、全国に約2200名の原告がいますが、みな神戸地裁判決に確信を持ち、全国の代表数百名が東京に結集して、12月1日から、連日、国会議員を訪ね、この意見書の末尾に添付したパンフレットを渡して、中国残留孤児問題の全面解決を訴えてきました。同時に、厚労省前に座り込み、この判決を踏まえ、首相や厚労省に対し、私たち孤児が老後を安心して暮らせるよう政策を作って欲しい、そのために私たちとの話し合いに応じて欲しいと、連日訴えてきました。しかし、厚労省は、私たちとの話し合いに応じようともせず、12月11日、不当にも控訴をしてしまいました。
 私たちは、終戦時に国から見捨てられ、その後も長い間放置され続けてきましたが、今回の控訴で、国から再び切り捨てられたという思がします。どこまで私たちを苦しめれば、国は満足するのでしょうか。
 原告団は,みな高齢になっています。今は生活保護に頼らず頑張っている孤児も、働けなくなれば、生活保護に頼らざるを得なくなってしまいます。現在、孤児が置かれている現状では、社会的地位も、人権も、自由もありません。
 私たちに残された人生は長くはありません。裁判官の皆さん、苦労に苦労を重ねてきた「孤児」たちが、せめて祖国での老後を安心して暮らせるようにして下さい。そのために、ぜひとも、神戸地裁判決を超えるすばらしい判決を出していだき、1日も早く中国残留孤児問題を全面的に解決できるようにしてください。
 このことを、強くお願いして、私の意見陳述を終わります。

第2陣訴訟口頭弁論06.12.22(その1)

 12月22日、東京地裁で第2次訴訟以降(原告1052名)の訴訟の口頭弁論が開かれました。

 原告側より、まず、斉藤豊弁護士が、12月1日神戸地裁が下した原告勝訴判決の法律上の意義と本件訴訟との関係について意見陳述を行いました。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/214.pdf

 続いて、小野寺利孝弁護士が以下のとおり、意見陳述を行いました。

1.神戸地裁12.1判決の受けとめ
 裁判官の皆様は、神戸地裁12.1判決をどのように受けとめられたでしょうか。
 私は、先ず、この間の諸々の活動をとおして知った「孤児たち」の、そして「世論」と「政治」が「神戸地裁判決」をどのように受けとめたかについてご紹介したいと思います。
⑴ 孤児たちの受けとめ
@ 大阪地裁大鷹判決の克服という全国の孤児の期待を一身に背負って判決に臨んだ神戸訴訟原告団長初田三雄さん(12月4日PM4:10〜厚労省記者クラブでの発言、甲総158の7でその生活ぶりが詳しく紹介されている。)
「その判決を聞いた後に暖かい血液が全身を流れたという思いでした。そのとき初めて、国民や政府が、私たち孤児を日本人としてやっと受け入れてくれたと思いました。」
A 昨年7月不当な大鷹判決以来、勝訴判決めざし必死になって闘い続けてきた大阪訴訟原告団長松田利雄さん(12月7日大阪高裁更新弁論での意見陳述)
「神戸地裁で、私たち孤児は、初めて光を見ました。この判決は、孤児たちを初めて「日本人」として認めてくれたのです。」
B 全国で最初に裁判闘争に立ち上がった東京訴訟原告団代表であり、全国原告団連絡会議の代表でもある池田澄江さん(12.1司法記者クラブ、12.4厚労省記者クラブでの発言)
「とてもうれしい判決。日本人に生まれて良かった。祖国に帰ってきて良かったと言える。」
「この判決は、61年も凍った心を溶かしてくれたようです。未来を生きていく光も見せてくれました。この判決は、私たち孤児の大きな精神的支えです。」
 以上紹介した3人は、いずれも全国訴訟原告団の中心的な存在です。その受けとめ方は、全国の孤児原告の共通のおもいを表しています。
私たちは、「初めて日本人として認められた」「日本人としてやっと受け入れてくれた」「凍った心を溶かしてくれた」という喜びに共感しつつも、帰国した孤児たちが、今日の今日まで、「普通の日本人として生きることが出来ない」という極限状態に追い込まれ、苦悩してきた厳しい現実を改めて痛感させられた次第です。
⑵ 世論の受けとめ
 神戸地裁12.1判決は、1地裁の判決としては極めて異例とも言えるほど大きく報道されました。
中央各紙の夕刊トップ記事をはじめ全国各地方紙も、「中国残留孤児、国に責任−帰国遅らせ、支援怠る」と大きく報道しました。これらの報道は、判決骨子・要旨を掲載し、国が主張する戦争損害論を否定したことも含めてその内容を判りやすく解説しています。NHKはじめ民放各局も全国的にこの判決をトップニュースとして報道をしています。
 その後も、朝日・毎日や東京はじめ全国各地方紙など17紙が、社説を掲げました(甲総157の1〜17)。これらの社説は、判決が国の無慈悲な政策で「孤児」に過酷な犠牲を強いたことについての法的責任を厳しく認定したことを評価し、さらには、あえて「生活保護とは別の給付金の制度が必要」と指摘した点をも積極的に受けとめ、その多くが、国に対し人間の尊厳を回復するにふさわしい新たな支援策の確立を求めています。
(注)なお、この判決報道は、中国・台湾・マレーシアのアジア各紙が報じただけでなく、ロイター・AP・BBCなど海外のメディアが判決を取り上げています。この判決が認定した北東アジアに対する植民地支配という負の遺産について、自国民に対する戦後責任さえ克服できていない今日の日本という国の在り様に改めて厳しい視線が注がれたのです。
 これら一連の報道の力もあいまって、神戸地裁判決を機に「国の無慈悲な政策」が中国残留孤児たちの人らしく生きる権利を今日なお奪い続けているという国民的な認識が一気に拡大しました。私たちは、この間の活動をとおして、かかる悲劇の一日も早い克服を求める世論が大きく形成されてきたのを肌で感じています。
⑶ 政治の受けとめ
 神戸地裁判決は、政治との関係でも私たちの想定していた以上の威力を発揮しました。
@ 12月1日夜、安倍首相は、記者から判決をどう受けとめたか問われて、「残留孤児の皆さんは、高齢化が進み、長い大変な苦労があった。国としても、きめ細かな支援を行わないといけない。」と述べ、支援策の検討を表明しました。
(注)首相は、12月4日参議院決算委員会で山本孝史議員の質問を受け、同趣旨の答弁をしています。
1地裁の1事件の判決直後に、首相が判決をどう受けとめたかについて発言すること自体、他に例をみない極めて異例な出来事です。
 しかし、厚労省は、この首相談話の直後から、従来の政策の枠組みの中での「きめ細かな支援」を模索し、政治的に決着つけることを探りはじめました。柳沢厚労大臣は、当初は、「総理発言の線に従って具体的な対応策を考えていかねばならない。」とあたかも首相談話に呼応した新しい施策をとるかのような姿勢を示した(12月5日参議院厚生労働委員会福島みずほ議員の質問に答えて)が、その後に、「従来よりもさらに実情に配慮した支援策を実現していきたいということで、現在財務当局と折衝している。」(12月12日参議院厚生労働委員会辻泰弘議員の質問に答えて)と首相発言を従来の施策を単に拡充するという方向に歪曲しました。
最終的には、神戸地裁判決を不服として12月11日大阪高裁へ控訴するとともに、厚労省は、「孤児たちが求めている新たな給付金の創設については考えていない。」(12月12日厚労大臣記者会見)と孤児や世論の要求を拒絶する姿勢を鮮明にしたのです。
A 他方で、このような厚労省・政府の姿勢を批判する国会議員たちの神戸地裁判決後の動向は、極めて注目に値します。
 全国の孤児原告団と弁護団は、神戸地裁判決を契機として孤児への新たな支援政策を政治の責任で確立するよう要請してきました。神戸地裁判決が国会議員たちに対して放った威力もまた実に大きく、野党各党だけでなく、与党の中からも厚労省の過去の政策に固執してその誤りを認めないことへの批判の声が上がり、孤児たちの「全面解決要求」への理解と支持が急速に拡がっていきました。
その中でも、注目されるのは、去年7月大阪地裁大鷹判決を契機に結成された自民党と公明党による中国残留孤児プロジェクトチーム(PT)の活動です。
(注)与党PT座長野田毅(自民、元自治相・建設相等)、副座長漆原良夫(公明、国対委員長)
この与党PTは、神戸地裁判決を正面から受けとめたうえで、12月13日官邸に対し次の2点の実行を申し入れています。
1.自立支援法を改正し、生活保護制度によらない、孤児を対象とした新たな給付金制度を創設すること
2.残留孤児問題の全面解決要求をするために、政府は、原告と継続的に協議する場を設定すること
与党PTは、この2点についての首相の決断を促すために必要な努力をこれからも尽くすことを孤児たちに約束しています。
(注)野党は、社民党(12月12日)、共産党(12月18日)が孤児原告団と弁護団からヒアリングを行い、民主党は来年1月中旬ヒアリングを予定しています。各党とも私たちが政府に提出している「中国残留孤児問題の全面解決」要求を支持し、その実現のために活動することを表明しています。
B かくして、神戸地裁判決は、政治の世界でも中国残留孤児問題を重要な政治課題に一気に浮上させただけでなく、厚労省の無慈悲な姿勢を批判する世論と相まって今日なお官邸と厚労省の間で、さらに政府と国会議員・政党との間で、「どのように政治的解決をするか」をめぐって検討することを今日もなお迫り続けているのです。

2.神戸地裁判決を受けとめた「孤児」たちの活動
 中国残留孤児訴訟は、現在、14地裁と大阪高裁2件、合計2201名の孤児原告によって闘われています。この原告たちは、全国原告団連絡会を結成し、「全面解決要求」(別紙のとおり)を全国統一要求として掲げ、その実現をめざして共同行動を続けています。従って、裁判を闘う孤児たちにとっては、裁判での賠償請求の獲得自体が自己目的ではありません。大半の孤児を生活保護に追い込む国の貧困な孤児政策が違法であるという司法判断を獲得することによって、国に「謝罪」させるとともに、何よりも「孤児を対象とした新たな給付金制度の創設」を軸とする新たな支援政策の確立を実現することが目標なのです。
 それだけに、神戸地裁判決は、全国の孤児たちに今日も続く誤った貧困な政策を抜本的に変える威力をもつ強力な武器を与えたことになります。
 事実、神戸訴訟原告団を先頭に全国から結集した「孤児」たちは、「神戸地裁判決」を高く掲げ、12月1日から12月14日まで東京都下を中心に「全面解決要求」の実現を求め、連日実に活発な活動を繰り広げました。
冬に入って一段と冷え込む中、連日早朝から霞ヶ関に結集し、厚労大臣との話し合い解決を求めて厚労省前の歩道に座り込み、あるいは首相官邸前で首相との面談を求める横断幕を手にして立ち続けるアピール行動を行いました。更には、国会議員を訪問しての要請行動・院内集会、そして12月7日孤児600名が参加した力強い国会請願デモ等、国会議員へ働きかけて政治解決めざす活動を次々と行いました。また霞ヶ関はじめマリオン前や浅草・蒲田・池袋、さらには神奈川・千葉・埼玉で街頭に立って市民へのビラによる連日の宣伝活動を繰り広げ、世論をより拡げる活動も続けました。
 この間、全国からこれらの活動に参加した孤児の数は、延べ3038名にのぼりました。7日間に及んだこの街頭宣伝で市民に配布したビラは、日々内容を更新し、実に2万枚にもなりました。これらの「孤児」たちの活動は、私たち弁護団の当初の予想をはるかに大きく超える実に活発なものでした。
 これ以外に、神戸をはじめ全国各地で記者会見・集会・街頭宣伝・地元出身国会議員への要請行動等、東京での統一行動に呼応した多彩な活動が各地裁の孤児原告を中心に「全面解決要求」の実現めざして取り組まれました。
 前述した政治の動向は、神戸地裁判決の威力がもたらしたものであるとともに、実は、このような全国の孤児たちの統一した力強い持続的な活動が突き動かしたものです。
 私たちは、この神戸地裁判決を手にして生き生きと活動する孤児たちを日々間近に見て、「正義を貫いた判決が、いわれなき差別と不合理な縛りに拘束され喘吟してきた人々をその差別と縛りから大きく解き放つ」という人間解放の素晴しい力を発揮するのを再認識させられました。私も、この間の活動をとおして、深い感動を幾度も味わうという得がたい体験を共有してきました。私は、もしも許されるものなら、神戸地裁の裁判官たちに、「この判決の放った社会的・政治的威力の大きさ」とともに、「孤児たち一人ひとりの人間の尊厳を回復させ、社会的差別・縛りから孤児たち全員を一気に解き放つ力」を示したことについて、私は、同じ法曹としての私自身が味わった熱い感動も含めて伝えたいというおもいに駆られた次第です。

3.おわりに−期待される司法の役割
 最後に、神戸地裁12.1判決が切り開いた中国残留孤児問題の全面解決要求実現の可能性とその到達点を踏まえつつ、私たちが、神戸地裁判決後の司法に何が期待されるかについて述べることにします。
 1つは、今後判決する全ての裁判所は、神戸地裁判決の主要な積極面はしっかり継承しより精緻に発展させるとともに、その否定的・消極的面をぜひとも克服するという課題にも挑んでいただきたいことです。
 もう1つは、全国の孤児の統一した活動によって新たに生まれた政治解決の可能性とその到達点を踏まえ、最も適切な時期に、全国の裁判所が統一して、全ての「孤児」原告たちについて公正平等な権利救済を実現するという司法解決をめざす努力を尽くしていただきたいことです。
 この2つの課題は、中国残留孤児訴訟が係属する全ての裁判所に対し期待されるのは言うまでもありません。しかし、本件2次から5次訴訟の原告1052名を担当する当裁判所は、既に結審した1次訴訟原告40名と合わせ全国の過半数の孤児原告の訴訟を担っているのですから、他の裁判所と比べてより重い責任を負っていることは明白です。
 それだけに、仮に来年1月30日までに神戸地裁判決を活かした政治解決が実現しない場合には、本件1次訴訟で正義を貫く判決が出されることによって、孤児たちの人間の尊厳を回復する新たな政策が確立することを私たちが期待するのは言うまでもありません。同時に、本件2次から5次訴訟が、1次訴訟判決を指針として早期に司法判断されることを心から期待します。1052名の「孤児」原告にとって、残された人生は、そう長くはありません。この原告たちの生命あるうちに、心から「日本に帰ってきてよかった」と言える状況を創り出せるのは、今日においては、司法の正義以外ないというのが私たちの確信であるからです。

不当控訴に抗議する!(抗議Faxのお願い)

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 国の不当控訴に対して心の底から抗議します
 国の責任を認めた歴史的な神戸地裁判決に対し 国は不当控訴!!

 去る12月1日、神戸地方裁判所(橋詰均裁判長・山本正道裁判官・宮端謙一裁判官)は、国が残留孤児の帰国の妨げとなる違法な措置をとったこと、残留孤児には北朝鮮拉致被害者と同等の自立支援措置を受ける権利があるのに、国は自立支援義務を怠ったことを明確に認め、残留孤児への賠償を認めました。まさに歴史的判決であったといえます。この判決を受け、安倍晋三内閣総理大臣も、「残留孤児の皆さんは、相当の年月を経て御高齢になった。そして、大変な苦労をされた。きめこまやかな支援を当然考えていかなければならない」と答えました。
にもかかわらず、国は、不当にも神戸判決に対して控訴しました。これは、残留孤児のみならず国民に対する背信行為にほかなりません。
 私たちは、国の不当控訴に対し、心の底から抗議します。


 安部首相・柳澤厚労大臣に抗議の声を届けましょう!

 残留孤児問題の早期解決には、市民の皆様の応援が是非とも必要です。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/212.pdfの書式を使って、首相官邸・厚労省にFAXを送ってください。

「神戸判決で私たちはやっと日本人と認められた。国は、私たちをまた捨てるのか!!」

中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告団・弁護団全国連絡会
(連絡先)
東京都台東区東上野3-37-9かみちビル4階台東協同法律事務所
TEL 03-3834-5831

国が控訴・抗議声明

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 12月11日、国は、12月1日の神戸地裁判決を不服として大阪高裁に控訴しました。
 これに対して、原告団・弁護団は抗議の声明を発表しました。

※写真は控訴を受けて会見した東京原告団代表の宇都宮孝良さん(左から2人目)

※※※※※※※※※※※※※※※※※※

神戸地裁判決を踏まえて、早急に「孤児」に対する生活保障等の
支援策の具体化を!

 政府の控訴に対する声明
         2006年12月11日
  中国残留孤児国家賠償訴訟原告団全国連絡会
  中国残留孤児国家賠償訴訟弁護団全国連絡会

 本日、政府は、日中国交回復後の違法な帰国制限と帰国後の自立支援義務懈怠について国の賠償責任を認めた中国残留孤児国家賠償訴訟神戸地裁判決に対し、これを不服として大阪高等裁判所に控訴した。
 これは、兵庫原告だけでなく、高齢化が進み、残された人生の時間が長いとはいえない全国の孤児とその家族らの切実な願いを踏みにじり、訴訟を継続させることで中国残留孤児問題の全面解決をいたずらに遅らせる暴挙であり、神戸地裁判決の言葉を借りれば、まさに「無慈悲な」政策決定であると言わなければならない。われわれ全国原告団連絡会と全国弁護団連絡会は、政府に対し、心の底から抗議する。
 厚生労働省は、本日の控訴に当たって「今後ともきめ細やかな支援施策に努めてまいりたい」とコメントした。しかし、その具体的内容はまったく明らかではない。特に、焦点である孤児独自の給付金の創設にはまったく触れておらず、これでは安倍総理大臣が言明した「きめ細かい支援策」とは程遠いものといわざるを得ない。
 現在全国の孤児の9割に相当する2200名が15地裁・1高裁に同様の提訴をしている。孤児らが裁判に託しているものは、国の責任において、安心できる老後の生活の保障制度を確立することである。政府は、安倍総理大臣が国会答弁で言明したとおり、中国残留孤児に対する「よりきめ細やかな支援策」を速やかに具体化するため、総理大臣、厚生労働大臣自らが、当事者である孤児と直ちに面談し、その深刻かつ長年にわたる被害の実態と孤児たちが求める真の自立に向けた全面解決要求に耳を傾けるべきである。そして、厚生労働省は、直ちに全国原告団協議会との協議を開始すべきである。
 全国の原告団および弁護団は、政府の不当な控訴、解決の引き延ばしに屈することなく、「日本に帰ってきてよかった」思える日が来るまで、これを支援する国民とともに闘い続けることを表明する。そして、これまで残留孤児に寄せられた国民の皆さんの温かいご支援に心から感謝するとともに、今後ともこれまでに増して大きなご理解、ご支援をお願いするものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・
声  明

  中国残留孤児「国家賠償」訴訟兵庫原告団
  中国残留孤児「国家賠償」訴訟兵庫弁護団

 本日、政府は、日中国交回復後の違法な帰国制限と帰国後の自立支援義務懈怠について国の賠償責任を認めた中国残留孤児国家賠償訴訟神戸地裁判決を不服として、大阪高等裁判所に控訴した。

 これは、高齢化が進み、残された人生の時間が長いとはいえない原告らの切実な願いを踏みにじり、中国残留孤児問題の全面解決をいたずらに遅らせる暴挙であり、神戸地裁判決の言葉を借りれば、まさに「無慈悲な」政策決定であると言わなければならない。

 われわれ兵庫原告団と弁護団は、政府に対し、心の底から抗議する。

 本日の控訴の発表に際して、厚生労働省は、「帰国者の高齢化が進んでいるという現状などを踏まえ、これらの方々が安心して生活を営むことができるよう、継続的な支援をさらに充実させるなど必要な措置を講じ、今後ともきめ細やかな支援施策に努めてまいりたい」とコメントした。しかしながら、その内容には具体性が全くない。特に、孤児の強く要求している孤児独自の給付金制度にも全く言及していないことには失望を禁じ得ない。

 政府は、安倍総理大臣が国会答弁で言明した、中国残留孤児に対する「よりきめ細やかな支援策」を速やかに具体化するため、厚生労働大臣、総理大臣自ら、直ちに、当事者である孤児と面談し、その深刻きわまる被害の実態と孤児たちの求める全面解決要求に耳を傾けるべきである。厚生労働省は、直ちに原告団と協議を開始すべきである。

 われわれは、政府の不当な控訴、解決の引き延ばしに屈することなく、「日本に帰ってきてよかった」と思える日が来るまで、闘い続けることを表明する。そして、これまで残留孤児に寄せられた国民の皆さんの温かいご支援に心から感謝するとともに、今後ともこれまでに増して大きなご理解、ご支援をお願いするものである。

 2006(平成18)年12月11

※兵庫訴訟弁護団HP
http://www16.ocn.ne.jp/~kojikobe/zanryukojitop.html

文化人アピール

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 12月11日、100万人署名の呼びかけ人は、中国「残留孤児」問題の全面解決を求める緊急アピールを発表し、衛藤瀋吉さん、羽田澄子さん、林郁さん、井出孫六さん、渡辺一枝さんが、東京霞ヶ関の弁護士会館で記者会見を行いました(写真)。

※※※※※※※※※※※※※※※

  緊急アピール

神戸地裁の原告勝訴判決を受け止め
国は中国「残留孤児」問題の全面的解決を

 この12月1日,神戸地方裁判所は,中国「残留孤児」たちが,帰国の著しい遅れと帰国後の自立支援がきわめて不十分であったことについて国の責任を追及した裁判で,画期的な原告勝訴判決を言い渡しました。

私どもは,国がこの判決を重く受け止め,これ以上「孤児」たちと裁判で争うことをやめ,苦難の人生を歩んできた中国「残留孤児」たちが祖国で安心して老後の生活を送ることができるよう国の政策を転換し,この問題の全面的な解決をはかることを,ここに強く求めます。

中国「残留孤児」は,終戦時,幼くして旧「満州」に取り残され,多くは終戦後40年以上もたってから,やっとの思いで祖国日本に帰国した方々です。帰国後の国の自立支援策がきわめて不十分だったことから,日本語も十分に話せず,就職もままならず,日本社会で疎外され孤立させられ,60歳代から70歳代となった現在,老後の生活の不安にさいなまれておられます。
神戸判決は,国が「孤児」たちの帰国を妨げたこと,自立支援の義務を怠ったことを明確に認めました。そして,中国「残留孤児」の被害は「自国民の生命・身体を著しく軽視する国の無慈悲な政策」によるものであり,政府は「無慈悲な政策によってもたらされた自国民の被害を救済すべき高度な政治的責任を負う」とはっきり述べています。また,「孤児」に対する自立支援策が「北朝鮮拉致被害者の支援策よりも貧弱でよいわけがない」,「国会議員は継続的給付金制度の立法を行うことが期待される」とも述べています。
この判決を聞いた原告の方々は,「やっと日本人になれた」,「凍りついた心がとけ始めた」,「これで『残留孤児』から解放される」と涙を流して喜んでおられます。これは,全国15地裁,1高裁で原告となっておられる2201名の「孤児」の方々すべての痛切な思いです。これ以上,「孤児」の方々に苦難の人生を歩ませてはなりません。

私どもは,2002年12月,「孤児」の方々が東京地裁に初めて裁判を起こしたとき,“中国「残留孤児」の人間回復の闘いに支えを”という内閣総理大臣宛の100万人署名のよびかけをいたしました。署名は,今年3月初めに100万筆を達成しました。約3年という短期間でこれだけの署名が寄せられたことは,多くの日本国民が「孤児」の方々の被害を他人事ではないと受け止めていることの表れに他なりません。
旧「満州」からの引揚げ60周年という節目の年にあたる今年,国は「無慈悲な政策」を終わらせ,「孤児」の方々が心から祖国に帰ってきてよかったと思える全面的解決を約束すべきです。それは,「孤児」の方々の人間としての尊厳を回復すると同時に,国策によって再び幼い子どもが棄てられることがあってはならないという,多くの日本国民の願いにつながるものでもあります。
私どもはこのような立場から,国民の皆さんと政府に向けて,緊急のアピールをするものです。

2006年12月11日

石坂啓 井出孫六 井上ひさし 衛藤瀋吉 加藤登紀子 坂本龍彦 佐野洋 ジェームス三木 新藤兼人 曾徳深 ちばてつや 仲代達矢 羽田澄子 林郁 古谷三敏 森村誠一 山崎朋子 山田洋次 渡辺一枝(五十音順)

・・・・・・・・・・・・・・・・
12.11「緊急アピール」賛同者(五十音順)

石坂啓(漫画家)
1956年生まれ

井出孫六(作家)
1931年長野県生まれ 
著書に『終わりなき旅 「中国残留孤児」の歴史と現在』など 神戸地裁,長野地裁で証言,12月20日鹿児島地裁で証言予定

井上ひさし(作家・日本ペンクラブ会長)
1934年山形県生まれ 
代表を務める「国民学校1年生の会」が「中国『残留孤児』の人間回復を求める市民連絡会」に参加し,東京地裁提訴時から孤児訴訟に協力。

衛藤瀋吉(東京大学名誉教授)
1923年生まれ
中国を中心とする東アジア政治史の研究

加藤登紀子(歌手)
1943年ハルビン生まれ
終戦時,父はソ連の捕虜になり,母と共に収容所生活を経て引揚げ

坂本龍彦(ジャーナリスト)
1933年山梨県生まれ
開拓団出身 ハルビンで敗戦を迎え1946年引揚げ 1973年8月,朝日新聞時代,国の公開調査に先駆けて孤児の肉親探しの情報を公開する「生き別れた者の記録」を企画 著書の『孫に語り伝える「満州」』は各地裁訴訟の甲第1号証となる 名古屋地裁で証言

佐野洋(作家)
1928年東京生まれ

ジェームス三木(脚本家)
1935年瀋陽生まれ
2003年7月市民連絡会主催の集会で講演

新藤兼人(映画監督)
1912年広島生まれ

曾徳深(日本華僑華人連合総会会長)
1940年横浜中華街生まれ 

ちばてつや(漫画家)
1939年東京都生まれ 
1941年朝鮮半島をへて瀋陽に渡る1946年引揚げ 中国「残留孤児」に心を寄せ,浅草寺の母子地蔵,瀋陽の養父母感謝像などのデザインを担当 1995年「中国引揚げ漫画家の会」 パンフレット表紙のイラストを提供

仲代達矢(俳優)
1932年東京都生まれ
1995年NHKドラマ「大地の子」で主人公の中国「残留孤児」陸一心の実父役を演じる

羽田澄子(記録映画作家)
1926年大連生まれ

林郁(作家)
1936年長野県生まれ 
1976年長野県開拓団出身の「残留婦人」と出会い,『満州・その幻の国ゆえに』など「満州3部作」執筆 「植民地文化研究」編集委員 2003年7月市民連絡会主催の集会で講演 東京訴訟を欠かさず傍聴。

古谷三敏(漫画家)
1936年大連生まれ 
「中国引揚げ漫画家の会」会員

森村誠一(作家)
1933年埼玉県生まれ

山崎朋子(ノンフィクション作家)
1932年長崎県生まれ
2003年7月市民連絡会主催の集会で講演

山田洋次(映画監督) 
1936年大阪府生まれ
2歳で大連に渡り1947年引揚げ

渡辺一枝(作家) 
1945年ハルビン生まれ 
父は現地で召集され消息不明 1946年引揚げ 2003年7月市民連絡会主催の集会で講演 東京訴訟を欠かさず傍聴

神戸地裁勝利デモ

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 12月7日、全国から集まった中国「残留孤児」訴訟原告、弁護士、支援者ら約300人は「孤児」問題の全面解決を訴え、日比谷公園から国会に向けてデモ行進を行い、出迎えに来られた土肥隆一(民主党)、高橋千鶴子・佐々木憲昭・塩川てつ(共産党)各衆議院議員、岡崎トミ子(民主党)、仁比聡平・紙智子(共産党)各参議院議員に衆参両院議長に宛てた請願署名を手渡しました。

厚生労働省前座り込み

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 12月1日の神戸地裁勝訴判決を受けて、4日より全国の原告が「全面解決要求」に応じることを求めて厚生労働省前での座り込みを行っています。
 座り込みは、6日まで毎日午後0時から行います。

神戸地裁判決・勝訴!(新聞社説)

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 昨日の神戸地裁勝訴判決をうけ、新聞各社は次ぎのような社説を発表しました。


朝日新聞2006/12/02(土)付社説
残留孤児、勝訴 祖国への思いに応えよ

毎日新聞2006/12/02(土)付社説
残留孤児判決 生活支援は国の責任だ

東京新聞2006/12/02(土)付社説
残留孤児勝訴 戦後の『空白』に差す光

神戸新聞 06・12・02社説
中国残留孤児/「神戸判決」高く評価する

愛媛新聞2006/12/02(土)付社説
残留孤児勝訴判決 国は一刻も早く救済すべきだ

信濃毎日新聞 06年12月2日(土)付社説
社説=残留孤児 国は一刻も早い救済を

西日本新聞2006/12/02付 社説
国の無策が指弾された 中国残留孤児

北海道新聞 06.12.02社説
残留孤児判決*政府は全面救済を急げ

河北新報 06.12.02 社説
中国残留孤児訴訟/国は早期全面解決を図れ

高知新聞 06.12.02 社説
【残留孤児訴訟】「棄民」に早く終止符を

中国新聞 06.12.02 社説
中国残留孤児判決 国は救済に本腰入れよ

南日本新聞 06.12.02 社説
[残留孤児訴訟] 国の無策を指摘し真の救済を迫った

各社の社説について
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/207.htm

神戸地裁判決・勝訴!(判決要旨)

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― 中国残留日本人孤児訴訟の判決要旨 ―

 神戸地方裁判所平成16年(ワ)第835号,平成16年(ワ)第1485号,平成17年(ワ)第1026号事件について,当裁判所は,平成18年12月1日午前10時,原告番号19,43,44及び65の4名を除く原告ら61名の請求を一部認容し,被告に対し,その61名に表1「損害総額」欄記載の損害賠償金(総額4億6860万円)を支払うよう命じ,上記4名の請求を棄却する旨の判決を言い渡したが,その判決の概要及び判決理由の要旨は下記のとおりである。

 神戸地方裁判所第6民事部

【判決の概要】
1 原告らは,いずれも,かつての満州(現在の中国東北部)で肉親と暮らしていたが,昭和20年8月9日満州に攻め入ったソ連軍からの逃避行又はその後の避難生活において,肉親と死別又は離別して孤児となり,中国人に養育され,昭和47年9月の日中国交正常化後,日本に帰国した者である。
2 表2は,原告らの終戦時(降伏文書調印時である昭和20年9月2日)の年齢(表2の(終)欄),日中国交正常化時の年齢(表2の(正)欄),永住帰国を決意した時期,帰国が可能と考えられた時期,実際の永住帰国の時期,永住帰国時の年齢(表2の(永)欄)に関する本判決の事実認定を整理したものである。
  表3は,原告らが受けた日本語教育の概要,原告らが,永住帰国後に定着促進センターに入所したかどうか(表3の(定)欄),現在生活保護を受給しているかどうか(表3の(保)欄)に関する本判決の事実認定を整理したものである。
3 原告らは,骨子,次のとおり主張し,国家賠償法1条に基づき,被告に対し,一人当たり3300万円の損害賠償金の支払を求めた。
  @ 政府関係者は,残留孤児の帰国の妨げとなる措置を講じ,あるいは残留孤児の早期帰国を実現させる義務(早期帰国支援義務)を懈怠し,その違法な職務行為によって原告らに損害を被らせた。
  A 政府関係者又は国会議員は,自立した生活を営むことができるよう帰国孤児を支援する義務(自立支援義務)を懈怠し,その違法な職務行為によっても原告らに損害を被らせた。
4 本判決は,次のとおり判断した。
  @ 原告番号5,6,9,12,14,20,28,29,30,38,41,45,49,52,58,59,62の17名の原告は,残留孤児の帰国の妨げとなる違法な措置により,帰国を制限され永住帰国を遅延させられたから,被告は,それら17名に帰国遅延月数1月当たり10万円の割合によって計算される慰藉料を支払うべき国家賠償責任を負う。
  A ただし,本件訴訟提起の20年以上前の帰国遅延に係る損害の賠償責任は,除斥期間が経過したことにより消滅しており,上記17名のうち原告番号2 0,62の原告ら2名の帰国遅延について,被告は損害賠償責任の全部を免れる。
  B 原告ら主張の早期帰国支援義務は,政府の政治的責務としては首肯できるものの,その懈怠が国家賠償責任を発生させるような義務,すなわち,政府関係者が原告ら個々人に対して負う具体的な法的義務として認定することが困難であり,原告らの帰国に関し,被告には,上記@以外の国家賠償責任を負うとすることができない,(ママ)
  C 原告らは,北朝鮮拉致被害者が法律上受け得る日本語習得,就職や職業訓練に関する支援措置と同等の自立支援措置を受ける権利があり,政府関係者は,原告ら個々人に対し,永住帰国後5年間は,生活の心配をしないで日本語の習得,就職・職業訓練に向けた支援を行う法的義務を負っていたが,その義務を怠ったのであり,被告は,原告らそれぞれに対し,その義務の懈怠によって生じた無形損害を償うため600万円の慰藉料を支払うべき国家賠償責任を負う。
  D ただし,永住帰国後5年間の自立支援義務の懈怠から既に20年が経過している原告番号19,43,44,65の4名の原告らとの関係で,被告は,除斥期間の経過により,自立支援義務の懈怠を原因とする損害賠償責任を免れる。
  E 自立支援に関する国会議員の立法不作為については,裁判所がこれを違法と判断することが困難であり,立法不作為を原因とする原告らの国家賠償請求は理由がない。

【判決理由の要旨】

第1 残留孤児が生じた経緯

1 政府は,傀儡国家である満州国を建国したことから,満州の支配体制の確立,満州の軍事力の充実を目的とし,昭和7年から満州への移民を開始し,昭和12年から終戦直前までは,重要な国策として,大量の開拓民を満州に送出し,主として,ソ連軍の満州侵攻時に犠牲が生じやすい満州の北部・北東部に開拓民を住まわせた。

2 開拓民が唯一頼りであった関東軍は,昭和18年後半以降,戦局悪化を受けて半分が他所に転用され,著しく弱体化し,ソ連軍を迎え撃つ戦力を保持していない状態であった。
  昭和20年春にはソ連の満州侵攻が決定的となったが,政府は,朝鮮半島及びその近接地域を絶対的防衛地域とし,その他の満州地域を持久戦のための戦場とすることを決定し,多くの開拓民らの犠牲を伴う作戦を立てた。
  これにより,開拓民の多くは,ソ連軍侵攻時,関東軍による防戦を期待することができず,ソ連軍による殺戮・略奪の危険にさらされる状態となった。
 
3 にもかかわらず,政府は,静謐(せいひつ)を装う方針を堅持することにし,開拓民に関東軍やソ連の動向に関する情報を伝えず,関拓民を予め避難させる措置を講ずることもなかった。それどころか,昭和20年7月には,弱体化した関東軍の人員補充のため,いわゆる「根こそぎ動員」を実施し,開拓民の青年・壮年男子全員を徴兵し,関拓民を高齢者と婦女子だけの無防備な集団にしてしまった。

4 このようにし,開拓民は,全く無防備な状態で,昭和20年8月9日,突然ソ連軍の侵攻にさらされ,極度の混乱の中で難民と化し,暖房も食料も乏しく衛生状態も悪い避難所で,極寒の越冬生活に直面することになった。原告らを含む多数の日本人乳幼児・児童は,避難所へたどり着く過程や避難所生活中に親兄弟と死別・離別しており,自己の意思とは無関係に,周囲の大人の判断により,命をつなぎ止める唯一の手段として中国人家庭に渡され,養子として養育されることになった。そして,中国人の養子となった原告ら孤児たちは,避難所に踏みとどまって後に集団引揚げをした日本人の大人と一緒に我が国に帰還することができず,その後も帰還の途を閉ざされ,長らく,我が国と国交のない中国に残留することになった。


第2 残留孤児の帰国に向けた政府の責任について

1 戦闘員でない一般の在満邦人を無防備な状態に置いた戦前の政府の政策は,自国民の生命・身体を著しく軽視する無慈悲な政策であったというほかなく,憲法の理念を国政のよりどころとしなければならない戦後の政府としては,可能な限り,その無慈悲な政策によって発生した残留孤児を救済すべき高度の政治的な責任を負うと考えなければならない。政府自身,残留孤児が中国内で生存していることを認識していたのであって,後期集団引揚げが終了した昭和33年7月以降も,残留孤児の消息を確かめ,自国民の救済という観点からその早期帰国を実現すべき政治的責任を負っていたのである。

2 日中国交正常化までは,残留孤児救済責任を果たすための具体的な政策の実行は困難であったというべきであるが,日中国交正常化によって,政府は,残留孤児救済責任を果たすための具体的な政策を実行に移すことができるようになった。したがって,日中国交正常化後は,残留孤児の帰還に関与する政府関係者は,政府の残留孤児救済責任と矛盾する行政行為を行ってはならず,特段の合理的な根拠なしに,残留孤児の帰国を制限する行政行為をしたとすれば,それは,残留孤児個々人の帰国の権利を侵害する違法な職務行為となる。
  そして,そのような行政行為によって我が国への永住帰国が妨げられたと認められる原告がある場合,被告は,国家賠償法1条に基づき,帰国を制限されたことによって当該原告が被った損害を賠償すべき責任を負う。

3 具体的には,次の@ないしBは,合理的な根拠なしに残留孤児の帰国を制限する違法な行政行為というべきである。
 @ 残留孤児が我が国に入国する際,留守家族の身元保証を要求する措置
   残留孤児は,通常,中国旅券を所持して我が国に渡航することにならざるをえないところ.中国政府が残留孤児であると認めて出国を許可した者は,中国旅券を所持していても日本人であると考えて何ら差し支えがなかったのに,政府は,残留孤児を外国人として扱う方針を貫くことにし,留守家族による身元保証書の提出がされない限り,入国を認めなかった。これにより,誰が留守家族か分からない残留孤児(身元未判明孤児),留守家族の協力が得られない身元判明孤児の帰国の途が閉ざされた。
 A 残留孤児が政府に帰国旅費の負担を求めようとする際,その支給申請は留守家族が残留孤児の戸籍勝本を提出して行うものとした措置
   この措置により,身元未判明孤児,留守家族の協力が得られない身元判明孤児は帰国旅費の支給を受けることができず,事実上,帰国することができない結果となった。
 B 昭和61年10月以降,身元判明孤児について,留守家族の身元保証に代わる招へい理由書の提出,特別身元引受人による身元保証といった,入管法が求めているわけでもない手続の履践を求める措置

4 原告らのうち17名は,上記3@ないしBの違法な指置(本件帰国制限)により,永住帰国の遅延を余儀なくされた。
  ただし,本件帰国制限は,継続的な違法行為であり,これによる損害も日々生じるものであるから,本件訴訟提起の日において既に20年が経過している時期に関する国家賠償責任は,除斥期間の経過によって法律上当然に消滅した。

5 本件帰国制限以外に,早期帰国支援義務の存否や懈怠の有無を検討するということは,もし政府が速やかに消息調査と帰国支援のための政策を実施していれば,原告らが,実際の永住帰国よりどの程度早く永住帰国することができたのかを問うことである。
  ところが,原告ら個々人について,どの時期にどのような措置が可能であり,その措置によりどの程度早く帰国できたかを認定することは極めて困難であり,その点の事実認定ができない以上,原告ら個々人との関係での早期帰国支援義務の存在やその惨怠の有無というものを論じることは不可能である。


第3 帰国孤児の自立支援に向けた政府の責任について

1 政府は,日中国交正常化後,残留孤児の帰国支援に向けた政策の遂行を怠り,かえって本件帰国制限を行うなどして,いたずらに残留孤児の帰国を大幅に遅らせた。残留孤児の大半が,永住帰国時,日本社会への適応に困難を来す年齢となっていたのは,日中国交正常化後も残留孤児救済責任を果たそうとしなかった政府の無策と本件帰国制限という違法な行政行為が積み重なった結果である。
  したがって,政府は,条理に基づき,残留孤児に対し,日本社会で自立して生活するために必要な支援策を実施すべき法的義務(自立支援義務)を負っていたといわなければならない。

2 北朝鮮拉致被害者に対して行われた自立支援策は,残留孤児に対してどのような自立支援策を実施すべきであったかを判断する上で参考になる。
  拉致被害者は,永住帰国後5年を限度として,毎月,生活保護よりもかなり高い水準の拉致被害者等給付金の支給を受け,かつ,社会適応指導,日本語指導,きめ細かな就労支援を受けることができる。つまり,拉致被害者は,少なくとも永住帰国から5年間は,所得保障がされ,無理な就労を強いられない状態で,日本語の習得,職業能力の向上に専念することができ,肉体的・情神的に余裕をもった状態で永住帰国後の生活を送ることができる。
  抗致被害者が自立支援を要する状態となったことにつき政府の落ち度は乏しいが,残留孤児が自立支援を要する状態となったことにつき政府の落ち度は少なくない。したがって,条理が,政府に対し実施を求める残留孤児の自立に向けた支援策が,担致被害者におけるそれよりも貧弱でよかったわけがない。
  したがって,厚生大臣(又は厚生労働大臣)としては,原告らを含む帰国孤児個々人に対し,永住帰国から5年の間,日本語の習得,就職活動,職業訓練に向けた支援を行い,かつ,それらにじっくりと取り組むことができるよう生活保持に向けた支援を行う法的義務を負っていたということができる。

3 ところが,実際に政府が実施した日本語習得に向けた支援策,就職,職業訓練に関する支援策は,極めて貧弱であり,生活保持に向けた支援についても,生活保護の受給期間を永住帰国後1年を目途とする運用がされていた。そして,関係者は,日本語能力や職業能力が十分身についていない状態の帰国孤児に対し,かなり強引に就労を迫っていた。
  厚生大臣(又は厚生労働大臣)は,過失により,帰国孤児に対する自立支授義務を懈怠したというほかなく,被告は,国家賠償法1条により,その義務懈怠によって原告らに生じた損害を賠償する責任を負う。その損害とは,自立支援義務が履行されていたならば原告らが置かれていたであろう状況と原告らの現状との格差であり,これを償うための慰藉料の額は,原告ら一人当たり600万円とするのが相当である。

4 自立支援義務の懈怠を原因とする国家賠償責任は,永住帰国から5年が経過した時点から20年で,除斥期間の経過により消滅する。


第4 国会議員の自立支援立法の不作為について

1 残留孤児をめぐる歴史的経緯,残留孤児に対する自立支援策が極めて不十分であったことなど,残留孤児の特殊な事情を考慮すれば,政府としては,生活に困窮する残留孤児の生計を維持するため,生活保護とは別の,継続的給付金あるいは年金の制度を実施する必要があろうと思われるが.そのためには特別な立法指置が必要となる。
  ところが,現在までに特別な立法措置がされていない結果,政府は,上記の制度を実施していない。

2 そこで,その立法不作為が違法かどうかが問われることになるが,裁判所は,どのような内容・金額の給付を定めた立法をすれば違法状態が解消されるのかを判決で具体的に示すことができない。具体的にどのような立法活動をすれば違法状態が解消されるのか示すことができないのに,国会議員の立法不作為が違法であるとの判断を下すことは不可能というほかない。
  すなわち,残留孤児の生計維持のための継続的給付金制度に関する立法不作為は,これを違法であると認定することができず,その立法不作為が違法であることを前提とする原告らの国家賠償請求は理由がない。


第5 戦争責任論について

  本判決が認定した損害は,日中国交正常化後に政府関係者がした違法な職務行為による損害であって戦争損害ではないから,いわゆる戦争損害論によって国家賠償責任を否定することはできない。


第6 消滅時効について
  被告は,本件帰国制限に基づく国家賠償債権につき消滅時効を援用するが,政府は,原告らに対して負う自立支援義務を履行せず,原告らの生活基盤を不安定なものとし,訴訟の提起を困難にしていたのである。したがって,原告らに対し帰国後3年以内の訴え提起を要求することは酷であり,被告の消滅時効の援用は,信義則(民法1条2項)に反し許されない。

 以 上

神戸地裁判決・勝訴!(原告団・弁護団声明)

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中国「残留孤児」国家賠償・兵庫訴訟の判決について

2006年12月1日 

中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告団全国連絡会
中国「残留孤児」国家賠償訴訟弁護団全国連絡会

 本日,中国「残留孤児」国家賠償兵庫訴訟について,神戸地方裁判所第6民事部は,被告国の「早期帰国実現義務」および「自立支援義務」の双方の義務違反を認め,原告65名中61名に対する損害賠償請求を認める判決を言い渡した。

 原告らは,幼くして満州の地に取り残されて以来,現在に至るまで,約60年間の長きにわたって,国の誤った孤児政策によって,「日本人として,日本の地で,人間らしく生きる権利」という,日本人であれば当然に有すべき権利の侵害を受け続けてきた。
 本件訴訟は,このような原告らが,国の政策の過ちを問い,日本人としての,そして人間としての尊厳の回復を求めるとともに,国策によって子や孫を再び残留孤児にするようなことがあってはならないとの願いを込めた裁判であった。さらには,私たち国民1人1人が,戦後一貫して日本人として当然の権利から排除,隔離されてきた日本国民がいるという現実を直視し,戦後日本の民主主義の質を問い直す契機となるべき,現代的意義をも有する裁判であった。また,昨年7月,大阪地方裁判所が,中国「残留孤児」らの請求を全面的に棄却する判決を言い渡し,これに対し,大きな批判が沸き起こっていた。

 本判決が,国の「早期帰国実現義務」および「自立支援義務」の双方の義務について,明確に法的責任を認めたことは,極めて重要な意義を有するものである。
 本判決は,「早期帰国実現義務」に関して,日中国交正常化がなされた1972年以降,国が「合理的な根拠なしに残留孤児に帰国を制限する違法な行政行為」をおこなったとして原告17名に対する賠償責任を認めた。
 さらに「自立支援義務」に関して,「政府は,条理に基づき,残留孤児に対し,日本社会で自立して生活するために必要な支援策を実施すべき法的義務(自立支援義務)を負っていた」と明確に認め,原告61名に対する賠償責任を認めた。
 また,本判決は,中国「残留孤児」が蒙った損害は,「戦争損害」であるとの理由で国の責任を免罪するものではないことを明快に指摘した。
 原告4名の請求を除斥期間の経過を理由として棄却したことについては課題を残したが,本判決は,国の政策の誤りによって,原告ら中国「残留孤児」らが,これまで戦後約60年にわたり苦難に満ちた人生を強いられ,未だに「日本人として,日本の地で,人間らしく生きる」という,日本人として極めて基本的な権利の実現ですら困難となっている現実を正面から認め,これらの事態が極めて重大な人権侵害であるとしたものである。

 現在,全国の15の地裁,1つの高裁で,2201名の中国「残留孤児」が原告となり,国の責任を追及する裁判を闘っている。本判決は,初めての勝訴判決であり,司法による原告らの権利および人間としての尊厳の回復の道を切り拓くとともに,従来の誤った孤児政策を断罪し,国にはこれを抜本的に転換すべき法的責任があることを認めたものに他ならない。
 
 本判決により,国の義務違反は明確に断罪された。
 国は,本判決を厳粛に受け止めて,自らの政策の誤りを率直に認めるべきである。そして,行政府および立法府は,中国「残留孤児」の権利および人間としての尊厳の回復を図るために抜本的な政策転換を果たすべきである。我々,原告団および弁護団は,本判決を機に,中国「残留孤児」に対する施策を抜本的に転換し,全国原告団連絡会が要求する全面解決要求事項について,国が,原告団および弁護団との間で早急に協議を開始し,中国「残留孤児」問題の全面解決を図るよう強く要求する。

以上

・・・・・・・・・・・・・・・

 中国「残留孤児」国家賠償兵庫訴訟・原告団
      団 長  初 田 三 雄
 中国「残留孤児」国家賠償兵庫訴訟・弁護団
      団 長  宗 藤 泰 而
                       
 本日,中国「残留孤児」国家賠償兵庫訴訟について,神戸地方裁判所第6民事部(橋詰均裁判長,山本正道裁判官,宮端謙一裁判官)は,被告国の「帰国制限」施策の違法および「自立支援義務」違反を認め,原告65名のうち61名に対する損害賠償請求を認める判決を言い渡した。
 原告らは,幼くして満州の地に取り残されて以来,現在に至るまで,約60年間の長きにわたって,国の誤った孤児政策によって,「日本人として,日本の地で,人間らしく生きる権利」という,日本人であれば当然に有すべき権利の侵害を受け続けてきた。
 本件訴訟は,このような原告らが,国の政策の過ちを問い,日本人としての,そして人間としての尊厳の回復を求めるとともに,国策によって子や孫を再び残留孤児にするようなことがあってはならないとの願いを込めた裁判であった。さらには,私たち国民1人1人が,戦後一貫して日本人として当然の権利から排除,隔離されてきた日本国民がいるという現実を直視し,戦後日本の民主主義の質を問い直す契機となるべき,現代的意義をも有する裁判であった。
 本判決に先立ち,昨年7月,大阪地方裁判所は,中国「残留孤児」らの請求を全面的に棄却する判決を言い渡していたところ,そのような中で,本判決が,国の「帰国制限」施策の違法性,および「自立支援義務」についての法的責任を明確に認めたことは,極めて重要な意義を有するものである。
 本判決は,「日中国交正常化後は,残留孤児の帰還に関与する政府関係者は,政府の残留孤児救済責任と矛盾する行政行為を行ってはならず,特段の合理的な根拠なしに,残留孤児の帰国を制限する行政行為をしたとすれば,それは,残留孤児個々人の帰国の権利を侵害する違法な職務行為となる」とし,政府の「残留孤児」を外国人として扱う方針に基づく各措置が違法であると認定した。
 また,国の「自立支援義務」に関して,北朝鮮拉致被害者に対する自立支援策よりも「貧弱でよかったわけがない」とし,原告ら中国「残留孤児」に対する実際の支援が極めて貧弱であり,生活保持の支援も1年を目処として強引に就労を迫っていたとして,義務違反を認めた。
 本判決は,ようやく帰国を果たした中国「残留孤児」に対して,国が,「自立支援義務」に違反した,極めて不十分な施策しか採らなかったことにより,原告ら中国残留孤児らが,未だに「日本人として,日本の地で,人間らしく生きる」という,日本人として極めて基本的な権利の実現すら困難となっている現実を正面から認め,これらの事態が極めて重大な人権侵害であるとしたものである。
 本判決は,司法による原告らの権利および人間としての尊厳の回復の道を切り拓くとともに,従来の誤った孤児政策を断罪し,国にはこれを抜本的に転換すべき法的責任があることを認めたものに他ならない。
 我々,原告団および弁護団は,除斥期間の適用を肯定して一部の原告について請求を棄却したことは容認しがたいとしても,原告ら中国「残留孤児」らの被害実態ならびに悲痛なる思いを真摯に受け止めて,裁判所が,政府による「帰国制限」施策の違法性および「自立支援義務」違反を認定した本判決を高く評価するものである。
 本判決により,国の義務違反は明確に断罪された。
 国は,本判決を厳粛に受け止めて,自らの政策の誤りを率直に認めるべきである。そして,行政府および立法府は,中国「残留孤児」の権利および人間としての尊厳の回復を図るために抜本的な政策転換を果たすべきである。我々,原告団および弁護団は,本判決を機に,国に対し,中国「残留孤児」に対する施策を抜本的に転換し,全国原告団連絡会が要求する全面解決要求事項について,原告団および弁護団と早急に協議を開始し,中国「残留孤児」問題の全面解決を図るよう強く要求する。
 また,同時に,我々,原告団および弁護団は,中国「残留孤児」問題の全面的解決の実現まで,全力で戦うことをここに宣言する。
 最後に,この訴訟に対し,署名・傍聴活動等により絶大なるご支援をいただいた全国の支援者ならびに他地裁の原告団・弁護団の方々,そして原告らを勇気付ける温かい取材と報道に取り組まれたマスコミ各位に対し,心よりお礼を申し上げるとともに,今後も,全面解決に向けてのますますのご協力とご支援をお願いするものである。
以上

※兵庫弁護団HP
http://www16.ocn.ne.jp/~kojikobe/zanryukojitop.html


※※※※※※※※※※※※※※※

 全 面 解 決 要 求       

  中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告団全国連絡会
  中国「残留孤児」国家賠償訴訟弁護団全国連絡会
              

 中国「残留」日本人孤児は、日本の国策である満州移民政策が生み出した犠牲者である。にもかかわらず、日本政府が敗戦以来取ってきた孤児政策は、政策とは言えないほど貧困である。日本政府は、本訴訟を機に、「残留孤児」に対する施策を抜本的に転換し、「孤児問題」の全面解決を図るよう要求する。

1 責任の明確化と謝罪
(1) 早期帰国のための施策をとらずに「残留孤児」を中国に放置し、帰国後も十分な支援策を立案実施しなかったことの責任を認めること。
(2) その結果、「残留孤児」に多大な犠牲を強いたことに対し謝罪すること。

2 生活保障・生活支援
(1) 「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立支援に関する法律」(自立支援法)を改正し、国の責任において「残留孤児」の生活を保障する旨明記すること。
(2) 「残留孤児」の生活保障のため、「残留孤児」を対象とした新たな給付金制度を創設すること。
「残留孤児」が死亡した場合には、遺族年金として、配偶者に継承させること
(3) 残留孤児が、地域で孤立することなく、また安心して医療を受け、住宅を確保できるよう、生活全般にわたる支援制度を整備すること。
(4) 都道府県に1〜2カ所の日本語教育を受けることができる機関を設置すること。
(5) 働く意欲と能力のある者に労働の場を保障すること。

3 二世・三世対策
 下記のような二世・三世の自立を支援する施策を確立すること
(1) 就学・就労の支援を行うこと。
(2) 住宅確保の支援を行うこと。
(3) 国籍取得、在留資格の付与を容易にすること。特に国籍法附則第5条を改正して、女性孤児の子の国籍取得を容易にすること。
(4) 日本語教育の支援を充実すること。
(5) 安易に送還を行わず、残留孤児の家族であることに十分配慮すること。

4 歴史的検証・啓発活動
 具体的には、満州移民政策や引揚政策についての歴史的検証をすること、「残留孤児」が生まれた歴史を教育の場で教えること。

5 損害賠償
(1) 国の政策によって原告ら「残留孤児」が受けた損害を賠償すること。
(2) 訴訟遂行費用を支払うこと。

6 定期協議
「残留孤児」問題の抜本的解決のため、原告団・弁護団と厚生労働大臣が定期的に協議する場を設けること。

7 関連する事項
(1) 残留婦人にも同等の支援政策を行うこと
(2) 在中国「残留孤児」について、家族を分断することなく、希望する者の早期帰国をはかるなど、適切な施策をとること。
(3) 「残留孤児」の養父母について、国として、謝恩の事業など適切な施策をとること。

神戸地裁判決・勝訴!(日弁連会長談話)

 中国残留孤児国家賠償請求訴訟神戸地裁判決に対する会長談話

本日、神戸地方裁判所は、いわゆる中国残留孤児兵庫県訴訟において、厚生労働大臣の自立支援義務の懈怠を違法として、61名の原告に対する損害賠償を国に命じる判決を言い渡した。

当連合会は、1984年の人権擁護大会で、「中国残留邦人の帰還に関する決議」を採択し、中国残留孤児(以下単に「残留孤児」という)を含む中国残留邦人の日本国籍取得手続を速やかに整備して早期帰還を実現することや、自立を促進する特別の生活保障をするなどの特別立法を含む諸措置を速やかに講ずることを求めた。また、2004年3月には、当連合会に対してなされた人権救済申立を受けて、国に対して、帰国促進策等の徹底や戸籍回復・国籍取得手続の改善のほか、生活保護によらない特別の生活保障給付金制度の創設や日本国民が受給する平均金額以上の年金が受給可能となる所要の立法措置などを講ずることを勧告していた。

全国では約2500名の帰国した残留孤児が生活しているところ、2002年12月の東京地方裁判所への提訴を皮切りに、既に全国15の地方裁判所に、総数2000名を越える残留孤児が本件と同様の訴訟を提起している。

本日の判決は、政府が、残留孤児の帰国を合理的な根拠なしに制限したこと、残留孤児に対して永住帰国後5年間、日本語習得、就職活動、職業訓練に向けた支援を行い、これらに取り組むことができるような生活保持に向けた支援を行う法的義務があるのにこれを怠ったことを違法と評価したうえで、国の損害賠償責任を認めたものであり、残留孤児に対する支援に大きな一歩を踏み出す画期的なものとして歓迎する。

当連合会は、本日の判決を高く評価するとともに、政府及び国会がこれを重く受け止め、その責任において、残留孤児の老後の生活保障など支援施策の抜本的な見直しや立法措置を行うなどの施策を直ちに実現することを再度強く求めるものである。

2006(平成18)年12月1日

日本弁護士連合会
会長 平山 正剛

http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/061201.html

神戸判決迫る!

 明日、12月1日、神戸地方裁判所において判決が言い渡されます。
 また、午後6時30分からは星陵会館(東京)で判決報告集会を開催致します。

10:00 
 判決言渡し(神戸地裁)
18:30 
 12・1全面解決要求実現・神戸地裁判決報告集会
  内容:神戸地裁判決報告ほか
  場所:星陵会館(東京)
      http://www.seiryokai.org/kaikan.html

中国・帰国者まつり'06

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2006年11月26日(日)、江東区豊洲文化センターにおいて
「中国・帰国者まつり'06」
(主催:中国・帰国者まつり'06実行委員会 実行委員長:岩佐一
中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
  中国「残留孤児」訴訟関東原告団、弁護団、
  中国帰国者二世・三世の会
  中国残留孤児支援全国協議会 虹の会
  日本中国友好協会、日中友好雄鷹会 国民学校1年生の会
  法律会計特許一般労働組合有志)
が行われました。

原告・支援者による多彩な演し物のほか、フリーマーケットなどが行われ原告、支援者、弁護団の交流を深め訴訟勝利への決意を新たにしました。

※中国・帰国者まつり('04)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=27

※中国・帰国者まつり'05
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=121

帰国者まつり06のお知らせ

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中国・帰国者まつり'06
 〜中国「残留孤児」訴訟勝利のために〜

これまで闘ってきた中国「残留孤児」国賠訴訟も、いよいよ今年12月1日には神戸地裁で、来年1月30日には東京地裁で判決を迎えます。勝利を勝ち取るためには、原告、支援者、弁護団のさらなる団結が必要です。交流を深め、原告の皆さんを励ましましょう!!
みなさん、お誘い合わせのうえ、ぜひご参加下さい!!

日時:11月26日(日) PM1:00開会

場所:江東区豊洲文化センター 
   最寄り駅:東京メトロ有楽町線・新交通ゆりかもめ「豊洲」駅
   東京都江東区豊洲2−2−18 電話:03-3536-5061
地図:http://www.kcf.or.jp/009map/toyosu_map.html
 
内容:原告、支援者による多彩な演し物盛りだくさん!食べ物・飲み物も用意致します。

参加費:1000円(原告は500円)

連絡先:〒141−0022
    東京都品川区東五反田1-13-12五反田法律事務所内
   「中国・帰国者まつり」実行委員会
     電話/FAX:03-3447-1620

日本は「美しい国」か?−裁かれる中国「残留孤児」政策

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「法と民主主義」11月号で中国「残留孤児」問題の特集が組まれました。
※ご注文はこちらから
http://www.jdla.jp/kankou/itiran.html#houmin

★特集 日本は「美しい国」か?──裁かれる中国「残留孤児」政策
◆特集にあたって……鈴木経夫
◆裁判はこうして提起された──中国「残留孤児」被害は、国の政策被害……菅原幸助
◆「残留婦人」訴訟と「残留孤児」訴訟に関与して……北澤貞男
◆戦後処理問題としての中国残留孤児訴訟──憲法学の視点より……内藤光博

 ●──「残留孤児」訴訟の理論的到達点──●
◆残留孤児訴訟の法的枠組み──救済のための新たな法理論の構築……斉藤 豊
◆大鷹判決・野山判決の批判……井上 泰
◆「残留孤児」の被害とは──戦後補償裁判の中における残留孤児訴訟の位置づけ……田見高秀

 ●──「残留孤児」訴訟の社会的意義と現状──●
◆中国「残留孤児」裁判の全国的展開と運動の到達点……清水 洋
◆全面解決を目指して……安原幸彦
◆尊厳ある生活保障を求め、差別構造の世代相続を絶つために──二世の立場から見た国賠訴訟の意義……大久保明男
◆「孤児」の平和に生きる権利を回復するまで……橋本左内

 ●──「残留孤児」訴訟・原告の声──●
◆私の祖国は何処? 私はなにじんですか?──原告団代表・池田澄江「陳述書」より

■特集にあたって
 一 中国残留孤児の現状
 日本の国策によって旧満州(中国東北部)に送り込まれ、日中戦争終了後、中国の社会で辛うじて生き延び、やっとの思いで日本に帰国できた中国残留孤児たち、戦後六〇年を経過した現在、ほとんどが生活保護を受けて、老後を送るしかない状態に追い込まれている。しかも大多数は、日本の社会では人間として疎外された生活を強いられている。日本語がほとんどできず、さらに日本の親族がいない、というより日本人でありながらその出自が不明のものが多く、血縁者からの援助も、そもそも期待できないのである。それにしても、何故に、生活困窮のままで、日本社会の一員になれないような状況が放置されてきたのか。
 二 残留孤児の発生と国の責任
 「王道楽土」と称する日本の傀儡国家・満州国に、開拓団は国策によって送り込まれた。生活苦から逃れるために「分村」の形で、村ぐるみ満州に渡った人たちもいる。さらには、開拓団のなかには、敗戦の直前に、潜水艦の攻撃に怯えながら、釜山海峡を渡り、やっと北辺の土地に入り、日本からの荷物が着いたと思ったら、なんだかまったく分からないうちに、ソ連軍と遭遇することになった人たちすらいる。開拓団の安否は軍の思考過程からはまったく脱落していた。ソ連との戦争を早くから想定しながら、開拓団に属する日本国民の安全は微塵も顧慮していなかった。日本の参謀本部は、とっくに満州の北部四分の三は放棄することを決め、既に軍隊、すなわち関東軍は、厳重な秘密保持のなかで、南方向へ移動済みであった。そのうえ日本軍は、根こそぎ動員で開拓団の男子を軍に徴兵した。そのため、年寄りと女性と子どもの集団が放置された。その動員も、すなわちリーダーとなるべき人が欠けたことも、多くの開拓団が、纏まって行動できなくなった原因のひとつである。ところで、軍は一方で、関東軍の高級将校の家族については、特別の手段を講じて、いち早く帰国させているのである。
 三 残留孤児の惨状
 ソ連の参戦などまったく寝耳に水であった開拓団は、その軍隊に蹂躙され、次いで土地を奪われるなど恨みをかっていた現地の中国人に襲撃された。逃げるにも、日本軍によって鉄道は破壊され、橋も落とされ、開拓団は軍の作戦から当然に予測されたとおり、文字通り現地に遺棄されたのである。
その後の開拓団の南への移動は、いわゆる「死の逃避行」となり、それに続く収容所での生活も含めて、人間社会の想像を超えた凄惨な状況が現出した。幼児も含めた集団自決、襲撃されての多数の死亡、食糧不足からの大勢の餓死、発疹チブスの大流行等々。死体は厳寒の満州に放置された。そうした中で、何とか生きながらえてほしいとの母親の最後の望みをかけて、中国人に預けられたのが残留孤児訴訟の原告となっている孤児たちである。孤児たちは中国人の日本軍の満州における侵略行為の責めを一身に受け、「小日本鬼子」といじめられ、あるいは僻地農村に下放され、文化大革命ではスパイ扱いされ、苦難の道を歩んできた。
 四 国の対応の無責任
 中国残留孤児に関しては、現在の状況に追い込まれたことについて、いささかも孤児たち自身に責められるべき点はない。しかも、国は、孤児の発生についてその責めを負うべきは当然であるが、その帰国についても、怠慢としか言いようのない策を繰り返してきた。そればかりか、簡単に孤児の死亡宣告をして戸籍を抹消したり、勝手に帰国の意思なしと認定をして、未帰還者からはずしたり、親族が身元保証(帰国してからの生活も含めて)をしないと帰国できないなど、厚労省には、孤児たちの帰国を積極的に妨害をしてきたとしか思えない立法や政策がある。そして、やっと帰国できても、日本での生活経験の全くない孤児に対し、その「自立支援」について、国のしてきたことは、日本語教育といい、職の斡旋といい、無策であったといって過言ではない。中国では医師の資格をもっている者も、病院に関係する職を斡旋するなどまったくなく、掃除婦としてやっと職を得たという例も、一つならず存在している。国の自立支援策の失敗は、孤児の現状が何より雄弁に物語っている。
 五 日本は「美しい国」か
 海外に残った国民に対する件としては、最近では、イラクで誘拐された日本人の救出、北朝鮮の拉致被害者に対する国の対応等はめざましい。後者のためには安倍内閣は閣僚に準ずるような専属のポストまで用意したのである。いずれも国に責任はないのに。しかし、海外にあって帰国を願う日本国民に対する処遇として、それは首肯されこそすれ、我々弁護団も非難する気はない。それと比較して、僅かの予算で、厚生省の一部局の引揚援護局、さらには孤児対策室に、膨大な数の中国残留邦人の帰国、自立支援を担当させて来たのとは、あまりにも違いがありすぎる。その点を強く指摘したい。しかも、厚労省は、これまでの孤児対策について、不手際を認めるどころか、最近では「生活保護を与えているから、自立支援義務は果たしている」とまで言い切っているのである。
 戦後六〇年も経過して、海外に放置した自国民に対して、このような対応しかできない文明国はないであろう。「美しい国」という言葉が最近使われる。これほどの恥部を抱えた国を表現するには、「あまりにもふさわしくない」としか言いようがない。
我々弁護団としては、この損害賠償の訴訟に勝訴することで、老境に向かう孤児たちが、日本に帰ってきて良かったと心から納得できるような、国による施策の実現を求めてきたのである。また、この訴訟の原告全員が、あのような過ちは二度とくりかえさないという誓いを含めた、国の残留邦人(孤児と婦人を含めた)に対する心からの謝罪を求めているのである。
 六 終わりに
 この特集は、残留孤児問題とどのように取り組んできたか、原告団、支援の方々、弁護団ら、関係者の裁判への各取り組み、一〇〇万筆を超えて集めた支援の署名、その他の運動面の現状、あるいは到達した法的な見解等の集大成とするつもりである。特に孤立し、疎外されていた原告たちは、自分の力で次第に団結を強め、連帯の輪を広げ、それを全国にまで拡大してきた。皆様のさらなるご支援をお願いしたい。(すずき つねお)


(中国残留孤児関東弁護団 鈴木経夫)

さらば!戦争映画祭2006 大盛況のうち閉幕

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昨年に引き続き行われた「さらば!戦争映画祭2006」も大盛況のうち、無事行われました。

※写真は映画祭終了後サインに応じる梁英姫(ヤン・ヨンヒ)監督

詳しくは
http://sarasen.noblog.net/blog/10269975.html

今年もやります!映画祭

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さらば戦争!映画祭2006

■日時:2006年11月18日(土)10時〜20時(開場9:30)
■場所:発明会館http://hatsumeikaikan.com/page003.html
■チケット:前売り券2000円 当日券2500円
    >>中学生以下無料!途中入退場可
■上映作品:
「Marines Go Home」 【監督 藤本幸久 2005年】
「アンゼラスの鐘」    【監督 有原誠治 2005年】
「蟻の兵隊」     【監督 池谷 薫 2005年】
「ディア・ピョンヤン」
  【監督 梁 英姫(ヤン・ヨンヒ) 2005年】
 梁英姫監督のトークショー決定!

■この映画祭のこと:
この映画祭は、戦後60周年の昨年、アジア・太平洋戦争とはどういう戦争だったのかその戦争においてどのような被害、そして加害があったのか、それを20代・30代がほとんどである実行委員が、自ら学び、そして多くの人に知ってほしい、という思いで始めたものです。

戦後61周年を迎える今年も、靖国神社への首相の参拝が大きな政治問題になるなど、先の戦争をめぐる議論は、さらに大きな問題をはらもうとしている状況です。  

そこで、あのアジア・太平洋戦争をより多角的な視点からみつめ、それが戦後/わたしたちの生きる今にどのような影響を及ぼしているのかについて深く学ぶために、今年もこの映画祭を行いたいと思います。

現在、9条を中心に憲法改正が議論されていますが、なぜこの憲法ができたのかを検証することなしに、改正の是非を論じることはできません。
憲法で「戦争放棄」を誓った日本、日本人は、その理念を達成するために何をしてきたのか、何をしてこなかったのか。
そこからわたしたちは、何を読み取るべきなのか。
現在の日本、そして世界は、「平和」なのでしょうか。
共に考えたいと思います。

詳しくはこちら
http://www.eigasai-60.com/

昨年の映画祭の様子
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=115
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=116
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=117
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=119

11月18日神戸集会のご案内

 12月1日の神戸地裁判決を目前に控え、11月18日、関西(大阪、京都、兵庫)の原告団、弁護団が市民集会を開催することとなりました。

「中国残留孤児」問題を考える市民の集い
 「わたしたちは なにじんですか?」
 −日本人としての人権と人間回復を求めて−

日時:2006年11月18日 午後2時〜
場所:神戸市立御影公会堂
   神戸市東灘区影石町4丁目4番1号
  (阪神電車石屋川駅から北へ徒歩3分)

第1部 
 劇
 「わたしたちは なにじんですか? 国に翻弄される人生」
  出演:大阪・京都・兵庫の各原告

第2部 
 「ビデオレター 中国残留孤児国家賠償請求訴訟への思い 」(各界から)

連絡先:
〒650−0025
神戸市中央区相生町1丁目2−1東成ビル4階
あいおい法律事務所
電話 078−371−2060

詳しいお知らせ
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/197.pdf

名古屋訴訟・結審

 10月26日、東海3県など7県に住む孤児計207人が提訴している名古屋地裁での裁判のうち168人分の審理が結審しました(判決期日はおって指定されることになっています)。
 既に、東京地裁、神戸地裁でも裁判は結審しており、これで今年になって3地裁で結審し、判決を待つ状況となっています(東京地裁は来年1月30日判決、神戸地裁は本年12月1日判決。昨年7月に判決を言い渡された大阪地裁の訴訟は現在大阪高裁に係属中)。

名古屋訴訟結審へ

 10月26日(木曜日)、いよいよ名古屋地裁で争われてきた中国残留日本人孤児国家賠償請求訴訟が結審します。全国的には、12月1日に神戸地裁で判決が出され、来年1月30日には東京地裁の判決が出される予定です。名古屋地裁の判決も来春には出される見通しです。このように、これから来春にかけて、全国各地で闘われてきた中国残留日本人孤児国家賠償請求訴訟は、非常に重要な局面を迎えます。これから来春にかけての裁判において、昨年の7月6日の大阪不当判決を覆し、政府の責任を明確にさせた判決を、なんとしても勝ち取るために、全力で闘っていかなければならないでしょう。そのために、全国的規模で、原告団とその家族、弁護団、支援者のより強い結束をつくり上げ、裁判勝利と帰国者問題の全面解決へ向けた強力な世論を巻き起こしていかなければならないでしょう。その一環として、今回の名古屋での総決起行動に、全国各地で闘われている皆さんの結集を、心から呼びかけます。


名古屋総決起行動

2006年10月22日(日曜日)

(1)デモ行進   13時−13時45分

集合時間 12時半

集合場所 久屋大通公園シドニー広場  
 名古屋市中区丸の内三丁目5番地内
(地下鉄名城線「市役所」下車4番出口)
 デモコース 大津通→栄 

(2)総決起集会 14:30−16:30

 会場 名古屋市教育館  名古屋市中区錦三丁目16番6号 TEL 052−961−2541

(地下鉄東山線「栄」下車3番出口)

主催 中国「残留孤児」国家賠償訴訟 東海原告団
共催 中国「残留孤児」国家賠償訴訟 東海弁護団
中国「残留孤児」国家賠償訴訟 推進協議会

支援者交流の集い・開催

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 10月6日、東京霞ヶ関の弁護士会館において、
“中国「残留日本人孤児」の人間回復の闘い勝訴へむけて・支援者・交流の集い”
が開かれ、50名を超える支援者らが参加しました。

 集いでは、まず、作家であり、100万名署名の呼びかけ人でもある林郁さんと渡辺一枝さんが「私と中国『残留孤児』」と題して講演されました。
 お2人とも裁判以前から「残留孤児」問題にかかわられ、裁判提起後も裁判傍聴をされており、裁判勝利へかける思いを語っていただきました。

 その後、全国弁連事務局長の清水洋弁護士による法廷内外の動きについての報告、支援者の意見交流が行われ、原告団代表の池田澄江さんによる決意表明が行われました。

支援者・交流の集いのお知らせ

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中国「残留日本人孤児」の人間回復の闘い
 勝訴へむけて 支援者・交流の集い

 中国「残留孤児」国家賠償訴訟(関東地区原告1000余人)は足掛け4年、ようやく去る5月24日、東京地裁で結審、来年1月30日に判決です。昨年7月の大阪地裁の不当な敗訴判決を何としても乗り越え、絶対に勝訴しようと、原告、弁護団は取り組んできました。
 支援の輪をもう一回り大きく広げていくため、<支援者・交流のつどい>を開きます。
 せひご参加ください。

●と き:2006年10月6日(金) 午後6時〜8時(開場午後5時30分)
●ところ:弁護士会館12階 第一東京弁護士会講堂
     (地下鉄:丸の内線「霞ヶ関」駅下車・B1出口)

【プログラム】(予定)
■講演=私と中国「残留孤児」

○林 郁(はやし いく)さん(作家)
 1937年、長野県生まれ
 著書:「満州・その幻の国ゆえに」「大河流れゆく−中国北辺の旅」「糸の別れ」(以上筑摩書房)など多数。
○渡辺一枝(わたなべ いちえ)さん(作家)
 1945年、ハルビン生まれ
 著書:「ハルビン回帰行」(朝日新聞社)「桜を恋う人 二つの祖国に生きる」(集英社)など多数。

■報告=弁護団 ■支援者の意見交流
■原告団代表の決意表明


主催:中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
   〒141-0022 東京都品川区東五反田1-13-12 五反田富士ビル5階
    五反田法律事務所
     TEL&FAX03−3447−1620
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日中友好協会本部:03-3234-4700
日中友好協会東京都連:03-3261-0433
日中友好雄鷹会:03-3203-1539
中国残留孤児問題全国協議会:03-5410-6051
下町人間の会:03-3876-4779
国民学校一年生の会:03-3330-2462(宮国方)

第2陣訴訟スタート

 9月26日、東京地方裁判所において、本年5月24日に結審した原告40名を除く原告1649名について口頭弁論期日が開かれ、第2陣原告の審理が実質的にスタートしました。
 原告4名が意見陳述を行ったほか、弁護団幹事長の安原幸彦弁護士より以下のとおり意見陳述が行われました。

「既に原告40名の第1次訴訟は、本年5月24日、弁論を終結し、来年1月30日に当裁判所で判決が言い渡されることが決まっています。第1次訴訟の原告40名は、2002年12月20日の提訴時点で結集した637名の原告の中から、早期結審を図るために選抜されたものです。その余の597名(正確にはその後取り下げた8名を除く589名)、そして3次にわたる追加提訴を加えて1052名の原告は、本日、ようやく自分たちの裁判をスタートすることができたのです。第1次訴訟は、結審直前の裁判官の交代もあって、判決まで4年余りを要することになりました。この4年間のうちに、第1次訴訟原告10名が、不本意ながら生活保護の受給を余儀なくされました。原告の生活苦は深刻化するばかりで、一刻も早い救済が求められています。しかし、国は、生活保護以外に一切救済の手をさしのべようとしません。その根本原因は、原告ら「残留」孤児をこのような事態に追い込んだ自らの責任を認めようとしないからです。 先日、結審を間近に控えた高知地方裁判所の中国「残留」孤児・婦人国家賠償訴訟の審理で、孤児の惨状を見るに見かねた裁判長が、「原告らの現状が放置しておけない状態にあることは事実だ。何とか解決する道はないか。」として国に和解解決のテーブルに着くことを勧告しましたが、国は「和解の余地は全くありません」と述べて、にべもなく拒絶しました。国がこのような頑なな姿勢を取る限り、私たちは、国の責任を断罪する司法判断を求めて闘い続けるしかありません。第1次訴訟が代表訴訟であるとすれば、第2次から第5次の訴訟は、原告ら「残留」孤児本隊の救済を実現するための訴訟なのです。(以下略)」

 また、8月19日にNHK・BS1にて放映されたBSドキュメンタリー「満蒙開拓団〜ある家族の軌跡〜」(http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=184)のビデオが上映されました。

 口頭弁論終了後には、原告、弁護団、支援者の代表が東京地裁宛公正判決要請署名5万筆が提出されました。

※次回口頭弁論期日は、12月22日午後1時30分(103号法廷)です。

「残留婦人」追加提訴

終戦時に13歳以上だった埼玉や神奈川などに住む77〜85歳の中国「残留婦人」6人が22日、さいたま地裁に提訴しました。05年4月に13人(1人は取り下げ)が提訴しており、今回の6人を加えて原告団は18人となりました。

http://blogs.yahoo.co.jp/genkokusien/40466487.html

満蒙開拓団〜ある家族の軌跡〜

8月19日(土)午後10:10〜午後11:00
NHK・BS1にて、
BSドキュメンタリー「満蒙開拓団〜ある家族の軌跡〜」
が放映されます。

「戦前、旧満州に開拓団として渡ったある家族の姿を、当時から現在まで見つめ、日本と中国の間に横たわる重い歳月を描いた番組」

http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2006-08-19&ch=11&eid=31228

終戦記念日デモ

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終戦記念日の8月15日、中国「残留孤児」訴訟原告団、支援者、弁護士ら約700名は、終戦後61年経ても未だ「残留孤児」問題の解決を図らない国に対して抗議するるとともに、裁判の勝利を目指して東京霞ヶ関の官庁街を約30分間デモ行進を行いました。

※しんぶん赤旗の記事
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-08-16/2006081614_01_0.html

8.15デモのお知らせ

終戦記念日の8月15日、中国「残留孤児」訴訟原告、支援者、弁護団は下記のとおりデモ行進を行います。

集合日時・場所:午後2時30分、日比谷公園霞門

取り残された民衆(再放送)

8月11日、NHK・BShiで放映された
「取り残された民衆  〜元関東軍兵士と開拓団家族の証言〜」
が8月15日午後11時〜 NHK・BS1で再放送されます。
http://www.nhk.or.jp/bs/bsdoc/

取り残された民衆  〜元関東軍兵士と開拓団家族の証言〜

8月9日(水)午後9:00よりNHK・BShiで、
「取り残された民衆  〜元関東軍兵士と開拓団家族の証言〜」が放送されます。

「1945年8月9日、満州にいた日本人たちは、突然のソ連軍侵攻によって大混乱に陥った。関東軍の主力部隊は既定の作戦方針に従ってソ連軍の侵攻以前に満州の南部に撤退し主要な鉄道は軍とその家族に占有され、居留民は無防備のまま敵前に取り残された。民間人は何の情報も得られないまま、自力で避難を始めるが、進撃してきたソ連軍の標的にされ幾多の悲劇を生んだ。犠牲者は17万6千にのぼった。国民を守るべき軍隊はなぜ事前に撤退したのか。そのために民衆は何を思いながら満州の山野をさまよったのか。
番組では、元兵士と民間人の証言、残された資料と映像をもとに、ソ連軍侵攻以前から軍がどのように行動したのか。民間人がどのような過程をたどったのかを丹念にトレースし、悲劇の記憶を掘り起こして記録する。」
http://www.nhk.or.jp/bs/hvsp/

広島訴訟・判決は来年4月25日に

 広島県内の中国残留日本人孤児ら61人が原告となっている中国残留孤児広島訴訟の口頭弁論が19日、広島地裁で開かれ、裁判長より11月15日に結審し、来年4月25日にも判決を言い渡す意向が示されました。

http://blogs.yahoo.co.jp/genkokusien/38052437.html

兵庫訴訟・結審!判決は12月1日

 7月14日、兵庫県内の「孤児」65名が原告となっている中国「残留孤児」兵庫訴訟が、神戸地裁で結審しました。
 判決期日本年12月1日午前10時と指定されました。
http://blogs.yahoo.co.jp/genkokusien/37631437.html

結審前行動の様子はこちら
http://www.geocities.jp/czk_oka/
(中国残留孤児in岡山)

神戸地裁宛公正判決要請署名
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/177.pdf


※中国「残留孤児」国家賠償請求兵庫訴訟(弁護団HP)
http://www16.ocn.ne.jp/~kojikobe/zanryukojitop.html

※中国「残留孤児」国家賠償請求兵庫訴訟(支援)
http://karen.saiin.net/~nicchu-hyogo/koji/index.html

署名推進ニュース(NO.10)

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中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
署名推進ニュース(関東版)
NO・10 2006年6月

 東京地裁(第1次) 訴訟結審、“07年1月30日に判決!                       
 裁判官宛「公正判決求める」署名に全力!

5月24日、中国残留「孤児」訴訟で注目されていた「東京地裁」第1次訴訟(原告40人・原告総数1092人)が結審を迎え、来年1月30日同地裁103号室で判決が言い渡されることになりました。
 ◇被告(国側)の主張を詳細に反論!
最終弁論は、第1章「はじめに」、第2章「本件請求を基礎付ける事実」、第3章「早期帰国実現義務違反」、第4章「自立支援義務違反」、第5章「被害の本質と原告らの損害」、第6章「「国の抗弁に対する反論」、第7章「終わりに」の7章にわたって、10人の弁護士が、その要旨について意見陳述を行ったほか、原告40人全員について紹介し(うち35人が出廷)、9人の原告が意見陳述を行いました。とくに原告が、次々と中国での棄民生活の厳しさと悲惨さ、日本人と解ったときの驚愕と望郷の想い、戦時死亡宣告を受けたときの怒りと悲しみ、帰国後の日本の政府の冷たい仕打ちを涙ながらに述べると会場からはすすり泣きも聞こえ、裁判官も真剣に耳を傾けていました。
 ◇弁護団長・原告代表が「正義・公正な判決を」要請!
弁論の最後に、鈴木経夫弁護団長が「この裁判は、どの角度から見ても日本政府の責任において解決すべきもの」と述べ、池田澄江原告団代表が「裁判官の良識を信じます。孤児たちに光を」と締めくくりました。
 ◇勝利めざし、運動の継続を!
支援組織の「中国残留孤児の人間回復を求める市民連絡会」佃俊彦事務局長(弁護士)は「原告・弁護団・支援者は、やるべきことは全てやってきた。必ず勝利すると確信している。来年1月の判決に向けさらに活動を強化したい」と語り、引き続く支援強化を呼びかけています。日中友好協会・日中友好雄鷹会・国民学校1年生の会・孤児全協・虹の会などの支援組織はこれに応え取り組みを強化、東京・神奈川・埼玉・千葉などの原告団は毎週の街頭署名をさらに強めています。


 東京地裁裁判官宛に30万を超す「要請署名」を!    
裁判終了後、東京地裁裁判官宛の「公正な判決を要請する署名」8万筆が裁判所の書記官経由で裁判官に提出されました。前号(NO9)で報じたように、原告の約半数の原告団が参加する「東京地裁で勝利するかどうか」が全国の 裁判勝利の帰趨を握っており、当面「東京地裁裁判官宛要請署名」を最重点に運動を展開します。目標は30万筆以上、時期も9月末を区切りにしています。全国各地から多くの署名を結集しましょう。 結審後も各地から署名が次々と寄せられています。
 ☆神戸・京都も結審間近、「裁判官宛要請署名」を展開!
東京に続いて、神戸地裁は 7月14日、京都地裁は 8月12日に結審を迎えます。東京地裁要請署名とあわせて、「神戸・京都地裁裁判官宛要請署名」にも取り組みましょう。


 東京での「全国統一行動」に1000名以上が参加! 
結審の前後の5月23日から5月25日に掛け、全国各地の原告団・弁護団・支援組織から1000人が参加し、デモ・座り込み・国会要請を展開しました。5月23日は東京都港区芝公園から厚生労働省までデモ行進「国は・残留孤児に謝罪せよ」「老後を保障する年金制度を作れ」と都民に呼びかけました。午後3時から5時まで厚生労働省前で、座り込み要請行動に取り組み、集会では次々と勝利への激励と決意が述べられました。
5月23日夜には、日比谷公会堂で「決起集会」を開催。全国の原告・弁護団が報告と決意を表明。政党から激励と連帯の挨拶(日本共産党・社会民主党が参加・民主党からはメッセージ)が、述べられました。
5月25日は、原告団と弁護団を中心に衆参両院議員への要請行動を展開、「院内集会」が開かれ議員関係者 約50人が参加し、熱心な討論を行いました。

 小泉首相あて103万余の「請願署名」を提出!
5月23日午前、小泉首相あてに取り組んできた「請願署名」21万筆が提出されました。これには内閣府山田哲範総務課調査役が立会い「早速総理宛届けます」と応対しました。これで3次にわたって提出された「請願署名」は、103万8848筆に達しました。「100万署名」は国会での孤児問題立法化に大きな意味を持っており、引き続き取り組みが続けられています。
★ お願い★ 
@同封の「東京地裁要請署名」を増刷し署名を集めてください。
また署名簿が必要なら市民連絡会にご連絡ください。集った署名は、早めにお送りください。
A「神戸・京都地裁宛署名簿」はご注文あればお送りします。
B「要請署名」でも団体訪問を行っています。その節はよろしくお願いします。
C募金のご協力に感謝いたします。さらにご協力をお願いいたします。
Dさまざまな情報の提供をお待ちしています。(事務局)

中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
事務局 
〒141-0022東京都品川区東五反田1-13-12五反田富士ビル5F
五反田法律事務所内 
пEFAX 03-3447-1620    
口座名 中国残留孤児人間回復運動支援資金
郵便振替口座 00130-0-581422 
銀行口座 東京三菱銀行五反田支店 普通預金口座 20676999
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※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

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NO.6 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=4
NO.5 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=34
NO.4 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=21
NO.3 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=33
NO.2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=20
NO.1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=19

『中国残留日本人─「棄民」の経過と、帰国後の苦難』(大久保真紀)

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これまで、中国残留日本人孤児等の取材を続けてこられた朝日新聞記者大久保真紀さんによる『中国残留日本人─「棄民」の経過と、帰国後の苦難』(高文研)が発売されました。

日本の敗戦により、「満州」に置き去りにされ、生きるために中国に残らざるを得なかった残留婦人・孤児たち。やっとの思いで祖国・日本に帰りついたが、そこに待っていたのは……。
新聞記者として20年にわたり、「国家」に翻弄される人びとに寄り添い、苦難の人生を見つめ続けたヒューマンドキュメント!

●目次
はじめに

T「原告番号1番」池田澄江さんのたどった60年
「日本政府は本当に冷たい」
世界一尊敬している養母のこと
養父母に預けられた経緯
貧乏のどん底へ
つのる祖国への想い
恐怖の文革時代
肉親の情報を求めて
「私の心は日本に届く」
祖国の土を踏む
まぶたの父は、父ではなかった
強制送還の恐怖
日本人なのに、日本国籍を取得できない?
正真正銘の日本人に
日本語の壁
弁護士事務所の事務員に
中国人の夫が日本社会になじむまで
子どもたちが猛烈ないじめに
娘が見つけた居場所
中国に残した養父母
奇跡の再会
「一歳」の誕生パーティー
「残留孤児」の生存権をかけて
原告団の代表として

U「強行帰国」で国を動かした12人の残留婦人
「祖国で死なせて」
「強行帰国」のリーダー
国友忠さんとの出会い
シベリアに抑留された夫は再婚していた
養家は布団もない極貧農家
「強行帰国」への準備
中国帰国孤児定着促進センターへ
記者会見で語った一二人の思い
「中国残留邦人等帰国促進・自立支援法」の成立
帰国後の暮らし
特別身元引受人との葛藤
精神的な上下関係
「国からお金をもらって、毎日遊び歩いている」
子どものためだけに生きてきた
「日本人の女の配給だ」
文革の嵐を生き抜いて
一回でいいから、中国に残した子どもに会いたい
たまたま死ねなかっただけ
五〇〇キロのコーリャンと交換で嫁に
中国から呼び寄せた家族が直面した「壁」
娘の「おしっこ!」がわからない
孫娘が弁論大会に出場

V 政府の強制退去命令とたたかった 井上さん家族の「きずな」
第二の家族離散
強制収容
二度目の強制収容
仮放免という身分
忘れられないキュウリの味
土地改革で生活が一変
帰国できなかった理由
下放された農村での生活
帰国までの長い道のり
一万円の生活保護の制約
中国に残した長女と次女を呼び寄せる
新たなたたかい──強制退去命令の取り消しを求めて
強制収容で一変した生活
敗訴──福岡地裁三〇一号法廷「棄却する」
控訴審開始
拘留一年一〇カ月後の仮放免
勝訴──福岡高裁五〇一号法廷「原判決を取り消す」
希望の歌「離れたくない」
「残留日本人」を生み出した歴史と残された課題

http://www.koubunken.co.jp/0375/0365.html
(高文研HP)

東京訴訟・結審!

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2006年5月24日、東京地裁103号法廷において午後1時30分より口頭弁論が開かれ、原告側は最終弁論を行いました。

原告側は、裁判所に提出した最終準備書面の各章(第1章 はじめに、第2章 本件請求の基礎となる事実、第3章 早期帰国実現義務違反、第4章 自立支援義務違反、第5章 被害の本質の原告らの損害、第6章 国の抗弁に対する反論、第7章 おわりに)ごとにパワーポイントを使いつつ、10人の代理人がその主張の要旨を述べ、被告国の責任を明らかにしました。
※鈴木弁護団長の最終弁論
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=166

また、病気等のため欠席した5名を含む40名全ての原告についての紹介を行い、9名の原告が最後の意見陳述を行いました。
※原告紹介及び意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=173

最後に証言台に立った原告代表の池田澄江さんは、

「私たちは、みんな高齢です。これからの人生だけでも、普通の日本人として人間らしく生きられるようにして欲しいのです。裁判官の先生、ぜひとも、この私たちの思いを受けとめてください」

と述べて陳述を締めくくり、2002年12月提訴以来約2年半闘われた裁判の審理は終結したました。
※池田原告代表の最終意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/174.pdf

審理の終結後、裁判長より、2007年1月30日午後1時30分の判決期日が正式に指定されました。

※2006年4月25日口頭弁論
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=148
※2006年2月21日証人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=140
※2005年12月22日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=125
※2005年11月8日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=113
※2005年8月31日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=91
※2005年6月1日口頭弁論(弁論更新手続)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=43

※全国の提訴状況(最新)はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/36.htm


裁判終了後、原告、弁護士、支援者はこれまで集まった約8万筆の「公正判決要請署名」を東京地裁民事第28部に提出しました。
※以下より「公正判決要請署名」の用紙をダウンロードすることができます。プリントアウトしてご使用下さい。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/143.pdf


※写真は、結審後、記者会見を行う原告・弁護団

東京訴訟・結審!−原告紹介及び意見陳述

☆「本件請求を基礎づける事実」に関連して

●H.Hさん(原告番号34)
 2004年11月25日、原告として法廷でも陳述しましたが、Hさんは、敗戦のわずか3ヶ月前の1945年5月に、家族とともに開拓団として満州に渡りました。当時、8歳でした。3ヶ月後、Hさんは、逃避行の末、ソ連軍との激しい交戦として有名な佐渡開拓団事件に巻き込まれ、父母、2人の姉を無くし、孤児となりました。1944年10月頃からソ連参戦の予兆はあったにもかかわらず、被告国が開拓団を送り続けたため、まさにHさんは孤児になったのです。
●U.Tさん(原告番号8)
 Uさんも2004年11月25日に、原告として法廷で陳述しました。当時5歳のUさんは、母と4人の兄弟とともに逃避行し、その途中、日本人の集団自決に巻き込まれました。麻山事件です。この時、Uさんは、誰かに銃剣で頭を刺されて失神しました。気付いた時、Uさんは既に息絶えた母の死体の下になっていました。「私と姉の2人は、草の根をかじり、畑の野菜を盗んで食べ、夜は母親の遺体に抱きついて泣きながら寝るという日が何日も続きました。遺体が腐っていく臭いと「ぶーん」という蚊の飛ぶ音は決して忘れることはできません。」とUさんは陳述しています。
●Y.Tさん(原告番号24)
 Y.Tさんは、病気のため、残念ながら本日出頭することができません。当時8歳のYさんは、敗戦後、父母がいない中、兄として、5歳の弟の手を引き、3歳の妹を背負って、匪賊や暴民から逃げ逃避行をしました。襲撃を受けたある日、一緒に逃げていたおばさんから「おい照也、あんたの妹血が流れてる、死んでるよ。」と言われ、自分の背中で妹が死んでいるのを知りました。
●T.Tさん(原告番号13)
 T.Tさんも、病気のため、残念ながら本日出頭することができません。裁判官宛てに伝言がありますので、代読します。
 「私は、原告番号13番のT.Tです。体調が悪く、残念ですが、結審の法廷に参加できません。お許しください。私は、6歳のころ、中国の内モンゴルで敗戦を迎えました。逃避行の途中、ソ連軍と日本軍の戦闘に巻き込まれ、日本兵に母と妹弟の3人が目の前で射殺、私も打たれが弾がそれたらしい。中国人養父母に助けられ小学校の先生をしていたが、6年前に永住帰国しました。二度とこんな悲しい戦争孤児が発生しないように、正義の判決をお願いします。」
●清水宏夫さん(原告番号2)
 清水さんは,養父から,もっぱら労働力として扱われました。朝3時に起きて家族のご飯の支度をし,一人で家畜の世話をしなくてはなりませんでした。養父母の実子は学校に行くことができましたが,清水さんは通わせてもらえませんでした。養父母の吸うアヘンを調達させられたことまでありました。
※2005.6.1口頭弁論期日における意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/39.htm
●Y.Zさん(原告番号35)
 Yさんは,2004年12月22日,原告として法廷で陳述しました。Yさんは12歳の時,公安局に呼び出され,残留日本人の最後の引揚であると言われました。連れて行ってもらえるように泣いて頼みましたが,保護者のいないこどもはだめだと言われて,帰国していく日本人を泣きながら見送ったという経験を述べています。
●紅谷寅夫さん(原告番号33)
 紅谷さんが15歳のとき,勃利県の職員が養父母の元を訪れました。紅谷さんの帰国についての相談だったようです。しかし,職員とBさんは直接会うことができず,帰国の夢は叶いませんでした。この時,孤児の実情に応じた引揚政策があれば紅谷さんは15歳のときに帰国することができたはずです。
※2005.6.1口頭弁論期日における意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/38.htm
●T.Rさん(原告番号16)
 Tさんは1955年,18歳のときに日本の親族に宛てて手紙を書いています。国はこの時から登坂さんの生存・その所在まで分かっていました。しかし,Tさんは,国から帰国するかどうかの意思確認を受けたこともなく,また帰国する方法も教えてもらえませんでした。
何の情報も与えられず,帰国する術も見つけられないまま25年の月日が過ぎ,結局Tさんが永住帰国したのは1980年のことでした。Tさんは43歳になっていました。
○S.Tさん(原告番号21)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/161.pdf
○S.Kさん(原告番号28)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/162.pdf


☆「早期帰国実現義務違反」に関連して

●T.Sさん(原告番号22)
 Tさんが中国に残されていたとき、近くに住んでいた残留婦人が1953年に後期集団引揚げで日本に帰国し、また親しくしていた残留孤児が国交回復前の1960年台の半ばに個別引き揚げで日本に帰国しました。Tさんも、早くから自分も日本に帰国したいと思い続け、国交回復直後から、日本大使館に手紙を書き始めました。平成16年11月25日の本人尋問で、Tさんは、繰り返し手紙を書き続けたこと、思い余って日本大使館に4日間にわたり直訴の行動をとったりしたことなどの苦労を語っています。しかし、国が身元未判明孤児の帰国政策をつくることが決定的に遅れたために、永住帰国できたのは1985年、42才のときでした。
●K.Nさん(原告番号15)
 Kさんは、母親の異なる兄と一緒に中国に残されました。兄は、1953年の後期集団引揚げで帰国し、日本政府に、Kさんの生活している場所を届け出ていました。しかし、国は、中国での居場所のわかっている菊地さんに対し、直接、帰国を呼びかけることすら一切しませんでした。Kさんは1975年に一時帰国をしましたが、このときに国は、残留孤児が安心して帰国し、生活をすることを可能とする政策を全くもっておらず、菊地さんに、永住帰国の意思確認すらしませんでした。国から家族責任を押しつけられた兄も悩み続け、そのため、さんの永住帰国できたのは1991年、52才のときまで遅れました。
●I.Tさん(原告番号7)
 Iさんは、後期集団引き揚げの際や、1981年頃に日本大使館に書き送った手紙に対して大使館から経歴の調査票がきたとき、あるいは1986年の訪日調査の成果で身元判明したときに、日本に帰国するチャンスがありました。ところが、国が、その時々において、残留孤児の帰国する権利を実現するために、残留孤児の特殊性をふまえた適切な政策をつくっていなかったために、結局Iさんはチャンスをいかすことができず、永住帰国できたのは1994年、56才のときまで遅れました。Iさんは、平成17年8月30日の本人尋問で、残留孤児が日本にいくことを決断することにさまざまな困難があったことを語っています。
●Y.Tさん(原告番号10) 
 Yさんは、実の母がまだ健在です。戦時死亡宣告制度ができるや、行政は、Yさんの母に対し、帳面の整理のために、死んだと言えと執拗に迫りました。このことは平成17年11月8日に行われた本人尋問の際にビデオを通して、母ご自身の語りとして聞きました。母に対する人権侵害と評価してもよい言動に、その後も行政は一片の謝罪もなく、本来協同し合ってYさんの所在を調査する関係にある留守家族と行政との間に、埋めがたい不信の溝ができました。Yさんが1977年に一時帰国をしたときに、国は、永住帰国に関する説明を行っていません。それは無策であったからであり、無策であることを基本方針としたからでした。Yさんは、中国の養母の問題、妻と未成年の5人の子どもたちの問題を個人で解決することを余儀なくされ、結局永住帰国は養母が亡くなった後の1989年、46才のときになってしまいました。
●T.Yさん(原告番号19)
 文化大革命下で強い差別を受けたTさんは帰国への想いをより一層強くしましたが、日中国交回復後もその具体的方途を知らされず、長期間帰国を果たすことができませんでした。国ではなく、知人から訪日調査のことを知ったのは国交回復から21年後の1993年です。それから4年後の1996年、ようやく訪日調査に参加できましたが、時既に遅く、身元は判明しませんでした。それでも帰国への想いは強く、身元引受人制度を利用して帰国を果たそうとしましたが、ここでも身元引受人の斡旋を2年間も待たされたことなどにより、念願の帰国が果たせたのは戦後から実に43年、国交回復からも26年経過した1998年6月のことです。このとき既にTさんは53歳になっていました。
●N.Hさん(原告番号18)
 日本に帰国して、敗戦時に別れた際、泣きながら頬にキスをしてくれた実母と再び会いたい。そんな希望を胸に、Nさんは中国での辛い生活に耐え続けていました。1976年に日中国交回復を知り、直ちに日本大使館へ手紙を3通も出しましたが、長期間返信がありませんでした。しかし、3年後に日本人ボランティアと偶然知り合うことができ、その協力を得ながら帰国手続きを進めましたが、当時はNさんのような身元未判明孤児の帰国を可能とする制度がなかったため、帰国を希望しても帰国できない状況でした。それでもNさんは待ちきれず、1986年6月、48歳の時、民間ボランティアに身元保証人となってもらい自費帰国しましたが、旅費が足りなかったため家族全員が船便で帰国しています。
●T.Tさん(原告番号27)
 Tさんは、日中国交回復前から、日本への帰国を希望し続けていました。しかし、帰国の具体的方法を知ったのは、1977年、帰国意思の調査に訪れた公安局員から聞いたことがきっかけです。これを機に、1983年に訪日調査に参加した結果、叔父と再会することができ、身元が判明しました。Tさんは直ちに帰国を希望しましたが、叔父からは身元引受人となることを拒否され、帰国できませんでした。それでもTさんの帰国意思は固く、身元引受人制度を利用するため厚生省に対し、自分の身元判明認定書を取り消して欲しいという手紙を送った程です。民間ボランティアの必至の説得もあり、最終的には叔父も身元保証人となることに同意しましたが、帰国が実現したのは1989年、身元判明から6年後のことでした。
●S.Eさん(原告番号4)
 Sさんも、国交回復前から帰国意思を持ち続けていたにもかかわらず、国交回復後も被告から具体的な帰国方法を知らされず、国交回復から14年の時を経て、民間ボランティアの一人だった菅原幸助氏の力を借りてようやく帰国を果たした身元未判明孤児の一人です。本日、この法廷で意見を述べる予定でしたが、先日怪我をしてしまい、この場に立つことができませんでした。変わりに菅原延吉さんご本人からメッセージを預かっていますので、以下、代読します。
「私は原告番号4番のS.Eです。足首を捻挫し、残念ですが結審の法廷を欠席させていただきます。中国の文化大革命の時、私は28歳の青年でしたが、胸に日本軍国主義の子孫と書いた布をぶら下げ、頭に三角帽子を被されて、町中を引き回されました。この裁判でデモ行進をやると、あの時のことを思い出します。裁判長殿、私のあの悔しさを忘れさせるような立派な判決を書いて下さい。」
○N.Rさん(原告番号14)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/163.pdf
○M.Sさん(原告番号40)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/164.pdf


☆「自立支援義務違反」に関連して

●T.Bさん(原告番号9)
 2004年12月22日、原告本人尋問を行いましたので、簡単に紹介します。Tさんは、1988年10月、47歳で帰国しましたが、被告が用意したたった1年間の日本語教育では、ほとんど日本語能力は身に付きませんでした。現在も、簡単な日常会話が理解できる程度で、新聞も読めません。そして、被告からの就労支援の全くない中で、仕事を探したものの日本語ができないことを理由に断られ続け、やっとボランティアの紹介で酒屋に就職できました。Tさんは、中国では、教師をし、校長にまでなりましたが、そのキャリアを生かすことはできませんでした。その後、定年退職するまで酒屋で働き続けましたが、退職後の年金は月6万円以下であり、生活保護を受給しなければ生きてはいけない状況に追い込まれています。
●A.Kさん(原告番号20)
 Aさんは、身元は判明しておらず、敗戦時推定3歳でした。小学校に2年間通っただけで、物心付いたときから農業に従事してきました。1989年3月、46歳で帰国しましたが、やはり被告が用意したたった1年間の日本語教育では、あいさつ程度の日本語ができるだけで、食事の注文も満足にできない状態でした。現在も、新聞などは全く読むことができません。そして、被告からの就労支援のない中で、知人の伝手で工場労働者となりましたが、日本語ができないことから、重労働・低賃金を強いられ、会社の業績が悪化すると真っ先にリストラされました。退職後の年金は月5万円以下であり、Aさんも、生活保護を受給しなければ生きてはいけない状況に追い込まれています。第2言語(この場合、日本語)の習得の前提として、第1言語(この場合、中国語)の習得は不可欠です。原告ら中国残留日本人孤児の場合、Aさんのように、中国語の教育すら満足に受けられなかった者が大勢います。そのような孤児に対しては、特に綿密な日本語学習カリキュラムが必要だったにも関わらず、被告は漫然と短期間での学習支援しかせず、原告らの自立を支援する義務を怠りました。
●K.Mさん(原告番号25)
 2005年12月22日、原告本人尋問を行いましたので、簡単に紹介します。Kさんは、1985年6月、49歳で帰国しました。敗戦時10歳でしたが、日本語はすっかり忘れていました。帰国前に、独学で日本語を学んではいたものの、到底社会生活を営めるような程度ではありませんでした。しかし、所沢定着促進センターでの4ヶ月間の日本語教育しか受けることはできませんでした。その後、被告からの就労支援のない中で、病院の清掃の仕事に就きましたが、日本語ができないため苦労をし、退職後は、生活保護を受給しなければ生きてはいけない状況に追い込まれています。
●K.Eさん(原告番号26)
 2005年8月30日、原告本人尋問を行いましたので、簡単に紹介します。Kさんは、1991年7月、49歳で帰国しましたが、やはり被告が用意したたった1年間の日本語教育では、ほとんど日本語を習得できず、しかも就労後に日本語を使う機会がなかったため、現在では日本語は全くと言っていいほど話せません。買い物もままならず、生活すること自体が困難な状況です。Kさんも、被告からの就労支援のない中で、自力で探した清掃会社で働いていましたが、退職後は、生活保護を受給しなければ生きてはいけない状況に追い込まれています。
●F.Yさん(原告番号29)
 2004年12月22日、本人尋問を行っています。Fさんは、1997年、53歳で帰国しました。Fさんが初めて厚生省に手紙を出してから8年以上経っていました。子どものころは成績もよく、中国で働いていたころは記憶力がよいと言われていたFさんですが、日本語を話すことがどうしてもできません。帰国が遅れ、年をとってから日本語を勉強しなければならないからです。Fさんと夫は、職業訓練校に通って技術を身につけようとしたのですが、生活指導員から「合格するはずがない」と強く言われて、諦めざるを得ませんでした。結局、Fさんと夫は、帰国後一度も就職できず、ずっと生活保護を受給しています。
●S.Tさん(原告番号30)
 2004年11月25日に本人尋問を行っています。Sさんは、47歳で帰国しました。Sさんは、初め、日本語ができなくとも働けるリサイクル会社に就職しましたが、日本語で話ができるようになりたくて、3ヶ月で仕事を辞め、6ヶ月間、拓殖大学の日本語学校へ通って勉強しました。しかし、日本語の勉強を始めるのが遅いし、合計約1年の日本語教育では、挨拶ができる程度にしかなりませんでした。資格を取って働きたかった齋間さんは、職業訓練校にも通いました。しかし、教科書も授業も日本語で、通訳もいなかったため、ほとんど何にも身につきませんでした。Sさんは、帰国する前は、中学校の校長をしていましたが、帰国後は、単純な清掃の仕事しかできませんでした。今は、生活保護を受給しています。
●Y.Rさん(原告番号32)
 2005年11月8日、本人尋問を行っています。Yさんは、1985年に44歳で帰国しました。Yさんは、日本で簿記の資格を取り、経理事務として就職しました。しかし、電話に出ることができないし、最初の頃は、同僚や上司の話している内容がわからず、どの勘定科目に入れるのかもわからず、たいへん苦労したそうです。また、定年退職後の再雇用で、差別を受けました。Yさんの年金額は月4万2000円で、現在、生活保護を受給しています。
●S.Kさん(原告番号38)
 Sさんは、33歳ごろ、日本へ帰りたいと中国の日本大使館を訪れています。しかし、Sさんが実際に日本に帰ることができたのは、13年後の46歳でした。消息の把握が困難だったから早期に帰国させることは難しかったという国の主張は成り立ちません。Sさんは、定着促進センターでの4ヶ月の日本語教育しか受けておらず、日本語を話せるようにはなりませんでした。中国で軍医として活躍していたSさんですが、46歳から日本の医学部で資格を取り直すのは、ほとんど不可能です。Sさんは、せめて鍼灸師として働きたいと思い、孤児のための援護基金からお金を借りて、専門学校に通い始めました。ところが、生活保護の担当者に、専門学校に通うのであれば生活保護をうち切るといわれ、専門学校への通学を断念させられました。Sさんは、結局働き先が見つからず、ずっと生活保護を受給しています。
○S.Hさん(原告番号5)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/167.pdf
○I.Yさん(原告番号37)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/168.pdf


☆「被害の本質の原告らの損害」に関連して

●K.K(原告番号3)
 Kさんは、中国で青年期を迎えたときに、日本人であることを理由に大学受験で不合格になり、また交際相手の両親から結婚を反対されました。平成16年10月27日の原告本人尋問で、Kさんはそうしたつらい体験をしたときの心情を「人並みの権利をもっていない、奴隷のような気持ち」と述べています。中国における残留孤児の立場を象徴的に表した言葉でした。
●N.Sさん(原告番号31)
 Nさんは、戦時死亡宣告により戸籍が抹消され、その回復の際に妹と取り違えられたため、22年間、死亡していた妹の名前を名乗って暮らしました。平成16年11月25日の原告本人尋問で、Nさんはその時の複雑な心情を「長い間亡くなった人の名前を使ってきて、気持ちがよくなかった」と表現しています。戦時死亡宣告はこんな悲劇も生んでいたのです。
●池田澄江さん(原告番号1)
池田さんが、昨年である平成17年12月22日の原告本人尋問で述べた内容は、まだ記憶に新しいことと思います。池田さんは、中国においては日本人として差別を受け、日本においては中国人として強制退去の危機に瀕しました。中国でも日本でも心の安まるときのない人生だったと言わざるを得ません。
●N.Yさん(原告番号36)
 Nさんは、帰国後夫が病気になり、病院にかかろうとしましたが、言葉が通じず、5箇所も病院をたらい回しにされました。やむなくNさんは、夫に治療を受けさせるため、約70日間、中国に戻りました。この間、生活保護の支給が止められてしまいました。しかも、Nさんが生活保護の再開を申し出たとき、5400円しか入っていない財布の中身を調べられました。その後も毎日のように福祉事務所から所在確認の電話が入るようになりました。これが、自らの政策で60年も辛苦の人生を送らせた人に対する国の処遇なのです。
(本人からのメッセージ)
現在、私は生活保護を受けていますが、毎日監視されているようで屈辱的な思いをしています。自由に中国に行けないことも辛いです。
生活保護は私たち中国残留孤児にはそぐわない制度です。このような場当たり的な対応ではなく、老後を安心して生活できるようにして下さい。
●W.Tさん(原告番号11)
 Wさんは、6歳の時に母親と別れ、養父母に育てられることになりましたが、養父母からも虐待を受け、首吊り自殺を図るほど苦しみました。国交正常化から16年も経過した昭和62年に訪日調査のことを知らされ、急いで調査に参加しましたが、とうとう肉親を見つけることは出来ませんでした。平成元年に日本に永住帰国した時には、すでに、48歳となっており、日本語が修得出来ず、職場でも陰湿ないじめを受けました。いまだに「いらっしゃい。」「ありがとう。」等の簡単な挨拶程度の日本語しか話せません。これらは、まさに、帰国が遅れた上、不十分な自立支援しか受けなかった為に、生じた被害と言わざるを得ないのです。
●H.Kさん(原告番号12)
 Hさんは、生後8ヶ月で養父母に預けられ、日本人であることをひた隠しにして、育てられました。手を失うという障害を抱え、しかも、生活の苦しかった養父らに育てられたため、Hさんは、小学校すら通わせてもらっていません。平成8年に訪日調査の存在を知らされ、平成10年に永住帰国していますが、このときすでに54歳になっていました。中国語も学べなかった原告が、この年齢になってから日本語を習得することがいかに難しいかということは、容易に想像出来ると思います。このため、Hさんは、就職もことごとく断られ、日本に帰国して以来、ずっと、生活保護で生活せざるをえなかったのです。そのため、Hさんは、現在、木の葉を干してお茶代わりにするなど、切りつめた生活を余儀なくされています。この結果は、まさに、被告の帰国政策・自立支援策の誤りが露呈したものです。この悲惨な現状を原田さん個人に押しつけ放置するわけにはいきません。
●T.Hさん(原告番号17)
 Tさんは、歴史的にもまれに見る悲惨な事件として有名な、麻山事件の奇跡的な生き残りです。昭和55年、44歳の時に永住帰国しましたが、この時点では、国は、日本語教育の施設を設けておらず、Tさんは、帰国後、国から日本語教育を一切受けられなかったのです。現在、Tさんは、これまでの苦労が体にでてしまい、糖尿病、高血圧、気管支炎などの様々な病気を抱えており、医師からは、すぐに手術が必要であるとまで言われていますが、それも費用が捻出出来ずに控えている状態です。現在の生活は、年金で何とかまかなっていますが明らかに困窮しており、見るに見かねた近所の人が米や野菜を持ってきてくれるので、それで食事をまかなっている様なありさまなのです。このように、国が早期帰国を実現し、しかも、その後の日本語教育を中心とする自立支援策を充実させていれば、現状は今とは全く違ったものになっていたでしょう。
●K.Y(原告番号23)
 Kさんは、2歳で養父母に引き取られ、その後養父母が3人変わっています。日本には、肉親を探したい一心で、平成2年に永住帰国していますが、このときすでに、47歳となっていました。兄らしき人と血液鑑定を行ったものの、国から親族ではないという書面が来ただけで、その根拠となる鑑定結果等は最近に至るまで開示されませんでした。未だに肉親は判明していません。Kさんは、右半身が不随ですが、センターを出た後、国からの援助はまったくなく、自力で民間のアパートを探し入居しました。しかし、1年半ほど経過した後、国から県営住宅の4階をあてがわれました。これも、孤児の個別の実情を全く無視した政策であると言わざるを得ません。また、現在、生活保護を受給していることについて、Kさんは、自分自身も40年以上生活してきた中国に行って、養父母の墓参りをしたい、中国の親戚とも会いたい、しかしながら、生活保護ではそれがかなわない、と悲痛な訴えを陳述録取書にて述べています。生活保護がいかに中国残留孤児である桂さんの様な人にそぐわない制度であるかは、一目瞭然です。
○Y.Hさん(原告番号6)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/170.pdf
○H.Tさん(原告番号39)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/171.pdf

東京訴訟・結審!−最終弁論

最 終 弁 論 要 旨
    
       2006(平成18)年5月24日

    原告ら訴訟代理人
      弁護士 鈴 木 経 夫

 弁論を終えるに当たって

1 中国「残留孤児」の経験を共感をもって受け止めるのは難しい。

 我々代理人は、多くの残留邦人と会い事情を聞いてきた。未判明孤児の原告番号18番・NHについても、2人の代理人で3回にわたり、各回長時間をかけて事情を聞いた。ところができあがった「聴取書」を日本語のできる娘が読んで、「中国での私たち家族のあの苦労や、なんとしても日本へ帰るとの母の強い決意は伝わってこない。」と批判された。特に僻地にあった農村に下放されて、中国の大飢饉のなかを生き延びたときのこと、毎日の体力ぎりぎりの労働、小学校にも行けずに食べるために働いたこと、村での日本人に対する虐め、そこでの母の頑張り、苦労等に関してであった。そのような記述と現実とのギャップは、やはり言葉の壁が大きな原因であり、さらに中国で充分な教育を受けていない孤児たち自身の表現力の問題も関係していると思われる。しかし最大の問題は、逃避行を初めとして、中国で孤児たちが体験した凄惨ともいうべき実情が、現代日本の社会からはあまりにもかけ離れていて、その場面やそのときの孤児の立場に、私たちが共感を抱くことが困難だということにある。恐らくその点においては裁判官におかれても、我々と同じ立場であろうと思われる。是非そうした見地から、孤児たちの主張・陳述を今一度検討していただきたい。


2 早期帰国実現及び自立支援について被告は法的義務を否定してきた。

 被告は、政策の立案過程でも、本件訴訟でも、一貫して孤児の早期帰国の実現、自立支援について、法的義務を否定している。被告がそれに関して策定し、実行してきたいろいろの施策は、法的義務否定に対応して、手薄で、実効性に欠け、また、時期遅れのものであった。再論は避けるが、早期帰国の関係で国交回復後だけを見てみても、肉親探しの開始は遅く、その対象人数は限られた。
 未判明孤児が帰国できるようになったのは1985年からであり、さらに制度自体に問題のあった親族の身元保証人、親族からの旅費の請求、その弊害を是正するための特別身元保証人制度ができたのは、実に1989年である。しかもその実効性にも問題があった。自立支援についても、日本語の習得、職の斡旋、日本の社会との交流をはじめ、被告の各施策は、それ自体に問題があるうえ、さらにそもそも実効性に欠けていた。
 ずっと遅れて、1994年「残留婦人のいわゆる強行帰国」を契機に議員立法で成立した「自立支援法」について、やっと制定されたこの法律についても、厚労省は立法そのものに反対し、また、法施行後も、「この法律は、これまでの施策を法文化したものにすぎない」と公言してきた。当然のこととはいえ、その後施策の根本的な見直しはされず、同法施行後12年が経過し、現在に至っているのである。被告の支援策も、経済的な自立だけから見ても。失敗は明かある。
 被告には、国自体が主体となって残留邦人を帰国させるという政策はなく、それを個人の責任としてきた。しかし、私人間で重大な基本的人権の侵害があり、それに国が規制権限を行使するような場合とは異なり、本件は国自体が重大な人権侵害状況を作り出したのである。被告が、そこから孤児を救済するための法的義務を負担していることは明らかで、かつ、その義務を実現するための時期、方法等について被告が有する裁量の幅は極めて狭いと解すべきである。
 早期帰国実現及び自立支援に関し、被告国の法的義務の有無につき、裁判所に対し的確な判断を求めたい。


3 この裁判で何が問われているか。

 再び旧満州のあの場面に戻りたい。敗戦の年とその翌年の越冬期に孤児となって流浪し、あるいは中国人に引き取られた孤児は、いったいどれだけいたであろうか。原告番号39番のHTもその一人である。彼は3人の養父から3回追い出され、その度にただ一人で路上生活をし、最後に病気で、恐らく栄養失調であろうが、路上に倒れたが、助けられ、辛うじて生き延びることができた。東北3省だけで同じ運命に陥った10歳程度の孤児がどれだけいたろうか。原告Hは生きることができた。しかし、死んだ孤児も多かったであろう。実際は生き残った方が少ないのかもしれない。
 中国の地で死んだ人の遺骨採集の旅はいまでも継続されている。骨となっても、骨だけでも祖国の土に埋葬され、祖国の土で眠りたいと思っているだろうと感じ、遺骨を採集するのである。骨となってもそうなのだ。ならば、生きて肉も血も心もある生身の孤児が祖国に帰りたいと希求する。これに最大限の誠意で応える。あまりに当然のことではないであろうか。
 これに、このことに、国家は誠実に応えたか。これが本件の争点である。この人格の最も根元的な場所から希求される権利に応える国家の義務は、その当時の国家の対応し得た客観的な方法の中で、最も高度で誠実な水準を満たしていなければならない。本件で、被告に問われている義務は、国家にとっても、国民に対する最も基礎的な、最も根元的な義務の履行だからである。裁判所におかれても、本件は、自国民に対する国家の誠実義務が問われるているのだという深い認識を持っていただきたい。


4 被告の準備書面について

 被告の最終準備書面は、基本的にはこれまでの繰り返しで、新しい視点があるわけではなく、特に付け加えるまでもなく、これまでの原告の主張で充分に対応していると考える。
 ただ、原告の個人準備書面に対する反論、初めての事実主張についての認否、反論ともいえるが、これは充分にこちらの主張、立証を検討してのことであろうか。若干具体的に反論したい。たとえば、原告番号18番のNについてで ある。原告Nは、遅くとも1976年頃から北京大使館に帰国したいとの手紙を何回も書いている。当初の3年ほどは何も返事はなく、結局帰国まで約1 0年ほどかかっている。それも、帰れたのは国の帰国手続に乗ったのではなく、奇跡的に献身的なボランテイアに出会えたからである。しかも自費による帰国である。そのまま国の手続に乗っていれば一体何時帰れたのであろうか。原告Nについての早期帰国実現義務違反は、むしろ明らかと言うべきである。
 次に原告番号21番の原告STについてである。被告は死亡宣告後も調 査を続けていた旨主張する。しかし、原告Sに対してはその片鱗も認められない。もし被告が荒川村に調査を依頼したとすれば、同村は機敏に対応したであろう。なにしろ、国交回復後であるが、村自体で捜索隊を出したほどである。そもそも、究明カードを精査しても、死亡宣告された各原告について見ても、国が死亡宣告後に何らかの調査等をした形跡はまったく見あたらない。被告の主張は失当である。なお、多くの原告についても、「生活保護を受給しているから自立支援義務違反はない」との趣旨の記載がある。厚労省は、生活保護からの「脱却」称して「自立」と言ってきた。生活保護でしか生活できない状況に追い込んで、自立支援義務に反してないとするのは、何とも理解に苦しむのである。


5 終わりに

 ところで、被告の早期帰国実現に大きな懈怠があることは、各原告の帰国時期からも認めることができる。もう10年早く帰国できていたら、原告らの自立の条件は異なっていたであろう。そしてまた、被告の自立支援策が失敗であったことは、実際に孤児の日常生活を見ると明らかである。自立できず、生活困窮者となって生活保護を受給し、さらに、周囲から疎外され、孤立し、「これでも日本人なのか」と自問するのが、孤児たちの毎日である。
 外に目を転じても、今回の大戦終了後60年を経過して、戦争の末期に外地に取り残された自国民の問題を解決できていない国はないであろう。事例は異なるが、アメリカが、日系人の強制隔離に関して、その過ちを認めて謝罪し、損害について補償をしたことは記憶に新しい。恐らくこれで日系人も、アメリカが祖国であり、自分もアメリカ人であるとの実感を抱いたと思われる。原告らは被告に対し、中国に長く放置し、早期帰国を実現せず、かつ自立支援も怠ったことにつき、謝罪と補償に代るものとして、損害賠償を求めたのである。
 本準備書面によって、原告は、被告の法的責任、原告に対する被告の権利侵 害、共通損害の発生等、判決に必要な論点について明確にしたと考える。提出 した各証拠で、立証も尽くしたと思料する。
 中国「残留孤児」たちが、自分たちは見捨てられているのではない、やはり 日本へ帰ってきて良かった、我々は日本人である、日本は祖国であると胸を張っていえるような明快な判決を求めたい。

結審前行動その3(全国総決起集会)

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夜には、日比谷公会堂において、

「人間らしく生きる権利を求めて…
  中国残留日本人孤児東京訴訟の勝利をめざす
            5・23全国総決起集会」

が開催されました。

司会:松木玲子
通訳:大久保明男、藤原知秋
次第 
 山田博義さん(福岡訴訟原告)・歌
 スライド
 
 東京訴訟原告団代表あいさつ
  (清水宏夫・東京訴訟原告団代表)
 東京訴訟弁護団報告
  (清水洋・東京訴訟弁護団副団長)
 各政党ごあいさつ
  社会民主党(福島みずほ参議院議員・党首)
  日本共産党(仁比聡平参議院議員)
 メッセージ
   民主党(山本孝史衆議院議員)
 遺棄毒ガス弾被害者連帯あいさつ
         (丁樹文さんほか)
 行動提起
  (菅原幸助・原告団全国連絡会代表相談役)
 全国原告団紹介、
 全国原告団あいさつ(初田三男・兵庫訴訟原告)
 東京訴訟原告団決意表明
  (東京訴訟原告団代表宇都宮孝良)

※写真は、決意表明を行う宇都宮孝良・原告団代表

※中国残留孤児訴訟in岡山
http://www.geocities.jp/czk_oka/index.html
 でも、詳しい報告がされています。

結審前行動その2(デモ行進・座り込み)

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 原告、支援者約1000人が芝公園から日比谷公園までデモ行進を行い、その後、雨の中厚生労働省前で座り込みを行いました。

結審前行動その1(署名提出合計103万3843筆)

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 5月23日、東京訴訟原告2名(過能国弘さん、宇都宮孝良さん)、菅原幸助原告代表相談役、支援者1名(大田宣也・日中友好協会副理事)、清水洋東京訴訟弁護団副団長、佃俊彦・市民連絡事務局長(弁護士)、他弁護士1名が内閣府を訪れ、対応にあたった大臣官房総務課調査役山田哲範氏に署名21万3843筆を提出しました
 昨年6月20日までに提出した82万5000筆と併せると、提出した署名数は合計で103万3843筆となり、当初の目標であった100万筆を突破しました。これまでの皆様のご支援・ご協力に申し上げます。
 現在、原告団、弁護団、市民連絡会は東京地裁裁判官宛公正判決要請署名に取り組んでいます。引き続いてのご協力をお願い致します。

※写真は、目録を手渡す菅原原告代表相談団役
※以下は、受領書
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/157.jpg

※以下より「公正判決要請署名」の用紙をダウンロードすることができます。プリントアウトしてご使用下さい。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/143.pdf

東京地裁結審前後の行動

 いよいよ5月24日(水)に中国「残留孤児」東京訴訟は結審を迎えます。
 結審前後の行動予定は以下のとおりです。

@5月23日(火)
●AM11:00 
 100万人署名提出 内閣府大臣官房
●PM1:00-3:00
 1000人デモ行進
 芝公園4号地→桜田道り→裁判所横→日比谷公園霞門
●PM3:00-5:00
 厚生労働省前座り込み
●PM6:00-8:30
 人間らしく生きる権利を求めて…
  中国残留日本人孤児国賠訴訟の勝利をめざす
               5・23全国総決起集会   於:日比谷公会堂
  政党挨拶、弁護団報告、原告団決意表明等 

A5月24日(水)
●PM0:00-1:00
 裁判所前宣伝行動
●PM1:30-3:30
 最終弁論 東京地方裁判所103号法廷  
●東京地裁宛要請署名提出
●裁判報告集会(弁護士会) 

※24日の裁判傍聴は、席数が限られていますので、23日のデモ行進・集会を中心にご参加ください。

判決は2007年1月30日に!(速報)

5月24日(水)に結審を迎える、中国「残留孤児」国賠東京訴訟について、5月16日、東京地裁にて進行協議手続が行われ、判決期日が、2007年1月30日に決定しました。

今年もやります映画祭−スタッフ募集

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さらば戦争!映画祭

今年もやります!
スタッフを募集しています!!
info@eigasai-60.com

関心のある方はぜひご連絡ください!
そして、まずは次回会議に来てみてください!

5月18日(木)19:00〜 TOKYO大樹法律事務所にて
(東京都新宿区新宿1‐10‐3太田紙興新宿ビル8F
丸ノ内線 新宿御苑前下車 大木戸門より徒歩3分)

☆ 参加のご連絡を頂いた方には地図をお送りします
会議に参加できなくても、手伝っていただけることがたくさんあります。
HP更新/イベント企画/デザイン…etc
☆ フィルム、ゲスト、広報、会場など各チームで進めています。
☆ 今年はドキュメンタリー製作もやります!

お電話でのお問い合わせは

03-5312-4827 まで

昨年の映画祭情報はこちらを↓
http://www.eigasai-60.com/

中央メーデー会場にて署名活動

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 5月1日、代々木公園で開催される中央メーデー会場において、東京の原告、支援者、弁護士ら124名が参加して署名活動を行い、東京地裁裁判官宛・公正判決要請署名合計6836筆を集めました。また、日比谷公園で開催されたメーデーでも4387筆を集め、両者併せて合計1万1223筆を集めました。
 東京訴訟も、いよいよ5月24日に結審し、判決を迎えることとなります。この判決は全国の裁判の結果を左右すると言っても過言ではありません。引き続き、皆様のご支援、ご協力をお願い致します。

※中国帰国者二世・三世の会の報告
http://spaces.msn.com/8888jcbridge/blog/cns!

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利を
      中国残留日本人孤児国家賠償請求事件東京訴訟

             要 請 書

東京地方裁判所民事第28部
 裁判長 加藤謙一 殿
 裁判官 杉本宏之 殿
 裁判官 伊藤大介 殿

 国が、中国残留日本人孤児を早期に帰国させる義務を怠り、さらに帰国した孤児の自立を支援する義務を怠ったことにより、「祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利」を侵害されたとして、全国の残留孤児2155名(2006年3月1日現在)が、国の責任を明らかにするよう求めて、全国15地裁で国家賠償訴訟を提起しています。
 貴裁判所において審理された東京訴訟は原告が1092名にも及び、その結論は全国の裁判を左右するものです。また、残留孤児が老後の不安を解消し、祖国日本の地に帰って来てよかったと思える施策を実現するためには、国の責任を明確にする判決が不可欠です。
 そこで私たちは、以下のことを要請します。

           要 請 事 項

 貴裁判所で審理されている東京訴訟において、残留孤児の受けた被害に対する国の損害賠償責任を明確にする公正な判決がなされるよう要請します。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

※以下より署名用紙をダウンロードすることができます。プリントアウトしてご使用下さい。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/143.pdf

・・・・・・・・・・・・・・・・
署名用紙の送付先
〒141-0022
東京都品川区東五反田1−13−12 五反田富士ビル5階
五反田法律事務所内 
中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会

06.04.25口頭弁論期日

 4月25日、東京地裁で口頭弁論期日が開かれ、原告代理人らから口頭で意見陳述等がなされました。

 国が行っている時効の主張に対しては、原告代理人平井弁護士は、次ぎのように意見を述べました。

「 被告は、帰国時から3年以上経過して訴えが提起されている本件では消滅時効が完成している旨主張している。
 しかし、原告らは、幼少のころに中国大陸に置き去りにされ、長年にわたりかの地で生活することを余儀なくされたために、母国語を忘れ、あるいは習得できず、なぜ自分がながらく帰国できなかったのかも知ることなく生育したのである。そして、帰国に際しても、なぜ帰国がこんなにも遅れることになったのかについて、国の施策の遅れによるものであるとの説明を受けたこともない。また、帰国時において日本語による会話が支障なくできた者など皆無であったのであり、自ら帰国の遅れの原因を調べる術ももたなかったのである。いったい、このような状態でどうやって『賠償請求が事実上可能な状況の下に,その可能な程度において損害及び加害者を知る』ことができたというのであろうか。
 したがって、帰国してから3年で消滅時効にかかっているなどという被告の主張は、まったくもって現実を無視した主張であり、失当というほかない。
 しかも、原告らは、被告の長年にわたる政策の不備により損害をこうむったのであり、被告は、残留邦人の存在の報告を受けながら、戦時死亡宣告制度の創設など棄民とも評すべき積極的な施策もとって原告らの帰国の遅延を招いたのであり、かかる被告が消滅時効を援用するのは権利の濫用というべきである。
 したがって、被告は、かような失当な主張を撤回すべきである。そして、被告が自ら撤回をしないのであれば、裁判所としては、かかる時機に遅れ、かつ権利を濫用した主張は却下すべきである。」

 残すところ、東京訴訟の口頭弁論期日は、5月24日(午後1時30分〜)の1期日となりました。訴訟もいよいよ大詰めです。引き続いてのご支援をお願い致します。

※2006年2月21日証人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=140
※2005年12月22日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=125
※2005年11月8日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=113
※2005年8月31日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=91
※2005年6月1日口頭弁論(弁論更新手続)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=43

仙台地裁に追加提訴

4月24日、東北地方の「孤児」37名が仙台地裁に追加提訴しました。
http://blogs.yahoo.co.jp/genkokusien/33002430.html

※全国の提訴状況(最新)はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/36.htm

署名推進ニュース(NO.9)

147.pdf(89,898 byte)

中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
署名推進ニュース(関東版)
NO9 2006年3月

 100万人署名達成! 闘いは新たな段階へ                       
  東京地裁の「公正判決求め」新署名を開始!
  
中国残留孤児訴訟勝利と日本政府の孤児政策転換を求めて展開されてきた「100万人署名」は3月10日、1,002,626筆に達し、ついに100万の目標を突破しました。2002年末の東京地裁提訴直後から開始された署名活動は、3年余の歳月を要しましたが署名を通じて、多くの国民に「残留孤児問題」の実態と解決の方向を知らせることが出来ました。署名の概要は、関東をはじめとした原告団が約50万、支援団体・諸団体・個人が約50万です。原告が街頭行動に要した日数は150日を超え、訪問した団体は1000に迫りました。「中国残留孤児の人間回復を求める市民連絡会」の佃俊彦事務局長(弁護士)は「署名推進のために日夜を分かたず奮闘いただいた全ての方々に厚くお礼申しげます。署名に寄せられた力強い世論を日本政府も裁判所も無視できないと思います。この力を背景に新たな闘いを展開し、必ず勝利を勝ち取るよう奮闘いたします。引き続くご支援・ご協力をお願いいたします」と感謝の談話を発表しました。

 ★東京地裁裁判官宛の「要請行動」最優先!    
新段階を迎えて原告団・弁護団・市民連絡会は、「国の孤児政策転換を実現するためには、各地の裁判で勝利することこそ重要」との判断に立ち、年内判決が予定されている東京地方裁判所に「公正な判決を求める」要請行動を一斉に開始することにしました。特に、原告の半数以上が参加し、大阪に次いで判決が出される東京地裁にあっては加藤謙一裁判長・杉本宏之・伊藤大介裁判官あての要請行動を最優先することを決めました。内容は、「要請署名」と「全国統一行動」の展開です。

 ★「要請署名」9月末までに、30万筆を目標に開始! 
東京地裁宛に「貴裁判所で審理されている東京訴訟において、残留孤児の受けた被害に対する国の損害賠償責任を明確にする公正な判決がなされるよう要請します」とする要請事項を明記し、特に全国の半数にのぼる1092人の原告が参加する東京の結果が、全国の裁判を左右するほどの重要性を持っていると強調しています。「要請署名」は、目標を30万に設定、判決前の9月末を区切りとしています。
そして5月24日の結審前の5月15日までに、10万の目標で取り組みが開始されました。
この東京の活動を神戸など年内判決が予定される闘いに連動させます。


 5月23.24.25日に、東京で「全国統一行動」を展開! 

あわせて、結審日の5月24日を中心に「全国統一行動」を展開します。主な日程は以下の通りです。
5月23日(火)
 ☆100万人署名提出(内閣官房長官を予定)
 ☆PM2,00−3,00 1000人デモ行進
 ☆3,00−5,00 厚労省前座り込み 
 ☆6,00−8,30 決起集会(日比谷公会堂)全政党参加・著名呼びかけ人激励挨拶・弁護団・原告団の報告と決意表明。
5月24日(水)
 ☆正午−1,00 東京地裁前宣伝行動 
 ☆1,30−5,00 最終弁論(103号室)
 ☆東京地裁宛の「要請署名」を提出 裁判報告集会(弁護士会館)
5月25日(木)
 ☆9,00−12,00 政党・国会議員要請行動 
 ☆12,00−1,00 院内集会
※ 23日のデモ行進・厚労省前座り込み・決起集会に多くの方々のご参加をお願いいたします。

ファイト!
東京原告団 
 関東の原告団は「要請署名目標」3万5千を設定。街頭署名や知人友人を中心に早期に達成することを確認。早速7つの班を軸にして行動を開始しました。
日中友好協会
 「100万署名」で12万筆以上を集めた日中友好協会は、「要請署名でも奮起を!」と早速署名簿を印刷、全国に送付し取り組みを開始しました。「100万署名」で5万人を集めた東京都連は原告団との交流を重視し、都内各支部の交流会への参加を呼びかけ、「新春の集い」には15人が参加しました。こうした交流の広がりのなかで、署名行動の参加者が増えています。

 ◇訴訟参加の原告団2155人に!◇
全国15地裁の訴訟に参加している原告団は総数2155人(”06・3・1現在)になりました。
東京地裁 1092 札幌地裁 85 仙台地裁 46 山形地裁 34 長野地裁 79 名古屋地裁 210 京都地裁 109 大阪地裁 144 神戸地裁 65 岡山地裁 27 広島地裁 59 徳島地裁 4 高知地裁 47 福岡地裁 130 鹿児島地裁 24  計 2155人 
※残留婦人訴訟 東京3 高知9 埼玉13

 中国「残留婦人」訴訟判決/事実を認定・国の怠慢を指摘〜賠償請求は棄却  
2月15日の中国「残留」婦人訴訟・東京地裁判決は、「国の責任を問うにはハードルが高い」と国家賠償責任は退けたものの、残留婦人が中国で過酷な難民生活を送ったこと、帰国の意思はあったこと、早期帰国や帰国後の自立支援の不十分さなどを指摘し「政治的責任はあった」と国の怠慢を指摘しました。そして残留婦人が「他の戦争被害者とは異なる特性があった」と言及しています。この判決は「孤児訴訟の勝利」を展望する上からも注目されます。

★お願い
@「100万人署名」は終了ではなく続行しています。引き続きよろしくお願いいたします。
A署名簿が必要なら市民連絡会にご連絡ください。集った署名は、早めにお送りください。
B「要請署名」でも団体訪問を行います。その節はよろしくお願いします。
C募金のご協力に感謝いたします。さらにご協力をお願いいたします。(事務局)

中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
事務局 
〒141-0022東京都品川区東五反田1-13-12五反田富士ビル5F
五反田法律事務所内 
пEFAX 03-3447-1620    
口座名 中国残留孤児人間回復運動支援資金
郵便振替口座 00130-0-581422 
銀行口座 東京三菱銀行五反田支店 普通預金口座 20676999
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi

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NO.7 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=64
NO.6 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=4
NO.5 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=34
NO.4 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=21
NO.3 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=33
NO.2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=20
NO.1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=19

市民連絡会・観梅会06

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3月26日、青梅市において、帰国者・原告、2世、支援者等が参加して観梅会が行われました。
100万人署名の目標達成を祝うとともに、5月に結審する裁判の勝利のためにいっそう奮闘することを誓いました。

公正判決署名のお願い

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祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利を
 中国残留日本人孤児国家賠償東京訴訟の公正判決署名のお願い
                      2006年3月

        中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟原告団
        代 表 池田澄江 清水宏夫 宇都宮孝良
        中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟弁護団
        団  長     鈴 木  經 夫


 幼くして中国に残され、40年以上も置き去りにされた中国「残留日本人孤児」 2500人のうち8割を超える 2155人(2006年3月1日現在)が、東京、札幌、仙台、山形、長野、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、広島、徳島、高知、福岡及び鹿児島の15の地方裁判所に国家賠償訴訟を起こしています。
 この裁判は、「孤児」が「普通の日本人として人間らしく生きる権利」を回復することを求めるものです。そのために、国が「孤児」を3度も棄て、普通の日本人として人間らしく生きる道を悉く奪ってきたことに対する謝罪と賠償、「残留孤児」に対する施策の抜本的転換、そして二度と再び自分たちのような戦争の惨禍による悲劇を繰り返さないことを求めています。
 私たちは、この裁判提起にあたり井上ひさし氏、仲代達矢氏をはじめ20名をこえる著名な方々から「中国『残留孤児』の人間回復の闘いに支えを」と題するアピールを寄せていただきました。このアピールに基づき内閣総理大臣宛請願100万人署名に取り組んで参りました。
 この100万人署名は、多くの国民に積極的に受けとめていただき、本年3月には目標の100万筆を達成することができました。これも皆さまのご支援の賜物と心より感謝申し上げます。100万筆の署名に寄せられた力強い世論を政府も無視できないと思います。
 ところで、東京地裁では、本年5月24日に裁判の審理を終え、本年秋には昨年の大阪地裁に次いで判決が出される予定です。東京地裁は全国の原告の半数を超える1092名の原告が参加しており、この判決は全国の裁判の結果を左右すると言っても過言ではありません。そして、政府の孤児政策を抜本的に転換するには、各地裁での勝利判決が必要ですが、とりわけ東京地裁で国の孤児政策の誤りを断罪する判決が不可欠です。
 そのために、私たちは東京地裁裁判官宛の公正判決要請署名を取り組むことに決めました。目標は30万筆です。
 平和と人権を擁護し、生活向上のためにご奮闘されている皆様のご支援・ご協力を心からお願い申し上げます。

 要 請 事 項
1. 公正判決要請署名にご協力下さい。
・ 署名の送り先・お問い合わせは
〒141-0022 東京都品川区東五反田1-13-12 五反田富士ビル5F
          五反田法律事務所内 Tel・Fax 03-3447-1620
          中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
2.運動を推進するための募金活動にご協力下さい。
 「残留孤児」原告の7割が、生活保護を受けている困窮者です。街頭署名などに出掛けるための交通費にも困っています。この運動を進めるための募金にもご協力をお願いします。
・ 送金先 銀行口座・・・東京三菱銀行五反田支店 (普)2076999
       郵便振替・・・00130-0-581422
       名義人・・・・中国残留孤児人間回復運動支援基金
3.機関紙・新聞等でこの問題をアピールしてください。
  資料が必要な場合は、上記の「市民連絡会」(Tel・Fax 03-3447-1620)へ請求してください。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

※以下より署名用紙をダウンロードすることができます。プリントアウトしてご使用下さい。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/143.pdf

新署名運動開始(東京地裁署名)

 2002年12月に提起された中国「残留孤児」国家賠償訴訟(東京訴訟)もいよいよ、5月24日に結審し、本年中に判決を迎えることととなります。
 そこで、市民連絡会は新たに、東京地方裁判所裁判官宛の署名運動を開始することとなりました。
 100万人署名(内閣総理大臣宛請願署名)では、みなさんのご協力の結果、目標の100万筆を達成することができました。
 引き続き東京地方裁判所裁判官宛署名活動へのご協力をお願い致します。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利を
      中国残留日本人孤児国家賠償請求事件東京訴訟

             要 請 書

東京地方裁判所民事第28部
 裁判長 加藤謙一 殿
 裁判官 杉本宏之 殿
 裁判官 伊藤大介 殿

 国が、中国残留日本人孤児を早期に帰国させる義務を怠り、さらに帰国した孤児の自立を支援する義務を怠ったことにより、「祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利」を侵害されたとして、全国の残留孤児2155名(2006年3月1日現在)が、国の責任を明らかにするよう求めて、全国15地裁で国家賠償訴訟を提起しています。
 貴裁判所において審理された東京訴訟は原告が1092名にも及び、その結論は全国の裁判を左右するものです。また、残留孤児が老後の不安を解消し、祖国日本の地に帰って来てよかったと思える施策を実現するためには、国の責任を明確にする判決が不可欠です。
 そこで私たちは、以下のことを要請します。

           要 請 事 項

 貴裁判所で審理されている東京訴訟において、残留孤児の受けた被害に対する国の損害賠償責任を明確にする公正な判決がなされるよう要請します。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

※以下より署名用紙をダウンロードすることができます。プリントアウトしてご使用下さい。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/143.pdf

・・・・・・・・・・・・・・・・
署名用紙の送付先
〒141-0022
東京都品川区東五反田1−13−12 五反田富士ビル5階
五反田法律事務所内 
中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会

100万筆達成!!(速報)

 これまで、100万筆を目標に取り組んできた「中国残留孤児の人間性の回復を求める請願」署名ですが、2006年3月6日現在、市民連絡会事務局の集計で、累計100万2262筆となり、目標を達成しました。
 これまでご協力頂いた皆様、本当にありがとうございました。また、引き続いてのご支援を宜しくお願い致します。

福岡地裁で追加提訴

2月28日、福岡地裁で原告27名が追加提訴しました。これで全国の原告数は2155名となりました。
http://blogs.yahoo.co.jp/genkokusien/27274511.html

※全国の提訴状況(最新)はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/36.htm

東京地裁・歴史家証人

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 2月21日、東京地裁において戦前及び戦後の日中関係等に関し、3名に対する証人尋問が行われました。

 最初に証言台に立った岡部牧夫証人は、日本近代史、特に1930-40年代の植民地、占領地の研究者。岡部証人は、「満州国」建国の経緯から説き起こし、中国「残留孤児」が発生した歴史的背景とその責任は日本政府にあることを明らかにしました。

 次に証言台に立った帝京大学教授の遠藤誉証人は、戦前「満州国」の首都であった「新京」(現長春市)で生まれ、中国の地で日本の敗戦を迎えましたが、父親が中国政府に留用されたため日本敗戦後も中国にとどまり、1950年代になって帰国しました。遠藤証人はこのようなご自身の体験も踏まえ、1950年代当時、中国政府は中国に残留していた日本人を積極的に帰国させる政策をとっていたこと、したがって、当時、日本政府が「孤児」たちに積極的に手を差しのべていれば、多くの「孤児」たちが、1950年代に帰国できたことを明らかにし、それにもかかわらず「孤児」たちの帰国がこれほどまでに遅れたのは日本政府が「孤児」たちの命の重さと尊厳を軽んじたためであることを怒りをもって証言されました。

 最後に証言台にたった元朝日新聞政治部記者の古川万太郎証人は、ご自身が取材し、研究されたことを踏まえ、戦後の日中関係を検証してみれば、日中両政府が厳しく対立していた状況のもとでも、日本政府が「孤児」問題に誠実に取り組み、解決する熱意と決意さえあれば、国交正常化実現前でも、「孤児」たちに救いの手を差しのべることは可能であったこと、それにもかかわらず、日本政府はそれをしなかったことを明らかにしました。

 これにて、東京訴訟の証拠調手続きは終了しました。

 裁判終了後、星陵会館において、裁判報告集会が開催されました。

今後の日程
・4月25日(火)午後2時〜    東京地裁722号法廷
   口頭弁論期日 
・5月24日(水)午後1時30分〜 東京地裁103号法廷
   口頭弁論期日(結審)

※2005年12月22日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=125
※2005年11月8日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=113
※2005年8月31日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=91

日中友好協会より支援のカンパ

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 2月18日、都内において、日本中国友好協会(日中友好協会)の理事会が開かれ、同協会(伊藤敬一会長)より市民連絡会に対してのカンパの贈呈式が行われました。
 同協会には、これまでも100万人署名運動を初めとして、「残留孤児」支援のための様々な取り組みをしていただいています。カンパも昨年に引き続いてのもので、同協会が発行する「中国悠久の旅」カレンダーの収益金の一部が充てられています。
 贈呈式に臨んだ市民連絡会事務局長の佃弁護士と原告・田中友子さんは、それぞれ、同協会の物心両面にわたる支援について感謝の念を述べるとともに、今年判決が予想される訴訟の勝訴を勝ち取る決意を述べ、更なる支援をと、訴えました。

日中友好協会HP
http://www.jcfa-net.gr.jp/home/

「残留婦人」訴訟判決・社説

2月15日の東京地裁における「残留婦人」訴訟判決をうけて、各新聞社は、判決を批判し、あるいは、「残留婦人」らに対するこれまでの国の政策の不備を指摘して、政府・国会に対して「残留婦人」らの救済を図るよう求める社説を発表しました。

※各新聞社の社説はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/138.htm

中国「残留婦人」訴訟・判決

 本日、東京地方裁判所は、いわゆる中国「残留婦人」ら3名による国家賠償請求訴訟において、原告らの請求を棄却する判決を下しました。

 判決は、「残留婦人」らの置かれた悲惨で深刻な被害を認定し、これが「他の戦争被害とは異なる特性」を有することを認めました。
 そして、@早期帰国義務違反に関しては、「外地の危険地帯への国策移民と危機発生時の国民保護政策立案の懈怠という先行行為が原因で原告ら長期未帰還者を大量発生させたのであるから、被告(国)は条理上その早期帰国を実現すべき政治的責務を負う」にもかかわらず、国はその責務を懈怠したとし、
 A自立支援義務違反に関しては、「(残留婦人らは)自己の怠慢によってではなく、外地の危険地帯に国策移民を送出し、危機時の国民保護策を講じなかった政府の施策が原因で労働能力を喪失したものであるから、政府には補償措置を行うべき政治的責務があった」としたうえで、「生活保護運用上の問題や日本語教育の貧困さを、看過できない行政の執行の懈怠として、国家賠償法上も違法とすることも考えられる」としました。
 しかしながら、その結論においては、「国家賠償法上の違法性を認めるには今一歩足りない」として原告らの請求を棄却しました。

※判決、判決要旨
http://kikokusha.at.infoseek.co.jp/
(中国帰国者の会HP)

 上記判決をうけて、中国「残留孤児」弁護団は、次ぎの声明を発表しました。


 声 明
       2006年2月15日
      中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟弁護団(関東)

 本日、東京地方裁判所民事第13部は、東京地方裁判所民事第28部に係属する中国残留孤児国家賠償集団訴訟と同種の被害を受けた3名の残留孤児・残留婦人の求める国家賠償請求訴訟において、不当にも請求棄却の判決を言い渡した。
 言うまでもなく、中国残留孤児等は戦前の満州への移入国策を起点とし、敗戦直前直後の国家による棄民から生み出された者らであり、その発生の根本的な原因が時の政府の政策にあったことは疑いない。のみならず、政府は、終戦後長期間にわたり孤児らを日本に帰国させる努力を怠り、なかんずく1959年に未帰還者に対する特別措置法を制定して後は全くといってよいほど帰還援護を放棄し、そのため孤児らの帰国は大幅に遅れることとなり、早い者でも日中の国交回復を待たざるを得なかった。この間、多くの孤児は望郷の念を抱きながらも中国の地で生活することを余儀なくされ、実父母や親族との交流を断たれ、日本語をはじめとする日本文化と接触しこれを受容する機会を喪失せしめられた。
 また、帰国の大幅に遅れた孤児らは人生の晩年に入っての帰国となるため、まず何よりも日本語の習得に困難を極め、このためあらゆる日常生活に支障を生ずることとなり、ごく普通の社会生活を送ることができないでいる。彼らは希望を持って祖国日本に帰国したにもかかわらず人間らしい生活を送れずにいる。それどころか物心両面において中国の地で暮らしていたときよりも貧しい生活を強いられているものが多い。にもかかわらず、政府が孤児らに行う生活支援はきわめて不十分なものであり、彼らが日本で自立し安心した生活をできるための援助とは程遠いものである。このことは、帰国後何年たっても多くの孤児が日本語を習得できないままでいることや孤児世帯の生活保護の受給状況などをみてもはっきりしていることである。
 本日の判決は,残留孤児の置かれた悲惨で深刻な被害を認定し,それを戦争被害として受忍すべきだという立場をとらず,残留孤児を放置して救済しなかった被告国を厳しく批判した。この点は評価できると共に被告は厳しく且つ厳粛に受け止めるべきである。しかし,判決はそこまで述べていながら,「(違法性の)ハードルは高い」「今一歩足りない」などとして国を免責した。この点は,司法が果たすべき役割を放棄したものとして,到底受け入れることはできない。
 私たちは,本判決の成果と限界を十分に踏まえて,これを一歩進め,国の政策の違法性を明確に認定する判決を求め邁進するものである。

「残留婦人」訴訟・日弁連会長談話

 中国残留婦人東京地裁判決についての会長談話

本日、東京地方裁判所は、中国残留婦人による国家賠償請求訴訟において、原告らの請求を棄却する判決を言い渡した。

本件は、2002年12月以降、全国の15の地方裁判所で約2100人の中国残留邦人が提起した国家賠償請求訴訟に先立ち、2001年12月、東京地方裁判所に提訴されていたものであり、中国残留婦人による国家賠償請求訴訟としては初めての判決である。

中国残留婦人を含む中国残留邦人の問題について、当連合会は、2004年3月、人権救済申立事件における調査をふまえ、国に対し、帰国促進策等の徹底、生活保護法によらない生活保障給付金の支給、特別の年金制度の策定、日本語教育のための制度の充実その他の生活支援策を検討・実施すべきであることを勧告していた。また、2005年7月には、中国残留孤児による国家賠償請求を棄却した大阪地裁判決を契機として、政府及び国会に対し、中国残留邦人の老後の所得保障など支援施策の抜本的な見直しや立法措置を行うなどの施策を早急に実現するよう求めていた。

本判決は、外地の危険地帯への国策移民と危機発生時の国民保護策立案の懈怠という先行行為を理由としてその早期帰国を実現すべき政治的責務の懈怠があったとしながら、原告らとの関係で看過できないほどの著しい政治的責務の懈怠がないとして、国家賠償法上は違法でないとした。また、中国残留邦人に対する自立支援施策がはなはだ不十分であったと指摘しながらも、国家賠償法上違法と評価されるまでの立法不作為や行政府の責務の懈怠はないと判示した。

しかし、中国残留婦人が本邦で置かれている実態は、本判決も指摘するとおり、「日本語教育の貧困は目をおおうばかりであり」、また、「国民一般の収入水準を下回る生活保護水準の生活を余儀なくされる者が多い」状況にある。にもかかわらず、中国残留婦人に対する帰国後の諸施策は、本邦への帰還の途を閉ざされ、長年にわたり中国に放置されてきたというその過酷な境遇に照らしても、未だ個人の尊厳を確保するに足りるものとはなっていない。

当連合会は、中国残留邦人の高齢化が進んでいる現状に鑑み、国会及び政府に対し、中国残留邦人の生活を保障する立法を含む諸措置を速やかに講じるようあらためて求めるものである。


2006(平成18)年2月15日

日本弁護士連合会
会長 梶谷 剛

日弁連HP
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/060215.html

「残留婦人」訴訟・当該弁護団声明

声  明
    2006年2月15日
   中国残留邦人国家賠償請求訴訟弁護団

 本日、東京地裁において、中国残留邦人国家賠償請求訴訟の判決が下された。
 判決は当方が主張する事実について概ね認め、国に政治的責務があったこととして認定したものの、国家賠償法上の作為義務について極めて狭く解し、結果として国には違法性がないとして、請求を棄却した極めて不当なものであり、深い悲しみと憤りを禁じ得ない。

 今回の判決においては、「中国残留婦人は自己の意思で残ったものではない」「他の戦争被害者と異なる特殊性がある」と断じ、従前の国の主張を退け、また、これまでの国の施策の不備や遅れを多岐にわたり指摘し認定したり、歴史的経緯においても踏み込んだ認定を行うなど評価できる内容が含まれている。

 しかしながら、国の早期帰国義務・自立支援義務について幅広い裁量論に立ったり、国のさまざまな不作為に対して国の政治的責務を多言することで、裁判所としての判断を避けており、中国残留邦人問題の本質をどこまでふまえて判断されたか深い疑問を持つ。こうした国の義務違反に対する今回の判断においては、昨年の大阪地裁の中国残留孤児集団訴訟の判決より後退したものといえ、その意味でも不当である。

 なお、結果として、今回不当な判決が下されたが、裁判所が、判決において国の政治的責務を多言していることは、翻って、この問題が立法・行政においての解決を要請しているものと解され、国の中国残留邦人問題の解決に向けての責務は何ら減ぜられるものではなく、むしろ一層明確になったものといえる。

 総じて判決は、中国残留邦人にとって厳しいものとして到底承服できるものではなく直ちに控訴を準備したい。同時に、今後、本日の判決内容を十分に吟味し、さまざまな側面から、一日も早く、中国残留邦人問題の全面解決に向けて活動の展開を強めていくことを決意するものである。

中国帰国者の会HP
http://kikokusha.at.infoseek.co.jp/

中国「残留日本人孤児」の人間回復の闘いに支えを

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国を訴えた中国「残留日本人孤児」たち

中国で苦難の人生を過ごし、やっとの思いで帰国した中国「残留孤児」は約2400名、その7割を超える人たちが国を被告として裁判を闘っています。何故「孤児」たちは裁判に立ち上がったのでしょうか?


1 中国「残留日本人孤児」は何故生まれたか?(第1の棄民)
 
1932年「満州国」が「建国」されると、国は植民地支配や対ソ連防衛等のため移民事業を国策と位置づけ、1945年までに32万人余りの国民を開拓民として「満州」(中国東北部)に送り出しました。
ところが、1945年8月ソ連軍が満州に侵攻すると、開拓民等を保護すべき日本軍(関東軍)は軍人とその家族等の避難を優先し開拓民等を保護せず撤退しました。また、国は終戦後も在満邦人の現地土着方針をとり、引揚げは大幅に遅れました。
そのため、「根こそぎ動員」により、老人・女性・子どもしか残されていなかった開拓民の避難は悲惨を極め、ソ連軍や日本に土地を奪われた中国人等の襲撃、集団自決、栄養失調、伝染病等により多くの命が失われました。
「残留孤児」はこうして親を失い、離別し、中国人に引き取られた人たちです。「孤児」たちは自分の意志で中国に「残留」したのではなく、国に置き去り(棄民)にされたのです。


2 国に置き去りにされ40年−遅すぎた帰国措置(第2の棄民)

 戦後、国交断絶等により中国からの引揚げが途絶えると、国は1959年に「孤児」を死者として扱うことができる法律を制定し、多くの「孤児」を戸籍から抹消して帰国援助等の政策を放棄しました。
1972年に日中の国交は回復しましたが、国は積極的に「孤児」の肉親捜し等に取り組まず、「孤児」を日本に招いての肉親捜しの訪日調査が始まったのは国交が回復して9年後の1981年でした。しかも、国は「孤児」の帰国に際し身元保証人を要求するなどの制約を課したため「孤児」たちの永住帰国はさらに遅れ、永住帰国が本格化したのは1986年になってからでした。「孤児」たちは、終戦後40年以上も帰国を待たされたのです。
この間、「孤児」たちは中国人の養父母に育てられながら中国の言語、生活習慣等を身につけていきましたが、日本の侵略戦争の責任を一身に背負わされて迫害されるなど少なからぬ「孤児」が中国において苦難の人生を過ごしました。


3 冷たい祖国−不十分な自立支援策(第3の棄民)

 祖国日本を慕ってやっと帰国した「孤児」たちに対する国の対応は冷たいものでした。
国は「孤児」に対し、十分な自立支援策を施すことのないまま、生活保護からの「自立」するよう促しました。そのため、「孤児」たちは日本語も不十分なまま低賃金・重労働な仕事への就労を余儀なくされました。
その結果、「孤児」たちの約9割が今でも十分に日本語を話せません。また、「孤児」の約7割が生活保護を受けざるをえず、悲惨な生活を強いられています。北朝鮮による拉致被害者に対する処遇とは大きな違いです。
「孤児」たちは人並みの老後の保障を求めて国会請願を繰り返しましたが、いずれも不採択に終わりました。そこで、「孤児」たちは、人間としての尊厳を回復するため裁判を決意するに至ったのです。

※年表はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/nenpyou.html

※全国の提訴状況(最新)はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/36.htm

100万人署名にご協力ください

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原告団代表のお願い
東京訴訟原告団代表 池田澄江

 私たち中国「残留日本人孤児」は、1000名以上が団結して、国が長年中国に放置して帰国を遅らせたことと帰国後の支援策が極めて不十分であったことの責任を追及して、東京地裁に裁判を起しています。今年は裁判の結論がでる大事な年です。また、弁護団、支援の皆さんとともに、私たちの要求を実現していくための100万人署名活動を行っています。皆様のご協力をお願いいたします。
 私たちの目標は、「孤児」が普通の日本人らしく生活できることと、すべての人々が平等で、世界中が平和になることです。
 私たち原告団は、自信をもって固く団結し、弁護団や支援の皆さんの支えを受け勝利に向けてがんばっていきますので、一層の暖かいご支援をよろしくお願いいたします。


日本軍の身代わりとして殺された父
田中文治(未判明・1988年帰国)

私はソ連軍が攻めてきたとき5歳でしたが、父母と妹の4人で何日も山野を逃げ回りました。途中で母と妹を見失い、今も会えないままです。やっとのおもいで父と二人が古城鎮という駅に着きましたが、そこで大勢の中国人に取り囲まれ、父は私の目の前で撲殺されました。父の最期の姿は今も忘れることはできません。
父は、戦前中国を侵略した日本軍の身代わりとして殺されたのです。


祖国での人間らしい暮らしを
藤本淑子(未判明・1997年帰国)

私は,幼い頃から母の国を思い続けてきました。肉親探しのため日本政府に何十通もの手紙を書いたのに,何年も返事をもらえず帰国が遅れてしまいました。
職もなく,やむなく生活保護で暮らしていますが,養母の病気見舞いのため中国に行こうとすると,役所から養母の入院証明書を要求されたり,生活費をストップされるなど厳しい制約を受け,とても辛いです。
祖国での人間らしい暮らしを切に願っています。



弁護団長の訴え
東京訴訟弁護団長 鈴木經夫

 国から見捨てられた中国帰国者たちは、救いのない生活を送ってきました。生活保護を受け、近隣から孤立し、その子や孫も適応に苦しんでいます。やり場のない怒りと悲しみで心いっぱいでした。しかし、支援の皆さまのご協力、「孤児」自らの駅頭等での署名活動、60万筆に及ぶその成果は、国への働きかけとなるのはもちろん、「孤児」たちをどれほど勇気づけたでしょうか。
 今「残留孤児」訴訟の原告団と弁護団とは一体となって、勝利に向けて懸命の努力を続けています。戦後60年放置されてきたこの問題を、何としても解決しましょう。皆さん、署名に、支援に、いっそうのご協力をお願いします。



100万人署名にご協力ください

 私たちは、100万筆を目標に内閣総理大臣宛の下記事項を請願内容とする署名活動を行っています。2004年10月には48万筆を内閣府に提出しました。「孤児」に対する国の誤った政策を改めさせるため、みなさまのご協力をお願い致します。

1 国は、中国「残留孤児」に対してとってきた長年の政策の誤りを認め、「孤児」に対して謝罪すること。
2 国は、「孤児」に対し、残された人生を人間らしく生きるにふさわし補償制度を確立すること。


呼びかけ人
石坂啓(漫画家)、井手孫六(作家)、井上ひさし(作家)、永六輔(放送作家)、衛藤瀋吉(東京大学名誉教授)、加藤登紀子(歌手)、小林カツ代(料理研究家)、坂本龍彦(ジャーナリスト)、佐野洋(作家)、ジェームス三木(脚本家)、新藤兼人(映画監督)、曾徳深(横浜華僑総会会長)、ちばてつや(漫画家)、仲代達也(俳優)、なかにし礼(作家)、羽田澄子(記録映画作家)、林郁(作家)、古谷三敏(漫画家)、山崎朋子(ノンフィクション作家)、山田洋次(映画監督)、渡辺一枝(作家)


中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
〒141-0022
東京都品川区東五反田1-13-2
五反田富士ビル5F
五反田法律事務所
TEL/FAX 03-3447-1620


募金口座
口座名
 「中国残留孤児人間回復運動支援基金」
銀行
 東京三菱銀行 五反田支店
 普通預金口座 2076999
郵便局
00130-0-581422

この運動は皆様からの募金で成り立っています。


※署名用紙はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=3

『異国の父母−中国残留孤児を育てた養父母の群像』

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岩波書店より、『異国の父母−中国残留孤児を育てた養父母の群像』(浅野慎一、トウガン・著)が発売されました。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9980382473

敗戦後の中国東北部で日本人孤児を育てた養父母は1万人とも言われるが,高齢のため現在,体験を語れる人は少ない.彼らはどんな思いで異国の子どもを育て,その日本への帰国を見つめてきたのか.いま何を思うのか.現地で行われた貴重な聞き取り調査の記録.孤児,実子,近隣の人びととの関係を含め彼らの人生は一様ではなく,誰もが深い感慨を残す.

はじめに
第 I 部 群像
1 子供を捨てて逃げた日本人は賢明だった――孔 紹 仁
2 暴行と流産を越えて――――――瀋 鳳 賢
3 日本に行かないで――――――馬 文 玉
4 行方不明になった残留孤児――――――王 雲 香
5 とにかく一緒に暮らしたい――――――何 秀 玉
6 寝たきりの養父とともに――――――李 福 栄
7 交通事故にあった息子を想って――――――朱 郷 英
8 それでもあの子を育ててよかった――――――徐 貴 祥
9 貧しい農村で娘を待ち焦がれる――――――劉 恵 芬
10 回民族のコミュニティで子供を育む――――――楊 淑 珍
11 中国を選んだ残留孤児――――――張 桂 芝
12 息子が苦しむ夢を見て――――――黄 秋 香
13 日本のスパイといわれて――――――段 亜 蓮
14 別離の葛藤――――――――――趙 麗 芳
第II部 解説
1 生活の歩み
 プロフィール
 戦争による被害
 残留孤児との出会い
 残留孤児を引き取った動機
 日本人であること
 養育と愛情
 文化大革命の迫害と隠蔽
 国交回復と肉親捜し
 養子の葛藤
 永住帰国
 改革開放・グローバリゼーションと貧困化
2 現在の生活と意識
 養父母は今
 居住環境と社会関係
 残留孤児一家は今
 残留孤児との往来
 関係の途絶とその背景
3 日本政府・日本社会への要望
 残留孤児の生活支援と永住帰国支援
 養父母への生活支援
 家族の再開・交流・再結合への支援と日中友好
あとがき
中国残留日本人,養父母関連年表および表

浅野 慎一(アサノ シンイチ)
1956年生まれ.北海道大学大学院教育学研究科博士後期課程修了.博士(教育学).現在,神戸大学発達科学部教授.主な著書に『日本で学ぶアジア系外国人』(大学教育出版),『海外における日本人,日本の中の外国人』(共著,昭和堂).論文に「多民族社会・日本における階級・階層構造と文化変容」 『フォーラム現代社会学』第2号(世界思想社),「出稼ぎブラジル人と日本人の労働と文化変容」『日本労働社会学会年報』第14号(共著,東信堂),「中国人留学生・就学生の実態と受け入れ政策の転換」『労働法律旬報』No.1576(旬報社)など.

(トウガン)
1965年生まれ.中国遼寧省瀋陽市出身. 瀋陽大学卒,宮城教育大学大学院修士課程修了.現在,龍谷大学,園田女子学園大学,神戸学院大学等で非常勤講師.西日本華文教育者協会理事.浅野との共訳書に『世紀末・中国』(中国ジャーナリスト集団著,東銀座出版社).論文に「縫製業における中国人技能実習生・研修生の日本語習得に関する実証的研究」(『中国学論集』翠書房)など.


『国に棄てられるということ−「中国残留婦人」はなぜ国を訴えたか』(小川津根子、石井小夜子・著)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=124

『だれにも言えない中国残留孤児の心のうち』(埜口阿文・著)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=123

『満州楽土に消ゆ 憲兵になった少年』(神奈川新聞社編集局報道部 編)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=78

『父母の国よ−中国残留孤児たちはいま』(写真・文 鈴木賢士)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=60

『ああわが祖国よ−国を訴えた中国残留日本人孤児たち』(大久保真紀・著)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=130

※書籍の紹介
http://www.geocities.jp/genkokusien/index10f.html

100万人署名、目標達成まであと一歩

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 これまで100万筆を目標に取り組んできた内閣総理大臣宛「中国残留孤児の人間性の回復を求める請願」署名ですが、既に内閣府に提出した分と現在市民連絡会事務局に集約されている分の合計が、2006年1月23日現在97万2964筆に達しました。
 目標達成まであと一歩です。引き続きご支援ご協力をお願い致します。

中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
〒141-0022
東京都品川区東五反田1-13-2
五反田富士ビル5F
五反田法律事務所
TEL/FAX 03-3447-1620

※署名用紙はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=3

謹賀新年

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 明けましておめでとうございます。
 今年は、中国「残留孤児」訴訟にとって“再決戦”の年です。
 更なるご支援を宜しくお願い致します。

 2006年元旦

各地で追加提訴

12月7日高知地裁で1名が、12日仙台地裁で21名が、27日長野地裁で12名がそれぞれ追加提訴しました。

長野地裁の追加提訴について
http://blogs.yahoo.co.jp/genkokusien/22326443.html

全国の提訴状況
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/36.htm

最後の原告本人尋問

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 12月22日、東京地裁で原告3名の本人尋問が行われました。

 最初に証言台に立った横浜市在住のW.Tさん(女性)は、耐えられず自殺を図るほど養母からひどい虐待を受けましたが、必ず迎えに来るといった母の言葉を信じ養母の家を離れられなかったことや、訪日調査で日本に来たときに自分の母親かもしれないと思われた人が既に亡くなっていたことを知った悲しみなどについて語りました。
 次に証言台に立った千葉県在住のK.Mさん(女性)は、日本語で供述しました。Kさんは中国で学校に通えず、中国語の読み書きさえ十分に出来なかったのに、帰国したい一心で必死で日本語を独学したこと、帰国後、自分が学校に行けなかったため、せめて子どもたちには学校に行かせてあげたいとの思いからパートで収入を得たところ、生活保護費の支給が停止され、その後支給が再開されたものの毎月3万円づつ生活保護費が削られ大変困窮したことなどについて語りました。このことからも、生活保護がいかに「残留孤児」に馴染まない制度であるかが明らかになりました。
 最後に原告団代表の1人である池田澄江さん(写真)が証言台に立ちました。池田さんはご自身の帰国への努力と祖国の冷たい対応、肉親との奇蹟の再会と帰国後の苦難について語られたほか、法律事務所の事務員として就籍申立手続きを担当して1000名を超える「孤児」たちの人生に触れてきたこと、「孤児」たちが団結して裁判に立ち上がった経緯について語り、最後に裁判官に対して、次のように訴えかけました。

「私たちは日本語のできない一番弱い日本国民です。
 大阪判決は、私たち「孤児」に対し、戦争被害だからがまんしなさいと言いました。しかし、私たちは自分の意思で中国に残ったのではありません。しかも、中国では侵略者日本の子として、戦争責任を背負って、苦しくみじめな運命を生きてきました。
 残留孤児は、誰でも自分の本当のことを知りたい。親に会いたい、母の祖国に帰りたい。でも、日本政府は、私たちを捜そう、日本に連れ戻そうとしてくれませんでした。ようやく日本に帰ってきた私たちにとって、日本は、生きていくのに悲しく、苦しい、冷たい祖国でした。
 私たちの残りの人生はもう長くない。せめて祖国で、普通の日本人のように人間らしく生きたいのです。大阪判決のような私たちを裏切る判決をしないで下さい。私たちを救うような、人生を変えるような判決をください。一度でいいから、私たちが帰ってきてよかったと思えるような祖国にして下さい。」

 池田さんが、供述を終えると、自然と傍聴席からは拍手が湧き起こりました。

 これにて、原告本人尋問は終わりました。次回、歴史研究者に対する証人尋問が行われた後、いよいよ、来年5月24日に結審となります。
 来年は「残留孤児」訴訟にとって再決戦の年となります。引き続きのご支援をお願い致します。

〇次回期日は、以下のとおりです。
2006年2月21日(火)午前10時〜午後5時 証人尋問
 ※場所:東京地方裁判所103号法廷
 ※傍聴するには傍聴券が必要です。傍聴券の抽選は午前9時30分

※2005年11月8日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=113
※2005年8月31日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=91

「父母の国よ」−平和・協同ジャーナリスト基金・奨励賞受賞

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 フォトジャーナリスト鈴木賢士さんの著書『父母の国よ−中国残留孤児たちはいま』が、12月9日、2005年 第11回平和・協同ジャーナリスト基金・奨励賞を受賞しました。
「平和・協同ジャーナリスト基金」(http://www.pcjf.net/)は、平和と協同に関心をもつジャーナリストらを励まし、支援することを目的に設立された基金で、鈴木氏は、これまでにも韓国の被爆者、中国人強制連行の生き証人などに焦点を当てた写真を発表しており、長年にわたる、反戦平和のための報道活動が評価されての受賞となりました。

「父母の国よ−中国残留孤児たちはいま」 鈴木賢士(写真・文)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=60

「国に棄てられるということ」

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岩波ブックレット『国に棄てられるということ 「中国残留婦人」はなぜ国を訴えたか』(小川津根子、石井小夜子・著)が発売されました。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/booklet/

※『だれにも言えない中国残留孤児の心のうち』
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=123

中国・帰国者まつり'05

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2005年12月4日(日)、東京土建練馬支部会館において
「中国・帰国者まつり'05」
(主催:中国・帰国者まつり'05実行委員会 実行委員長:岩佐一
中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
  中国「残留孤児」訴訟関東原告団、弁護団、
  中国帰国者二世・三世の会
  中国残留孤児支援全国協議会 虹の会
  日本中国友好協会、日中友好雄鷹会 国民学校1年生の会
  法律会計特許一般労働組合有志)
が行われました。

原告・支援者による多彩な演し物のほか、鈴木賢士氏写真展、大田順子氏きりえ展(「再見」「慟哭」)、フリーマーケットなどが行われ原告、支援者、弁護団の交流を深め訴訟勝利への決意を新たにしました。

※中国・帰国者まつり('04)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=27

100万署名推進ニュース(NO.8)

118.pdf(29,811 byte)

中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO8 2005年12月

中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
事務局 
〒141-0022東京都品川区東五反田1-13-12五反田富士ビル5F
五反田法律事務所内 
пEFAX 03-3447-1620    
口座名 中国残留孤児人間回復運動支援資金
郵便振替口座 00130-0-581422 
銀行口座 東京三菱銀行五反田支店 普通預金口座 20676999



「100万人署名」 933、661人に(11月10日現在)                           
年内に達成し、2006年を勝利の年に!!

「残留孤児訴訟勝利と日本政府の孤児政策転換」を求めて展開されてきた「100万人署名」は、11月10日段階で、933,661筆に達し「100万達成」までカウントダウンに入りました。残る7万筆弱を年内に「総達成」し、新たに迎える2006年を孤児問題勝利の年にしようではありませんか。「市民連絡会」では、12月を「100万人達成の月」と位置付け、ご協力をお願いした全ての団体・個人の方々に再度のご奮闘を呼びかけています。
★ 原告団が40万余集める!
93万余の署名のうち「全国の原告団」が集めた署名が約40万です。東京原告団が12万余、神奈川・埼玉が各7万余、千葉が5万余で関東関係が35万を集め、全国原告団からの署名が5万余です。これは約3年にわたり雨の日も風の日も、猛暑の中でも街頭・駅頭で訴え続けた結果です。特に7月の不当な「大阪判決」をマスメディアが好意的に報道してから国民の関心が一層強まり、街頭の反応も変化しています。原告団は「12月がチャンス」と位置付け週1回ペースで頑張っています。
★団体訪問500を超える!
東京を中心に支援組織と原告団が組んで訪問した団体は500を超えました。これらの組織や個人から寄せられた署名が約40万筆です。全農林労組の4万人などの大きな協力とあわせ10人・20人といった署名が数多く寄せられました。支援組織の日本中国友好協会も10万以上を集めています。「大詰め」を迎え改めてお願いした団体・個人のご尽力を要請いたします。
★「100万人達成」の持つ重み 
「署名100万人達成」の持つ重みは、政府と裁判所に対して大きなインパクトを与えます。来年結審が予定される14の地裁を勝利に導き、政府の「孤児政策立法化」を強く促す役割を果たします。同時に、長期にわたって奮闘してきた原告団・弁護団・支援組織・個人を大きく励ますものです。


 孤児全原告が、「立法化」求め 『心と血の手紙』運動を展開!!

原告団全国連絡会は、日本政府が孤児問題の「立法化(政治解決)」に向けて、本腰を入れて取り組むよう原告全員(2093人)による要請の手紙(「心と血の手紙」)を出す運動を一斉に展開しています。手紙は、小泉首相をはじめ衆参両院議長、全政党党首あてに送るというもので、12月1日から10日まで集中的に取り組まれます。内容は、孤児政策立法化を前提にして、各自が「孤児になった経過・中国での生活体験・肉親の判明状況・永住後の生活実態」などをひとりひとりが自筆(日本語・中国語)で記し送るというものです。前号で紹介したように超党派の「孤児議連」結成を要請する努力も、引き続き行なわれています。

 「呼びかけ人」からアクションを
一方、「市民連絡会」は全国の裁判勝利に向け、特に「東京地裁」の勝利を勝ち取るうえで著名な「呼びかけ人」の方々が裁判所に対して、要請書の送付や証言など積極的な「働きかけ(アクション)」を起こしてもらうことが重要と「要請の手紙」を送付しました。11月の世話人会で「かつて松川事件で作家の広津和夫氏が果たした大きな役割を想起したい。孤児問題に関心を寄せていただいている署名な呼びかけ人の方々に再度お願いしよう」と議論され実行されたものです。


 東京地裁、「5月24日に結審」決まる!   
2005年は大阪判決だけでしたが、2006年は東京地裁はじめ全国14の地裁での結審・判決が次々と予定されます。原告の半数以上が参加している注目の東京地裁は、5月24日に結審、秋に判決が予定されています。今後の弁論は、年内が12月22日、来年は2月21日が決まっています。続いて、兵庫、京都、名古屋・広島・その他が相次いで結審、判決を迎えることが予想されています。
 弁護団は「大阪判決が早期帰国義務を認めなかったのは、最終的には「孤児の被害の認識」に起因していると思われます」(鳥海準弁護団事務局長)と述べています。つまり、裁判官が孤児の苦難の体験を十分に認識していないからだということです。弁護団は、各地の裁判で時間は掛かっても原告の証言を出来るだけ多く陳述してもらい、また学者、専門家の証言もしてもらうことによって、裁判官の「認識」を変えていこうという方針で取り組んでいます。そして全国14地裁のどこかで「勝利の突破口」を切り開くことが重要だとしています。その点からも東京地裁の帰趨が非常に重要な意味を持っています。

 
 原告2093人が裁判に参加、全体の83%に到達!
原告団総数は2093人に達しました。(10月15日現在)各裁判所ごとの原告数は以下の通りです。
東京地裁1092 札幌地裁85 仙台地裁25 山形地裁34 長野地裁67 名古屋地裁209 京都地裁109 大阪地裁144 神戸地裁65 岡山地裁27 広島地裁59 徳島地裁4 高知地裁46 福岡地裁103 鹿児島地裁24 計2093 ※この他、残留婦人訴訟が東京地裁3 高知地裁9 埼玉地裁13です。

★ お願い★
 @「孤児裁判募金」をお願い致します。裁判の長期化で、財政事情が厳しくなっています。日中友好協会は、カレンダー「悠久の中国」(1200円)を普及し、売上の一部を孤児支援募金に当てています。ご注文は日中友好協会へ。п@03-3234-4700 FAX 03-3234-4703
 A同封の「署名簿」を増刷し署名を集めてください。また署名簿が必要なら市民連絡会にご連絡ください。集った署名は、年内にお送りください。よろしくお願い致します。

※署名用紙
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=3

※バックナンバーはこちら
NO.7 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=64
NO.6 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=4
NO.5 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=34
NO.4 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=21
NO.3 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=33
NO.2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=20
NO.1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=19

「さらば戦争!映画祭」来場御礼

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 さらば戦争!映画祭
〜人間が始めたものは人間がやめればいい〜

 にお越しくださったみなさまへ
          

 さる11月19日、20日に開催いたしました「さらば戦争!映画祭」に、お忙しい中、たくさんの方々にお越しいただき本当にありがとうございました!
映画祭には両日で400名の方々にご参加頂きました。
 映画祭を大いに盛り上げてくれた両日の監督トークでしたが、聞いていて楽しく、また興味深い、示唆に富んだお話でした。

「人間の命の尊さ、そこに立ち返らなければいけない。」(ジャン監督)
「人間どもが、何もかも拒否していくことです。」(井筒監督)

 どのような形になるかわかりませんが、今後Web上にて一部分でもご紹介させていただけたらと思います。

 このたびの映画祭は、初めてこのようなイベントを経験するスタッフばかりが20名ほど集い準備にあたってきました。至らない点も多々あったのではないかと存じます。
 特に、チケット購入が不便だった点については、多くご意見いただきました。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。大きな反省点として、今後の活動に生かしていきたいと思います。
 
 また、このたびの映画祭の企画について

「応援しています!」「ぜひ今後も続けて下さい!」
「とてもよい企画でした。ありがとうございました」
「スタッフの皆様、ご苦労様でした」

など、暖かいお声をたくさん頂きました。まずは今回の映画祭を成功させることで精一杯だった私たちですが、ここで満足するのではなく、是非継続的に活動していこうということを、20日の終了時点で確認しました。このように、疲れを感じることなく新たな目標に向かうことができましたのも、こうした暖かい皆様のご声援のおかげでした。

 そして今回、鹿児島県、静岡県、京都府、群馬県、栃木県と遠方からお越しいただいた方がたくさんいらっしいました。遠くからご参加いただき、主催者としてこれほど嬉しいことはありません。

 さらば戦争!というテーマはあまりに大きすぎたかもしれません。しかしまずは一歩、踏み出すことができたと考えています。どこか遠い国の、知らない誰かの、遥か昔の話ではない“戦争”に触れ、考えることが、私たち自身にとってもかけがえのない経験となりました。
 イベントに携わったスタッフ一同、トークゲストの監督の皆様、関係者の皆様、そして会場にお越しいただいた皆様との出会いと感動を生涯忘れることはありません。

 皆様本当にありがとうございました。

 まずは、「さら戦新聞」第2号を発刊をめざし、時期や内容はこれから検討いたしますが、皆様に喜んでいただけるイベントを開催していきたいと思います。

 その際には改めてご案内いたしますので、アイデアやご意見などお寄せいただければ幸いです。
 
 今後とも、「さらば戦争!映画祭実行委員会」を宜しくお願いいたします。

::::::::::::::::::::::::

「さらば戦争!映画祭」実行委員会
http://www.eigasai-60.com/ 
info@eigasai-60.com

「中国・帰国者まつり’05」のお知らせ

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中国・帰国者まつり'05
〜中国「残留孤児」訴訟勝利のために〜

昨年好評だった「中国・帰国者まつり」、今年も開催します!!
東京訴訟もいよいよ来年5月に結審です。
7月の大阪不当判決を乗り越え、勝利を勝ち取るためには、
原告、支援者、弁護団のさらなる団結が必要です。
交流を深め、かつ原告の皆さんを励ましましょう!!
みなさん、お誘い合わせのうえ、ぜひご参加下さい!!

●日時
 12月4日(日)PM1:00開会
●場所
 東京土建練馬支部会館 
 東京都練馬区中村北1-6-2
 電話:03-3825-5522
○最寄り駅
 西武池袋線・都営地下鉄大江戸線練馬駅
※道順
 西武池袋線南口、大江戸線A1出口 千川通り(駅前どおり)を西へ
 4番目の信号を左折後、2番目の信号を右折
◎内容
 原告、支援者による多彩な演し物盛りだくさん!
 食べ物・飲み物も用意致します。

鈴木賢士さん(http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=60)の写真展
フリーマーケット
も行います。

●参加費
 1000円(帰国者は500円)
●連絡先
 〒141-0022東京都品川区五反田1-13-12
   五反田法律事務所内
 「中国・帰国者まつり」実行委員会
  電話/FAX:03-3447-1620

PDFはこちら、分かりやすい地図もあります。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/111.pdf

「さらば戦争!映画祭」成功の裡に終了

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11月20日(日)、発明会館ホールにて、
「さらば戦争!映画祭」2日目が開催され、約250名の観衆が訪れました。

初日と併せ、延べ約400名の観客を集め、映画祭は成功の裡に無事終了致しました。

お越しいただいた皆様、カンパ等でご協力いただいた皆様
ありがとうございました。

※写真は2日目(20日)監督トークの模様
 左より2人目金兌鎰氏、3人目井筒和幸氏、4人目海南友子氏

「さらば戦争!映画祭」初日・盛況に(その2)

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11月20日(日)には、発明会館ホールにて
以下の作品の上映&トークが行われます。

11:00「あんにょん・サヨナラ」
 【監督:金兌鎰(キム・テイル) 共同監督:加藤久美子 2005年】
14:00「にがい涙の大地から」
 【監督:海南友子 2004年】
15:50「パッチギ!」
 【監督:井筒和幸 2004年】
18:00 監督トーク
  井筒和幸氏×金兌鎰氏×海南友子氏

詳しくはこちら
  ↓ ↓ ↓
http://www.eigasai-60.com/

※写真は19日行われた吉永春子監督とジャン・ユンカーマン監督のトーク

「さらば戦争!映画祭」初日・盛況に(その1)

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11月19日(土)、明治大学リバティータワーにて、
「さらば戦争!映画祭」が約150名の観衆を集めて盛況のうちに開催されました。

19日の上映作品等は以下のとおりでした。

「乳泉村の子」【監督:謝晋 1991年】
  中国残留孤児とは :トーク安達大成氏(中国残留孤児訴訟原告)
「日本鬼子(リーベンクイズ)」
 【監督:松井稔 2000年】
「HELLFIRE 劫火−ヒロシマからの旅−」
 【監督:ジャン・ユンカーマン 1988年】
 監督・トーク
  吉永春子氏(『魔の731部隊』吉永春子監督)×ジャン・ユンカーマン氏

※写真は安達氏と田部知江子弁護士

「さらば戦争!映画祭」開催のお知らせとカンパのお願い

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 いよいよ、19日(土)、20日(日)に「さらば戦争!映画祭」が開催されます。
 19日(土)には、「残留孤児」原告の安達大成さんのトークも予定されています。多くの皆様のお越しをお待ちしております。
 詳しくはこちら
  ↓  ↓  ↓  ↓
http://www.eigasai-60.com/
  
 −カンパのご協力のお願い−
 昨年より『法と民主主義』誌上での企画をきっかけに、中国残留孤児国家賠償訴訟弁護団、原爆症認定訴訟弁護団、中国人戦争被害賠償請求事件弁護団の3弁護団では、相互に扱う事件、その加害や被害について学びあう場として学習会を行って参りました。数回の学習会を経て、その加害と被害を終戦60周年である本年に改めて広く伝えようと、このたび映画祭を企画する運びとなりました。
 戦争について書かれた本を手に取るよりは、「映画」は親しみやすい媒体だろう。そう考え、「さらば戦争!映画祭」企画が始まりました。世代を問わず広範な市民に、日常では触れることのない戦争の加害、被害について関心をもってもらう絶好の機会であると考えています。
 二度と訪れない終戦60周年という節目に、この映画祭を通じて「絶対に戦争はしてはいけない」「今を生きる私たちに無関係の遠い話ではない」ということを伝え、現在水面下で進行する、“戦争を行える国”への備え、戦争の傷跡が深く残る人々の痛み、まさに今この瞬間にも人が命を失っているという悲劇、これら現実にどう向き合うべきかを、戦争を放棄した国の市民である日本の多くの人が少しでも考えるきっかけとなればと願っています。
 各弁護団の諸先輩方の拓かれた道をさらに堅固にし平和を実現するべく、未熟ながら私たちもこの終戦60周年に、それなりに熱い使命感を胸に日々奮闘しています。準備金がゼロの状況からこの企画を成功させるために、実行委員一同、日々奔走しております。
 本映画祭の趣旨をご理解いただき、カンパのご協力をいただけますよう何卒宜しくお願い申し上げます。

「さらば戦争!映画祭」実行委員会一同

 口座番号:00130-8-686075 
 口座名義:さらば戦争映画祭実行委員会

【連絡先】実行委員会事務局
 03-5312-4827 info@eigasai-60.com

11月8日、原告本人尋問

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11月8日、東京地裁で、原告3名の本人尋問が行われました。

 最初に供述を行った菅原延吉さん(写真)は、1945年、ソ連参戦による逃避行の中で母や姉と別れ、中国人の養父母に育てられることとなりましたが、その後養母は養父と離婚して家を出、12歳の時には養父も亡くしました。菅原さんは12歳にして中国の地で再び孤児となってしまった寂しさ、悲しさについて語りました。
 また、菅原さんは、文化大革命時代には、「日本帝国主義孝子賢孫」と批判され、日本政府の身代わりとしてその侵略戦争の罪責を負わされ、迫害を受けたことの理不尽、不合理について語り、「60年前に戦争は終わったとされるが、私たち残留孤児の問題が解決しない限りこの戦争は終わらない」と述べました。

 2番目に供述を行ったY.Rさん(女性)は日本語で証言を行いました。Y.Rさんは、日本帰国後、生活保護費の中から学費を捻出して日本語学校に通い必死に日本語を身につける努力をしました。それでも日本語能力が不十分なため、Y.Rさんは職場では「外人」と言われ、差別を受けました。Y.Rさんは、「もう少し国が早く帰国させるための措置をとってくれれば、このような思いをせずにすんだのに」とその悔しさを語りました。

 最後に供述を行ったY.Tさん(男性)の尋問では、Y.Tさんの母に対して、県の職員が、「帳面がうるさい」(資料の整理がつかない)などと言って「戦時死亡宣告」に同意するようしきりに説得活動を行ったこと、Y.Tさんの母はY.Tさんの生存を信じて最後までそれを拒んだことを、7月20日に放映されたNHK「クローズアップ現代」(http://www.nhk.or.jp/gendai/)の映像を交えながら、明らかにし、Y.Rさんはこのような非情な行為に対する怒りと悲しみについて語りました。

詳しいレポートはこちら
http://spaces.msn.com/members/8888jcbridge/PersonalSpace.aspx?_c=
(中国帰国者二世・三世の会【日中之橋】)

 関東訴訟も残すところ3期日となりました。今後の期日は、以下のとおりです。
○2005年12月22日(木)午前10時〜午後5時 原告本人尋問(3名)
 ※場所:東京地方裁判所103号法廷
 ※傍聴するには傍聴券が必要です。
  傍聴券の抽選は午前9時30分です。
○ 2006年 2月21日(火)午前10時〜午後5時 証人尋問
         5月24日(水)午後1時〜       結審

裁判勝利のため引き続きご支援お願い致します。

「誰にも言えない中国残留孤児の心のうち」

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草思社より、『誰にも言えない中国残留孤児の心のうち』(埜口阿文・著)が発売されました。
http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_4794214367.html

中国残留日本人孤児たちは、波瀾の戦後をどのように生きたのか。
そして日本に定住したいま、何を思うのか。
敗戦の日を満州で迎え、中共八路軍の政府機関に採用され、以来三十五年間を大陸で過ごした著者が、三人の帰国・定住者にその半生と心境を聞く。
残留体験者でなければ描けなかった孤児たちの真実の物語。

プロローグ 遠い記憶のなかの吉林の姉弟(「通化事件」の犠牲となった父と母;唯一の証は羽二重のベビー服 ほか)
第1章 義父母(長春の重点大学に入った賢い子;出稼ぎたちの景気のいい話 ほか)
第2章 牧童(梅河口;一時帰国 ほか)
第3章 下放青年(長春;誤算 ほか)

埜口阿文(のぐち・おふみ)氏
1926年佐賀県生まれ。44年、満州電気化学にタイピストとして就職するために渡満。45年5月に家族が佐賀村開拓団に入植。敗戦後、一家で朝陽鎮の日本人難民収容所に送られる。同年11月、中共八路軍の輝南県衛戍司令部に採用。中国にとどまり、国共内戦中は中共の省機関と行をともにする。49年、東北人民政府民政部に配属。52年から3年間、東北人民大学(現吉林大学)付属工農中学で学ぶ。55年、工農中学の同級生と結婚。64年、新設された大連日本語学校(現大連日本語学院)の講師となる。文革中の68年、日本人であることから家宅捜索を受ける。69年から4年間にわたり、明陽人民公社で下放。日中国交成立後、73年に一時帰国。80年、夫と2人の子供とともに日本へ引揚げる。93年〜94年、長春大学外国語学院で日本語を教える。著書に、このときの1年間の日記をまとめた『長春大学教師日記』(小社刊)がある。

関東訴訟は来年5月結審に

10月18日、東京地裁で進行協議手続が行われ、下記のとおり今後の裁判期日が指定されました。

2005年12月22日(水)午前10時〜午後5時 原告本人尋問
2006年 2月21日(火)午前10時〜午後5時 証人尋問
       5月24日(水)午後1時〜       結審

いよいよ結審の日が決まりました。残すところ7か月です。
裁判勝利のため引き続きご支援お願い致します。

※次回の期日は、以下のとおりです。
 日時:11月8日(火)午前10時〜午後5時
 場所:東京地方裁判所103号法廷
※原告本人尋問(3名)を行います。
※傍聴するには傍聴券が必要です。傍聴券の抽選は午前9時30分です。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その10)

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原告の安達大成さんも参加したピースボート50回クルーズを特集した「法と民主主義」10月号が発行されました。http://www.jdla.jp/houmin/index.html
是非お買い求め下さい。
注文はこちら。
http://www.jdla.jp/kankou/itiran.html

過去の戦争をみつめ、未来の平和をつくろう
─ピースボート50回クルーズ・船上企画から
◆特集にあたって……田部知江子
◆戦後60年企画 「戦争被害・戦後補償を考える3事件グループ」 on ピース・ボートがうまれるまで……田部知江子
◆「残留孤児」、平和之船に乗る……渕上 隆
■ピースボートに乗船して……安達大成
■安達さんの話を聞いて……新井葉月
◆被爆者の証言……大森克剛
■大森克剛さんとの船内企画報告……竹峰誠一郎
◆チチハル遺棄毒ガス被害者と戦後補償裁判……馬奈木厳太郎
■丁樹文さんと出会って……渡辺里香
◆「靖国訴訟」ってなに?『靖国』について語ろう!……大山勇一
■「痛み」を「誉れ」に変えてはならない……滝沢智子
◆ピースボート、恨の島 韓国小鹿島訪問……田部知江子
■ソロクト訪問にて……深川理彩
■行列のできる法律相談所……浅井美絵
■三事件弁護団と出会って……水野浩子
■改憲の動きが加速する今、必要なこと……吉田タカコ

※「残留孤児」原告、平和之船に乗る
その1-1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=84
その1-2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=86
その2-1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=85
その2-2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=87
その3-1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=88
その3-2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=89
その4-1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=93
その4-2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=92
その5-1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=96
その5-2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=97
その6   http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=98
その7-1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=99
その7-2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=100
その7-3 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=101
その8-1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=102
その8-2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=103
その9   http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=104

「さらば戦争!映画祭」News

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11月19日(土)
 ジャン・ユンカーマン監督×吉永春子監督トークショー行います。
11月20日(日)
 井筒監督×海南監督×キム・テイル監督トークショー行います。
詳しくは、こちら。
  ↓  ↓  ↓  ↓
http://www.eigasai-60.com/

【連絡先】実行委員会事務局
 03-5312-4827 info@eigasai-60.com
 口座番号:00130-8-686075 
 口座名義:さらば戦争映画祭実行委員会

京都地裁で追加提訴

10月7日、京都地裁で原告1名が追加提訴しました。

※全国の提訴状況(最新)はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/36.htm

「さらば戦争!映画祭」web siteオープン!

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中国「残留孤児」・被爆者・中国人戦争被害賠償弁護団及び関係者は、「戦争被害・戦後補償を考える」をテーマに、お互いに戦争責任・戦後の責任について学びあおうと、学習会や交流を重ねてきました。
(『法と民主主義』2003年12月号)

その、戦後60年「海の企画」が「ピースボート コリア・ジャパン未来クルーズ Peace & Green in Asia」への参加でした(http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=84)。

そして、「陸の企画」として、11月19日(土)、20日(日)に“さらば戦争!映画祭”を行います。
そのweb siteがいよいよオープンしました。
  ↓  ↓  ↓  ↓
http://www.eigasai-60.com/

是非、ご覧下さい!

二・三世の会(日中之橋)設立

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 9月3日、東京品川区で、「中国帰国者二・三世の会」(通称・日中之橋)の設立総会が、帰国者二・三世のほか、原告(一世)、支援者、弁護士等約50名が出席して、開催されました。
 二・三世は、これまで通訳、翻訳等で一世(原告)の裁判を支援してきました。この日代表に選出された大久保明男さんは、これからも裁判勝利に向けて支援活動を組織的に展開するととともに、日中両国の文化を身につけた自分たちの特性を生かして日中の架け橋となろうと呼びかけました。
 また、原告団を代表して池田澄江関東原告団代表、弁護団を代表して安原幸彦同弁護団幹事長、支援者を代表して東京法律事務所の林千穂さんが、さらにその他関係者の方々がそれぞれ祝辞を述べ、二・三世の会の発展と今後のさらなる活躍に期待を寄せました。

会の規約 http://jcbridge.jugem.jp/?eid=1

中国帰国者二世・三世の会(日中之橋)事務局
〒105-0004 東京都港区新橋1-5-5 
国際善隣会館五階
中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告団事務局気付
FAX 03-3574-9312 E-mail ohkubo@tmca.ac.jp
HP http://spaces.msn.com/members/8888jcbridge/PersonalSpace.aspx?_c=

「孤児」原告、選管に要請

9月2日、大阪、福岡で、それぞれ原告団、弁護団が府、県選管に選挙公報等に中国語でも記載するなど日本語が不自由な中国残留孤児が投票できる環境を整備するよう要請しました。
http://blogs.yahoo.co.jp/genkokusien/10229937.html

わたしなにじんですか?−原告本人尋問

8月30日、東京地裁で口頭弁論期日が開かれました。

この日の期日は、7月7日の大阪地裁判決後初めてのもので、冒頭、鈴木經夫原告弁護団長より意見陳述が行われ、大阪判決の誤りを詳細に指摘しました。
(意見陳述の内容はこちらhttp://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/90.htm

この日の法廷では、関東訴訟では初めて、「同時通訳」が導入され、傍聴席の原告の方々が中国語で法廷のやりとりを聞くことができるようになりました。
(中国語訳http://www.geocities.jp/genkokusien/tokyou7.6C.html

その後、千葉県在住のK.Hさん、神奈川県在住のI.Tさん2名に対する原告本人尋問が行われたました。
K.Hさんは、日本での暮らしが始まったばかりのころ火事により全財産を失い途方に暮れていたところ、市役所の職員に、「日本で暮らすことができないなら中国に送り返す」といわれたこと、また、就職した会社が残業代をごまかそうとしたため抗議したところ、「いやなら中国に帰れ、ばか」といわれたことを語り、「中国にいたときは『小日本鬼子(シャオリーベンクイズ)』といわれ、日本に帰ってきたら『中国に帰れ』といわれる。私はどこの国の人ですか?」と述べました。
この日の2名の原告に対する尋問により、「孤児」たちがこれまで被り、また、現在も被りつづけている被害は、大阪判決がいう「不便」、「不利益」ではすまされない深刻なものであることがますます明らかになりました。

憲法研究所のHPでも、レポートされています。
http://www.jicl.jp/now/saiban/backnumber/china_7.html

次回の期日は、以下のとおりです。
 日時:11月8日(火)午前10時〜午後5時
 場所:東京地方裁判所103号法廷
※原告本人尋問を予定しています。
※傍聴するには傍聴券が必要です。傍聴券の抽選は午前9時30分です。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その9)

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8月22日、船は上海に入港し、安達さんはそこで下船して10日間の旅を終えました。

ピースボートに乗船して
     中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告 安達 大成

この度、中国残留孤児、被爆者、中国人戦争被害者三事件グループの一員として船に乗せていただきました。
今回の旅で、一番嬉しかったことは、下は女子高校生から上は六五歳の方まで、私の話に熱心に耳を傾けてくれて、残留孤児に想いを寄せてくれたことです。船の中で本当に多くの人たちとお話しすることができました。
そして、今回の旅で改めて実感できたことは、私たち残留孤児だけではなく、日本の植民地政策、軍国主義の被害者が沢山いることです。
韓国ではソロクトを訪れ、日本の植民地支配下で強制的に隔離され、強制労働をさせられて、手を失ってしまった元ハンセン病患者の方と会いました。
また、丹東から乗船してきたチチハル遺棄毒ガス被害者の丁さんとは同じ船室で、私は丁さんの通訳もしました。私は丁さんにその下半身の傷を見せてもらいました。何故、この平和な世の中で、丁さんのような若い人が、日本軍のために被害にあわなければならないのか?
私は、平和に暮らしている今の若い人たちに二度と私たちのような悲しい思いをさせたくはありません。私は、今回の旅で本当に多くのことを勉強することができました。ここで勉強したことを生かして、これからは、残留孤児の被害のことだけではなく、様々な被害者のためにも行動したいと思っています。
(「法と民主主義」2005年10月号原稿より抜粋)

※「法と民主主義」2005年10月号では、今回の旅について特集致します。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その8-2)

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丁さんは、8月19日に丹東で乗船してから、22日に上海で下船するまで、安達さんと同じ船室で過ごされました。
安達さんは、日本語・中国語の通訳を務められ、日本語の出来ない丁さんに代わって、日本の乗船客に丁さんの被害を訴えました。

※写真は、日本の乗船客からの手紙を中国語に訳してあげているところ

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その8-1)

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8月19日には、チチハル毒ガス被害者の丁樹文さんが乗船されました。

2003年8月4日、黒龍江省チチハル市の団地の工事現場で、旧日本軍が製造・遺棄した毒ガスの入ったドラム缶が発見されました。工事に携わった人々、掘り出されたドラム缶を扱った廃品回収業の人々、掘り返された土が運ばれて来たところの人々と被害は広範に渡り、1名が死亡、43名が病院に運ばれる事態となりました。
丁さんもそのような被害者の一人です。
日本軍が遺棄した毒ガスの被害等については
http://www.peace-justice.jp/ja/
http://www.geocities.jp/dokugas2000/

丁さんは、8月20日には、船内でのシンポジウム“「歴史認識と未来の選択」証言〜日本政府の責任〜”に元日本軍戦時性被害者・李容洙さんとともにパネリストとして出演され、ご自身が受けた被害についてお話されました。

※写真右から2人目が丁さん

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その7-3)

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奉天は旧満州の最大の都市(「満州国」の「首都」は「新京」〔長春〕)です。現在も当時の建物が多く残されていました。

※写真は旧ヤマトホテル
旧奉天市の市街地図と写真等は
http://homepage3.nifty.com/jiangkou/Kiyoshi/shenyang/index.html

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その7-2)

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「九.一八歴史博物館」には、満州移民関係の資料も多数展示されていました。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その7-1)

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「勿忘“九.一八”」

8月19日、船は中朝国境近くの港・丹東に入港しました。
「3事件グループ」の一部は、オプショナル・ツアーに参加し、瀋陽を訪れ、世界遺産である瀋陽故宮博物館、九.一八歴史博物館等を見学しました。

瀋陽は清朝発祥の地であり、旧満州時代には「奉天」と呼ばれていた地です。
1931年9月18日、関東軍は奉天駅北方約8キロの地点にある柳条湖付近の満鉄線を自ら爆破しました(柳条湖事件)。これをきっかけとして、関東軍は軍事行動を開始し、奉天等の都市を占領し、ついには「満州国」の「建国」へと至りました(満州事変)。
柳条湖事件は、「十五年戦争」の発端となった事件であり(ただし、満州事変は1933年の塘沽協定で停戦、日中の全面戦争は1937年の「廬溝橋事件」から)、中国「残留孤児」問題の原点ともいえる事件です。中国では「九.一八事変」と呼ばれ、満鉄爆破地点に「九.一八歴史博物館」が建てられています。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その6)

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8月18日、日韓の乗船者の有志は、ソウルの日本大使館前で共同記者会見を行い、「平和憲法を守れ」とアピールしました。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その5-2)

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その後、「3事件グループ」はツアー一行と別れ、「アリラン・コゲ(峠)」に向かいました。

原告の安達さんは、1933年、当時日本の植民地支配下にあった韓国ソウル(「京城」)で生まれ、3歳までソウルで過ごされましたが、その地で実母を亡くされました。安達さんは、その後、「満州国」(中国東北部)に移られ、そこで、日本の敗戦を迎え1981年まで中国で過ごすこととなったのでした。まさに、安達さんの半生は戦前の日本の植民地政策と切り離せないものでした。

安達さんが幼いころお父さんから聞いた記憶によると、実母のお骨は「ソウルのアリラン山の麓の日本寺院」に納められているとのこと。そこで、「アリラン山の麓の日本寺院」を唯一の手がかりとして、そのお寺を訪ねることとしましたが、地元の人に尋ねてみると、「アリラン山」ではなく「アリラン・コゲ(峠)」であることが判明しました。そこで、アリラン峠に向かい、いくつかの寺院を訪ねましたが、日本寺院を見つけ出すことはできませんでした。しかし、約70年ぶりにアリラン峠を訪れた安達さんは、その地の土を遺骨代わりとして日本に持ち帰り、仏壇に納めることとしました。

※写真はアリラン峠にあった寺院。これが昔、日本寺院であったのかは不明。
「アリラン」については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その5-1)

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8月17日、船は第2の寄港地、韓国・仁川(インチョン)に入港しました。
私たち、「3事件グループ」はオプショナルツアーに参加し、ソウルにあるNGO「参与連帯」、「聖公会NGO大学院」を訪問し、韓国の民主化運動の歴史と現状について伺いました。

※写真は、「参与連帯」元事務所長で、現在NPO「美しき財団」理事の朴元淳(パク・ウォンスン)氏
参与連帯は政府監視活動などオンブズマン活動を活発に行っている市民運動団体で、2000年の韓国の総選挙で「落選運動」を展開したことでも名高い。朴元淳氏は韓国で最も影響力をもつ市民活動家といわれている。
※参与連帯については、「法と民主主義」2000年12月号でも特集が組まれました。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その4-2)

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ソロクトは、日本が韓国を植民地支配していたときに作ったハンセン病療養所ですが、日本国内におけるハンセン病強制隔離政策と同様に強制収容、労働の強制、断種・堕胎等の優生政策の徹底、懲戒検束等の絶対隔離・絶滅政策が行われ、その人権蹂躙の実態は、日本国内の他の国立ハンセン病療養所をはるかに上回る苛酷なものであったとのことです。

日本のハンセン病回復者の方々は、「ハンセン病補償法」に基づき補償金が支給されていますが、日本政府はソロクトに入所されていた方々の請求を拒否したため、現在日本で裁判が闘われいます。

詳しくは、ソロクト・楽生院 補償請求弁護団HP
http://www15.ocn.ne.jp/~srkt/

※写真は断種台
ソロクトでは、日本国内における国立療養所と同様に、結婚の条件として男性に断種が強制され、また妊娠した女性に対しては堕胎が強要されたが、さらに、、懲罰としても断種が行われたという。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その4-1)

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8月15日、3事件グループは独自のツアーを企画し、小鹿島(ソロクト)更生園を訪れました

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その3-2)

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 私たちは、60回目の「終戦記念日」を韓国で迎えましたが、韓国の人びとにとって8月15日は日本の植民地支配から解放されたことを祝う「光復節」。釜山でも、60回目の光復節を祝う式典が開催されていました。

※韓国では8月15日は祝日

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その3-1)

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 8月13日に東京を出港した船は、15日、最初の寄港地韓国・釜山(プサン)に入港しました。

※韓国のテレビの取材を受けるピースボート吉岡共同代表

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その2-2)

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 安達さんは、肉親と離別して1981年に帰国されるまで人生の大半を中国で過ごされました。その間、深夜には家の裏の林畑に行き幼いころ覚えた日本の歌を歌い日本語を忘れないよう努めたといいます。
 ほとんどの帰国者が日本語を話せない中で安達さんは希有な存在です。そのため、安達さんは他の帰国者原告が弁護士と打ち合わせする際には通訳を勤めるなど、原告と弁護士、支援者との橋渡し役としても活躍されています。

 また、厚生労働省の見解によれば、「中国残留孤児」とは終戦時に13歳未満であった者をいうとされるため(その見解の是非は措くとして)、終戦時に12歳であった安達さんは、「孤児」の中でも最年長者です。肉親と離別した状況についての記憶さえない「孤児」が多い中、安達さんは、植民地支配下での軍国主義教育などについてもご自身の記憶に基づいて語ることができる貴重な存在といえます。

 安達さんのお話しは、老若・国籍の別を問わず、多くの乗船客の心をとらえ、安達さんは多くの人々との交流を深めました。

※アメリカ人、中国人、日本人と語る安達さん。
 英語、中国語、日本語が飛び交った。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その2-1)

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 安達大成(だいなり)さんは「終戦の日」を旧満州で迎えた。12歳の中学生だった。ソ連との国境に近い小さな街で、いつものように外で遊んでいた。家に帰ると、母親から「戦争に負けた」と知らされた。えっ、それ何、という感じだった。
 その数日後、ソ連の飛行機が現れた。上空からいきなり機銃で撃たれ、林の中に逃げた。安達さんは「日本では戦争が終わっていたが、私にとっては、この日から戦争が始まったようなものです」と話す。
 まもなく、ソ連軍が街にやって来た。土木技師だった父は数カ月前に病死していた。母と2人の弟とともに収容所を転々とさせられる。その途中で、2歳だった下の弟は、母に背負われたまま死んだ。食べものにも事欠いた。自分がいなければ2人が助かる。そう考えた少年は黙って姿を消した。それが母や弟との長い別れとなる。
 辺境の農場で働き、20代の初めに出会ったのが妻の素子さんだ。素子さんは開拓農民の娘だった。母と一緒にソ連軍の侵攻から逃げたが、母は亡くなり、中国人の養父母に育てられた。異郷で結ばれた2人の残留孤児が母国の地を踏んだのは、終戦から36年後だった。
 旧満州には約150万人の日本人が住んでいた。そのうち、ソ連軍や地元民の襲撃、集団自決、病気などで、約20万人が死んだといわれる。同じ日本人でも、どこで「終戦の日」を迎えたかで、運命は変わった。
 安達さん夫妻はいま、千葉県で月に6万円の年金で暮らす。妻は日本語が話せない。5歳年上の夫は「私が先に死んだらどうなるのか」と心配する。
(2005年8月16日・朝日新聞「天声人語」より)

※写真は、船上で日韓の乗船客にご自身の体験と他の「残留孤児」の生活の実情等を語り、訴訟支援を訴える安達さん。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その1-2)

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 この「コリア・ジャパン未来クルーズ Peace & Green in Asia」は、日本のピースボート(http://www.peaceboat.org/index_j.html)と韓国のNPO『環境財団』が共同で企画・運営をすすめる船旅で、8月13日から8月29日までの間、釜山、仁川(韓国・ソウル付近)、丹東(中国東北部)、上海、那覇、長崎に寄港しながら、東アジアを2週間で回るクルーズです。
http://www.japangrace.com/peaceboat/tour/50/index.html

 中国「残留孤児」訴訟関係者からは、弁護団の田部弁護士、渕上弁護士のほか、原告の安達大成さんが参加し、安達さんは8月13日から8月22日(上海)まで乗船されました。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その1-1)

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 中国「残留孤児」・被爆者・中国人戦争被害賠償弁護団及び関係者は、「戦争被害・戦後補償を考える」をテーマに、お互いに戦争責任・戦後の責任について学びあおうと、学習会や交流を重ねてきました。
(『法と民主主義』2003年12月号)

 そして、「戦後60年企画」の1つとして、
第50回「ピースボート コリア・ジャパン未来クルーズ Peace & Green in Asia」に、「戦争被害・戦後補償を考える3事件グループ」のメンバーが参加しました。

「中国帰国者二世・三世の会」設立総会開催のご案内

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「中国帰国者」関係者のみなさま

ご存じのようにいま「中国残留孤児国家賠償訴訟」が全国的におこなわれています。この裁判を支援するとともに二世・三世の懇親交流などを目的とする「二世・三世の会」が、このたび下記のように設立大会を開催する運びとなりました。ご関心がありましたらぜひご出席お願い申し上げます。

なお、二世・三世以外の方でも、出席が可能で、「副会員」や「協賛会員」として入会もできます。
 
2005年8月20日
「中国帰国者二世・三世の会」設立準備会

     − 記 −
日時: 9月3日(土) 午前9:00−12:00    
場所: 品川第一地域センター区民集会所(詳しい会議室は当日の案内板をご覧ください) 
    北品川3-11-16(下の地図ご参照ください) 
電話: 03-3450-2000
交通: ●新馬場駅から徒歩約3分 ●品川駅から徒歩約15分
    (会場収容人数90人)     
地図:
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.36.48.286&el=139.44.35.599&la=1&fi=1&pref=%c5%ec%b5%fe&skey=%cb%cc%c9%ca%c0%ee3-11-16&sc=3

(以下は「会則」「実施細則」より抜粋)
第2条 目 的
本会は、中国で生れ育った日中両国人の子弟(いわゆる「中国残留日本人二世、三世」、「中国引揚者子女」、「中国帰国者子女」)が、以下の目的を以て結成し、活動する。
(1)相似する出自や生活体験を絆とし、団結して、共に関心をよせる問題について探求し、友情を深め、交流を促進すること
(2)自我及び社会環境に対する理解や認識を深め、自らの自信や能力を高め、歴史的な出自や異文化体験などによってもたらされる諸々の困難を克服し、正当権益の確保と社会的地位の向上を目指すこと
(3)日中両国の文化を備え持つ「二世・三世」の独自性、将来性、潜在能力を最大限に発揮して、多文化共生社会の先駆けや日中両国の架け橋、ひいてはアジアや世界にはばたける人材になり、国際社会に貢献すること。
第4条 活 動
本会は前条の目的を達成するために、主に次の活動をおこなう。
(1)文化交流活動(懇親、交流、会誌刊行、一世への聞きとりと記録、学習会、情報発信など)
(2)経済開発活動(ビジネスアイディア・ツール・情報の交換、人脈構築、共同事業の開発など)
(3)権益擁護活動(裁判支援、行政への政策提言・要請、日本語ボランティア、一世のケア活動など)
(4)その他目的を達成するために必要な活動(就職・進学・言語学習などにおける互助活動など)
会 費  入会金・1000円 年会費(正会員2000円 副会員1000円 協賛会員5000円)

事務局
〒105-0004 東京都港区新橋1-5-5 
国際善隣会館五階
中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告団事務局気付
中国帰国者二世・三世の会(日中之橋)事務局
FAX 03-3574-9312 E-mail ohkubo@tmca.ac.jp
http://spaces.msn.com/members/8888jcbridge/PersonalSpace.aspx?_c=

終戦60周年にデモと座り込み

終戦60周年の8月15日、中国残留孤児国倍訴訟関東原告団によるデモ&座り込みが大々的に行われました。
http://www.geocities.jp/genkokusien/8.15.html
(京都原告団 帰国者二・三世のHP)

さらば戦争!映画祭

 さ ら ば 戦 争 ! 映 画 祭
−人間がはじめたものは 人間がやめればいい−

今年は被爆・終戦60周年。戦争による被害とは?加害とは??
映画祭の企画・運営をとおして、みんなで一緒に考えてみませんか?

この映画祭企画を担っているのは、中国残留孤児・被爆者・戦後補償 3つの国家賠償訴訟の関係者です。
お互いに戦争被害・戦後補償について学んでいるなかで、「終戦60周年である2005年、日本政府にきちんとした責任をとらせ、反省を促すため共同の取り組みをしよう」と、この映画祭を企画しました。

日時・場所など 
11月19日(土) 13:00〜20:00 明治大学駿河台校舎
 リバティタワー2F 1002教室 
  (御茶ノ水駅 下車 徒歩2分)  
11月20日(日) 11:00〜19:00 池袋アカデミーホール B1  
  (JR池袋駅 下車徒歩7分)

上映作品(予定)
*プログラムなど詳細はお問い合わせください。
 入場料は両日とも各1000円です。
「にがい涙の大地から」【監督 海南友子2004年】、
「魔の731部隊」【監督 吉永春子 2005年】、
「あんにょん・サヨナラ」【監督 金兌鎰(キム・テイル)2005年】、
「風が吹くとき」【監督 ジミー・T・ムラカミ 1986年】、
「乳泉村の子」【監督 謝晋 1991年】、
「日本鬼子(リーベンクイズ)」【監督 松井稔 2001年】
等2日間で7〜8本上映予定
朗読劇もあります ⇒「私たち、なにじんですか?」
(残留孤児の体験を語った劇。実際に孤児だった方々が出演されます)

 映画祭スタッフ 大募集!!!
映画に興味がある人、戦争による被害・加害についてまじめに考えてみたい人、みんなで集まってイベントを盛り上げるのが好きな人…いっしょに映画祭を企画・運営しませんか?
まずは、実行委員会をのぞきに来てください!

「さらば戦争!映画祭」実行委員会・軍縮問題研究所 共催
HPはこちら ⇒ http://www.eigasai-60.com

☆出店ブース設けます☆(20日のみ)
ご希望の団体、個人の方は下記連絡先までお問い合わせください。

【連絡先】実行委員会事務局長 吉原雅子 03‐5312‐4827(info@eigasai-60.com)

満州楽土に消ゆ 憲兵になった少年

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中国「残留孤児」国賠訴訟・原告代表相談役である菅原幸助さんの半生を取材した『満州楽土に消ゆ 憲兵になった少年』(神奈川新聞社編集局報道部 編)が神奈川新聞社から発売されたました(1500円+税)。

「満州での大農場経営を夢見た14歳の少年が、
 40年後に気づいた真実。
 それは“贖罪”の始まりだった。」

この本は、神奈川新聞に「かながわ人間劇場」シリーズの第3弾として、2004年9月14日から10月13日まで39回にわたり掲載された記事に加筆・訂正されたものです。

「 井上ひさし氏絶賛!
 掲載中から熟読しておりました。
 このような人物がおいでくださると知って、
 日本人であることに誇りを持つことができます。
 丹念な聞き取り、周到な取材、
 そして平明でありながら品格のある文章。
 取材チームの力に脱帽いたします。」(同書帯より)

http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31574953
http://bookwebpro.kinokuniya.co.jp/imgdata/large/4876453667.jpg

「大地の子になった日本人」、「二つの祖国を生きる」

8月13日(土)午後10時10分〜11時00分(BS1)
NHK BSドキュメンタリー
「大地の子になった日本人」(仮)が放映されます。

[番組案内]
 敗戦の混乱のなかで旧満州、現在の中国東北部に取り残された中国残留孤児のうち、これまでに3500人以上が帰国を果たした。しかし、その一方で、300人以上が中国に残る道を選択した。その多くは、肉親が判明した人たちだが、肉親から、同居を拒まれた者、帰国するよう説得されたが、養父母の面倒をみるために断念した者などさまざまである。
 戦後60年を経た今、彼らは、二つの祖国をどのように自分のなかにおさめようとしているのか。これからどのように中国で生きようとしているのか。
 中国に残る4人の残留孤児を取材、大地のなかで生きる彼らの内面に迫る。
http://www.nhk.or.jp/summer/84.htm


同じく 8月13日(土)午後10時15分〜10時55分
NHKラジオ第一放送で、
「二つの祖国を生きる〜残留邦人家族の戦後60年〜」が放送されます。

[番組案内]
 戦後60年。満州開拓団として中国に渡り、終戦間際の混乱で取り残された残留邦人。これまでに永住帰国した人は、関係者も含めて2万人に達する。しかし、日本での生活は、「夢」とは程遠く困難を極めた。彼らの多くは、今70歳を超える。日本語が満足に話せず引きこもり、生活保護に頼った生活を送る。そんな孤児一世を支えているのが、二世、三世たち。あるものは医師として、またあるものはビジネスマンとして活躍する。「祖国はどこか」そんな悩みを持つ彼らのよりどころは、「家族」。二つの国の狭間で翻弄された残留邦人と、それを支える二世、三世の動きを追い、「二つの祖国に生きる残留邦人家族」の戦後60年を見つめる。
http://www.nhk.or.jp/summer/116.htm

「父母の国よ−中国残留孤児たちはいま」 鈴木賢士(写真・文)

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 長らく「残留孤児」問題の取材に当たられてきたフォトジャーナリスト鈴木賢士さんの著書『父母の国よ−中国残留孤児たちはいま』(写真・文 鈴木賢士)が大月書店より発売になりました(1470円+税)。
http://www.otsukishoten.co.jp/new/index.htm

 普通の日本人として、人間らしく生きたい。祖国日本に帰国した中国「残留孤児」2500人のうち約8割が、全国で国を訴える裁判を起こしたのはなぜか。「孤児」たちの帰国後の姿を、一軒一軒訪ねて撮影したドキュメントです。是非お買い求め下さい。

【目次】
◇はじめに
1 中国残留孤児たちはいま
2 旧満州の荒野に捨てられて
3 余りにも遅すぎた帰国
4 残留孤児・残留婦人の証言
 予防注射で半身不随に/「父母の霊位」に手を合わせる/三回売られた残留婦人/文化大革命ショックで養父母・妻が死亡
5 ついに立ち上がる
6 自国民の戦争孤児を救えない「大国日本」
 中国残留孤児発生の背景/「三度捨てられた」孤児たち/北海道から鹿児島へ−全国に広がる提訴の波/「二度と残留孤児を生み出すな」
◇用語解説
 満州事変/関東軍/満蒙開拓団/ソ連参戦/文化大革命/日中国交回復
◇中国残留孤児・残留婦人関係の略年表
◇あとがき

鈴木 賢士(スズキ ケンジ)
フォトジャーナリスト。1932年東京都に生まれる。戦争で千葉県に疎開し、県立成東高校卒業後、家業(靴店)を継ぐ。戦後、店を東京に移し、30歳で東京経済大学に入学・卒業。雑誌記者生活30年。50代の終わりから現代写真研究所に通い写真を学び、戦争がもたらす不条理を一貫して追求してきた。日本リアリズム写真集団(JRP)会員。
1999年、公募写真展「視点」新人賞受賞。2000年、「週刊現代ドキュメント写真対照」海外フォト・ルポ部門賞受賞。2001年、「視点」奨励賞受賞。2003年8月15日、韓国KBS放送で「鈴木賢士の『韓国のヒロシマ』」放映。
著書『フィリピン残留日系人』(草の根出版会、1997年)『韓国のヒロシマ』(高文研、2000年)『中国人強制連行の生き証人たち』(高文研、2003年)

※鈴木さんにはリーフレットに写真を提供いただくなど(http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/1.jpg)「残留孤児」訴訟・支援に大変ご協力いただいております。

※「孤児」たちの今は
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=69

※「残留孤児」の原点を訪ねて
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=62

そのとき歴史は動いた

8月3日(水)21:15〜21:58
NHK総合「そのとき歴史は動いた」で、以下の番組が放送予定です。

・・・・・・・・・・・・・
シリーズ終戦60年
ソ連参戦の衝撃
〜満蒙開拓民はなぜ取り残された〜

その時:昭和20(1945)年8月9日
出来事:ソ連が参戦
 ソ連軍は日ソ中立条約を破棄し、戦車5千台、兵員157万人の圧倒的戦力で当時日本の支配下にあった満州国(現在の中国東北部)に侵攻した。満州を守備していた日本軍は敗退。100万人を超す日本人居留民が戦闘に巻き込まれ、多数の犠牲者がでた。またこの侵攻は、シベリア抑留や中国残留孤児の問題を生むことになる。様々な史料や証言から、ソ連対日参戦が引きおこした悲劇を描く。

http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_yotei.html

中国残留孤児を支援する国会議員の会・初会合

7月27日、「中国残留日本人孤児を支援する国会議員の会」による初会合が衆議院第二議員会館で開かれました。

報告はこちら
http://www.geocities.jp/genkokusien/7.27giinkai.html
(京都原告団 二・三世のホームページ)

国民学校一年生の会

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 中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会の世話人のお一人である橋本左内さんは、「国民学校一年生の会」でも活動され、『国民学校一年生の会 ある少国民の戦中・戦後』という著書も出されておられます。同書の跋文より、「国民学一年生の会」の活動についてご紹介いたします。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/73.htm

大阪地裁判決に抗議!

中国残留日本人孤児の願いを切り捨てた
 大 阪 地 裁 判 決 に 抗 議!
 (大鷹一郎裁判長)

◎国の責任認めず、全国2000名をこえる残留孤児の願いを切り捨て
 7月6日、中国残留日本人孤児国家賠償大阪訴訟について、大阪地方裁判所第8民事部(大鷹一郎裁判長)は、国の賠償責任を認めず、原告ら全員の請求を棄却する判決を言い渡しました。
 この訴訟は、国が早期帰国実現義務及び帰国後の自立支援義務を怠ったことにより、日本人である原告らが、日本社会で、日本人として人間らしく生きる権利を奪われ続けてきたとして、人権の回復を求めて提訴した訴訟で、全国15の地方裁判所で、2000名を超える残留日本人孤児が原告となり提訴しているもの。生活できる年金もなく、7割の孤児が生活保護を受けています。

◎各新聞社説もこぞって判決を批判
 「現実に目をふさいだ判決。今判決が踏襲されないことを求める。」(北海道新聞)、「温かいまなざしに欠ける判決」(神戸新聞)、「国から自立支援義務を消し去るのは粗っぽい論理」(河北新報)、「戦争被害者と同列とは疑問」(愛媛新聞、徳島新聞)、「(戦争被害として)等しく忍従すべしは妥当か」(高知新聞)、「国への立法措置必要との言及もなし」(徳島新聞)、「理解に苦しむ」(南日本新聞)、「国と国民の人権感覚そのものが厳しく問われる」(北海道新聞)
 判決に対しては、全国の新聞でいっせいに批判する社説が出されています。

◎残留孤児の被害は、単なる「不便、不利益」なのですか?
 判決は、「帰国後も日本語能力が不十分なことなどに起因して、社会生活上様々な場面で不便をきたしたり、不利益を受け精神的苦痛を受けたこと」と被害を認定していますが、帰国後も祖国日本において、自立する基盤をもたず、就労、地域生活などにおいて中国人のように扱われ、その個人の尊厳を侵害されてきた深刻な被害としてとらえていない皮相な見方です。これは日本語を話せない孤児の尋問時間を一人30分に制限した大鷹一郎裁判長の「迅速」審理によるものです。
「戦後も国は長い間、孤児たちを放置した。国が訪日調査を始めたのは終戦から36年もたった1981年。その3年後に埼玉県に日本語を学ぶための定着促進センターができたが、入所期間はわずか4カ月だった。孤児たちの支援対策としてはあまりにも粗末過ぎた。多くの孤児たちが満足に日本語を話せないため就職が難しく、偏見や差別もあり、生活苦にあえいできた」(沖縄タイムズ)のです。

◎戦時死亡宣告と帰国意思なしとの決めつけで社会的に抹殺
 判決は、孤児たちの帰国支援義務は、日中国交回復以降にしか生じないとし、さらに国は努力したので、義務違反はないとしました。しかし、7月20日に放映された「NHKクローズアップ現代」(私は" 死亡" していた〜中国残留孤児・新資料が語る戦後〜)で取り上げられたように、昭和34年に戦時死亡宣告制度を導入したり、本人に確認もせずに帰国意思なしと決めつけて未帰還者リストから削除して、残留孤児を政治的社会的に「死んだ」ものとし、帰国施策を放棄したという重大な事実はどうして無視されたのでしょうか。

◎4度目の棄民ともいえる非情な判決
 中国残留日本人孤児たちは、1回目は敗戦時に国に棄てられ、2回目は戦時死亡宣告制度などによる帰国政策放棄により棄てられ、そして3回目は帰国後、冷たい政策により国に棄てられました。大阪地裁判決は、孤児たちが最後の希望を託した司法による救済も拒否したもので、何度も国に棄てられた孤児たちに対する非情な判決です。

◎残留孤児の人権回復運動を応援してください
 「孤児たちを不安から救いだそう」(毎日新聞)、「もう置き去りにするな」(朝日新聞)、「さらなる充実した支援を」(産経新聞)
 世論は私たちを応援してくれています。私たちは大阪地裁では敗訴しましたが、残留孤児の窮状を国民の多くのみなさまに知っていただくことができたことを心強く思っています。私たちは、このような不当判決に負けることなく、大阪高裁で必ず正義の判決を獲得するまで頑張りますので、市民のみなさまの温かいご支援をお願いします。ありがとうございました。


大阪訴訟弁護団のホームページ
http://www.geocities.jp/kkosio2000/

中国「残留孤児」国家賠償訴訟 大阪原告団
連絡先 〒590-0113 堺市晴美台4丁目1-4-307

※7月26日、大阪訴訟原告団、弁護団は、7月6日不当判決に対する抗議活動を行いました。
抗議チラシPDF(中国残留孤児in岡山)
http://www.geocities.jp/czk_oka/index.html

「孤児」たちの今は 鈴木賢士

※現在、中国「残留孤児」問題の追及を続けているフォトジャーナリスト、鈴木賢士さんが、「孤児」たちの現在の状況を取材した写真展『父母の国よ』(7月19日〜25日、新宿ニコンサロン http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=61)を開催しています(同名の写真集も発売 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=60)。
 鈴木さんは、取材の中で最も印象的だった孤児・婦人の証言を3回にわたって「日中友好新聞」でレポートされました。

「孤児」たちの今は@
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/70.htm

「孤児」たちの今はA
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/71.htm

「孤児」たちの今はB
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/72.htm


※「残留孤児」の原点を訪ねて
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=62


■7月24日(日)15:00-17:00
作家トークをニコンサロン新宿 マルチファンクションコーナーで開催します

四国新聞社
http://www.shikoku-np.co.jp/news/news.aspx?id=20050723000032

毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/tokyo/news/20050723ddlk13040342000c.html

クローズアップ現代

20日(水)
NHK“クローズアップ現代”(総合テレビPM7:30〜7:56)で

『私は“死亡”していた
 〜中国残留孤児・新資料が語る戦後〜』

が放送されました。
http://www.nhk.or.jp/gendai/

「父母の国よ」 鈴木賢士写真展

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7月19日より、『父母の国よ』鈴木賢士写真展が開催されます。
http://www.nikon-image.com/jpn/activity/salon/exhibition/2005/07_shinjyuku-3.htm

 と き:2005年7月19日(火)〜25日(月)
      10:00〜19:00(最終日は16:00まで)
 ところ:新宿Nikon Salon
      新宿区西新宿1-6-1
      新宿エルタワー28階ニコンプラザ新宿内
 ■7月24日(日)15:00-17:00
 作家トークをニコンサロン新宿 マルチファンクションコーナーで開催します。

※地図はこちら
http://www.nikon-image.com/jpn/activity/salon/map/index.htm#shin

「父母の国よ−中国残留孤児たちはいま」 鈴木賢士(写真・文)が発売となりました。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=60

「残留孤児」の原点を訪ねて 鈴木賢士
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=62

「残留孤児」二世の訴え

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「残留孤児」二世を知って
親の祖国で 人間らしく生きたい

 「ある意味、私たちは日本社会のマイノリティー(少数派)です」。そう話す藤原知秋さん(35)=千葉県在住=は、かつての戦争で中国に置き去りにされた「残留孤児」の二世です。「二世の存在を知ってもらいたい」と藤原さんたち二世は団体の立ち上げを計画。祖国で人間らしく生きる権利を求めた中国「残留孤児」裁判の勝利をめざしています。

■国賠訴訟に立ち上がった藤原知秋さん(35)
 日本に戻った「残留孤児」の家族の多くは、日本政府のきちんとした生活の保障が受けられず、老後を心配しています。藤原さんは「耐えて、耐えて、ここまできたけど、もう耐えられない。私たちの苦労を突き詰めていけば、責任は戦争を始めた政府にある。少しでも政治を変える力になりたい」と話します。

■現実の壁
 藤原さんの母親は一九四三年に中国で生まれました。終戦当時の混乱期、中国人の養父母にあずけられました。

 一九九〇年三月八日、藤原さんは父、母、妹とともに帰国。二十歳のときでした。留学にあこがれる人々が中国国内で増えてきた八〇年代。日本に渡ることに抵抗感はありませんでした。

 「日本に来てから現実の壁にぶつかった」。言葉、仕事、人とのつきあい…。帰国して一、二年のこと。日本語がうまく話せず、「電話のベルが鳴るたびに、家族四人とも心臓が止まるくらいドキドキしていた」。

 日本語に自信が持てるようになったのは大学卒業後でした。両親が話せないことに焦りを感じた時期もありました。しかし外国語の習得は簡単でないと、藤原さんは徐々に理解を示しました。「いまは無理をしないで、子どもの私に聞けばいいと思っています」

 現在は中国語の講師をしています。語学学校で働き始めて半年がたったころ、ストレスで潰瘍(かいよう)性腸炎になってしまいました。「日本に来て初めて“ストレス”という言葉を知った」といいます。

 仕事の合間をぬい、通訳を買って出ています。裁判の傍聴券抽選や厚生労働省、国会前の座り込みなど場面はさまざま。「親の問題のことだから普通の通訳よりもよくわかる。そう思い、自分たち二世が立ち上がった」

 藤原さんと同じ三十代でも日本語がうまく話せない二世もいます。「政府によって多くが農村部に振り分けられ、勉強する機会を奪われた」。中国語の教育も十分でない人たちもいます。十代は日本語しか話せません。

■私の時代
 これまでの運動は多くの市民によって支えられてきました。しかしボランティアのあいだでも高齢化が進んでいます。あるボランティアが藤原さんたちにいいました。「これからはあなたたち自身がたたかわなければならない」―。二世たちも「これからは自分たちだ」と強く感じました。

 活動のなかで、日本の侵略戦争によって被害を受けた中国人の戦後補償裁判をたたかう弁護士と知り合いました。ここでも支援をしています。「中国の原告も同じ戦争被害者。『残留孤児』や強制連行、『慰安婦』に遺棄毒ガスなど、戦後処理という大きなテーマの一つ一つです」

 中国を離れるとき、友達が「日本に住めなかったら帰ってこいよ」といい、笑いながら藤原さんを見送りました。それから十五年。「日本は母の国。中国は父の国。二つを切り離すことはできない。中国と日本を行ったり来たり、両国の橋渡しをしたい」

■言葉のハンディ親は働きづめ 橋本恵子さん(32)埼玉県在住、仮名

 私の父は、生まれて間もないころ中国のハルビン(中国黒龍江省)に置き去りにされました。栄養失調と病気の乳飲み子…。中国の養父母が「育ててあげる」と申し出てくれて生きのびました。

 その後、父は中国の人と結婚し、五人の子どもをつくりました。

 養父母も含め九人家族は、一九八〇年以降に帰国。私は十三歳のときに日本に帰国しました。中学生の年齢に達していましたが、日本語ができないというハンディがあって、小学六年生になりました。

 そこでうけたのは「残留日本人孤児」の子どもということからうけたイジメ。日本語ができないので「中国人。バカ!」とののしられ、ほうきで殴られたりもしました。

 「何で(日本に)つれてきたの」。私はイジメにあうと泣いて親に訴え、困らせました。それは、戦争が残した理不尽な傷跡への怒りだったのかもしれません。

 両親は食べ盛りの子どもを養うため、朝から夜まで残業、残業で働きづめ。長男も高校に進学したかったのにすぐに働き始め家計を助けました。

 「戦争被害は、国民ひとしく受忍しなければならない」と言い放った大阪地裁の判決から、有無を言わさない国家の強権的な冷徹さを思い知らされました。父たちは祖国を恋こがれて帰国しました。みんなが平等で、もっと優しい日本になってほしいと思います。

■「残留孤児」 戦争で中国に置き去り

 一九三二年、中国を侵略した日本は、中国東北部に「満州国」をでっち上げました。そして、一九三六年、二十カ年で百万戸の大量移民計画を決定。国策として日本から「満蒙開拓団」などを送り込みました。その数は一九四五年までに三十二万人余りになりました。

 一九四五年八月、ソ連軍が侵攻すると、軍人とその家族が真っ先に逃げ出して帰国。開拓民は置き去りにされ、集団自決、栄養失調、伝染病などによって多くの人たちが命を失いました。日ソ開戦時に六万人、終戦後に十八万五千人、計二十四万五千人が終戦直後に死亡したと記録(『引き揚げと援護30年の歩み』)されています。「残留孤児」はこうして親を失い、離別し、中国人に引き取られて育てられた人たちです。

 戦後、「孤児」を日本に招いての肉親捜しが始まったのは日中の国交が回復して九年もたった八一年三月になってから。永住帰国が本格化するのは八六年になってからです。

 帰国した「孤児」は、日本で生活するために欠かせない日本語教育と社会教育を十分に受けることなく自立を迫られました。就労の機会を奪われ、就労率は30%、生活保護受給率は六割を超えています。

 「残留日本人孤児」国家賠償訴訟 「孤児」の八割に当たる二千四十三人が東京、大阪など全国各地の十五の地裁に提訴した国家賠償訴訟。六日、大阪地裁の判決は最初の判決となりました。その判決内容は、原告たちが負った精神的な苦痛を受けた被害事実を不十分ながら認めました。しかし、早期に帰国実現をさせる義務の違反もなく、帰国した「孤児」を支援する義務違反もなかったとして、「祖国で人間らしく生きる権利」を求めた原告の訴えを棄却した不当判決です。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-18/2005071810_01_0.html
(2005年7月18日(月)「しんぶん赤旗」より)

「残留孤児」の原点を訪ねて 鈴木賢士

中国東北部、黒龍江省方正県には敗戦後の引き揚げで亡くなった多くの日本人の遺骨を納めた、中国で唯一の「日本人公墓」があります。現在、この公墓と日本人引き揚げの事実をめぐって起きているさまざまな問題について、鈴木賢士さんが現地取材。3回にわたって「日中友好新聞」にレポートされました。

「残留孤児」の原点を訪ねて@
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/63.htm

「残留孤児」の原点を訪ねてA
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/65.htm

「残留孤児」の原点を訪ねてB
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/66.htm


※「孤児」たちの今は
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=69

100万署名推進ニュース(NO.7)

64.pdf(81,569 byte)

中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO7 2005年7月

「4度目の棄民だ!」〜原告の怒り渦巻く                            
全国初判決 大阪訴訟・不当判決!!

 全国15の地方裁判所で2064人の原告が参加している「中国残留日本人孤児訴訟」のTOPを切って7月6日大阪地裁(大鷹一郎裁判長)の判決が言い渡されました。判決は、原告が求めていた国家賠償責任を認めず、棄却するという非情冷酷な不当判決でした。
★国の「早期帰国実現義務」は認め、義務違反を問わず
 判決は、国に「早期帰国実現の義務がある」ことは認めました。しかしその一方で、義務違反は日中国交回復後長期にわたり遅延が続いた場合に限定し、違反は認められないと国側を擁護しました。また1959年の「未帰還者特別措置法(戦時死亡宣告)」に関しても「孤児の帰国を妨害したものとは認められない」として違法性を否定しました。しかし、早期帰国実現義務は、戦後国が一貫して負ってきた義務であり、戦時死亡宣告は早期帰国実現義務違反の典型的一例です。判決はこの点を看過しています。
★「戦争被害一般」として切り捨て、自立支援義務自体を否定
 また判決は、原告が負わされた被害を「戦争被害」一般として切り捨て受忍を求め、帰国後の自立支援義務自体を否定しました。しかし原告が求めているのは、中国「残留日本人孤児」が戦争自体で受けた被害ではなく、戦後日本への帰国があまりにも遅れ、帰国後の生活自立が困難となった深刻な戦後の被害についてでした。判決は、この点をすり替えています。
■ 原告団・弁護団、即座に抗議声明!
 判決に対して、大阪と全国の原告団、弁護団は直ちに「抗議声明」を発表、大阪高裁への控訴を支持し、「全国全ての訴訟勝利のために全力をあげる」と表明しました。

■全国各地から参加、抗議・要請行動を展開
 この事態をうけて、7月6日から8日に掛けて緊急の抗議と要請行動が展開されました。判決当日の6日夜、東京千代田区の日本教育会館で400人が参加し「報告抗議集会」を開催、翌7日早朝から東京地裁、厚生労働省前でビラ撒き、7日・8日の両日は厚生労働省前と国会前で抗議と要請の座り込み行動を、また衆参両院の厚生労働委員に要請行動を展開しました。この行動に、全国の原告団、弁護団、支援組織から多数が参加しました。

マスコミ各紙、原告に「好意的報道」、世論一気に高まる!

 この判決を朝日・毎日・読売・日経・産経・東京・共同通信などマスコミ各紙が一斉に大きく取り上げました。各紙とも共通して「大阪判決」に対して批判的で、原告に好意的な報道でした。朝日・毎日は「社説」で取り上げました。毎日は「苦境を直視し対策を急げ。孤児たちを不安から救い出そう。残された時間は少ない」と報じました。あまりにも非情で、冷酷な「大阪判決」が逆に世論を動かし、孤児問題に対する国民の理解を一気に促進するという皮肉な結果となりました。


国会内集会・衆参議員、秘書62人が参加!

 原告団・弁護団は裁判勝利とともに「政府が孤児問題の抜本的解決を」と要求し、衆参両院の厚生労働委員に対する要請を展開、「孤児政策の誤りと責任を明らかにし孤児に謝罪を」「老後保障の新給付制度の確立を」と訴え、超党派で新たな法律の制定を要求しています。
 7月7日に行なわれた「緊急国会内集会」には全ての政党が参加。中谷元・野田毅(自民)、田中真紀子(民主)、小池晃(共産)、福島瑞穂(社民)の各議員が「新たな法案を含め努力したい」と意思表明しました。当日参加の議員は以下の通りです。敬称略。
 野田毅(衆)・谷公一(衆)・御法川信英(衆)・中谷元(衆)・原田義昭(衆)・松下忠洋(衆)若林正俊(参)・吉村剛太郎(参)以上自民。荒木清寛(参)・沢雄二(参)以上公明。稲見哲男(衆)米澤隆(衆)・辻恵(衆)・和田ひろ子(参)・園田康博(衆)・松岡徹(参)・肥田美代子(衆)・円より子(参)・尾立源幸(参)・石毛^子(衆)・谷博之(参)以上民主。小池晃(参)・吉井英勝(衆)穀田恵二(衆)・井上哲士(参)・吉川春子(参)・小林恵美子(参)・仁比聰平(参)・以上共産。福島瑞穂(参)社民。この他31人の秘書が参加しました。


☆100万署名、85万筆を超える!(2005年7月末現在)

 裁判勝利の世論作りと、国会での「新法案」制定を求めて小泉首相宛に展開されている「中国残留孤児の人間性回復を求める請願署名」は85万5千筆に達しました。昨年10月の42万筆提出に続いて、6月20日34万5千筆を内閣府を通じて小泉首相に提出しました。提出にあたって、原告団・弁護団・支援組織の代表は「こうした世論に応えて、政府が『孤児問題』の全面的解決をを真剣に考えるよう強く求めました。応対した山田哲範内閣府大臣官房総務課調査役は「責任を持って、総理に伝えます」と答えました。

 100万達成へ、さらに大きなご協力を!
 佃俊彦市民連絡会事務局長は「皆さんのご協力に深く感謝します。さらにご支援を強めていただいて早期に100万筆を突破し、政府を動かす力にしていきたい」と語っています。同連絡会では当面8月末達成をめざして奮闘しています。

※署名用紙
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判決説明会

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 7月6日(水)の大阪判決を受けて、関東訴訟の原告団・弁護団は、9日(土)、10日(日)の2日間、都内及び関東各県14か所で判決説明会を行いました。
 
 弁護団より大阪判決についての説明、マスコミ報道等社会の反応の報告、今後の方針の説明等を行った後、質疑応答となりました。

 原告のみなさんからは、大阪不当判決に対する批判の声があがりましたが、敗訴判決に動揺することなく、悔しさをばねに、新たな闘いに向けて団結することを再確認する2日間となりました。

7月7日行動 その1

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 大阪地裁不当判決から一夜明けた7日、
 原告、支援者、弁護士は、午前8時30分から、大阪不当判決への抗議と「孤児」政策の抜本的転換を求めて厚生労働省前、東京地裁・高裁前でビラまき行動を行いました。

 午前11時からは、厚生労働省前で、約200人が座り込みを行いました。
(翌8日には議員会館前で座り込みを行いました)

 午後4時からは、衆院第二議員会館で院内集会を開催しました。

 6日の大阪判決は不当な敗訴判決でしたが、その後の報道等をみれば、世論は「孤児」たちの側にあることは明らかです。不当判決にめげることなく団結してがんばりましょう。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050707-00000218-kyodo-soci

中国残留孤児国賠大阪訴訟弁護団HP
http://www.geocities.jp/kkosio2000/20050707tokyokoudou.html

中国残留孤児in岡山
http://www.geocities.jp/czk_oka/
→What's NEW →7月7日行動

京都原告団 帰国者二・三世のHP
http://www.geocities.jp/genkokusien/7.7-7.10.html

7月7日行動 その2(院内集会)

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 7日夕方、衆院第二議員会館内で院内集会で開催された院内集会には、各党国会議員31名ほか議員秘書、原告、弁護士、支援者ら約150人が出席しました。

 松田大阪原告団長からのあいさつの後、大阪弁護団・西岡団長、久保井事務局長より大阪判決についての報告が、小野寺全国弁連代表より今後の闘いについての話がなされました。
 出席した多くの議員が松田大阪原告団長らの言葉に真摯に耳を傾けて下さいました。

 その後、田中真紀子衆議院議員(元外務大臣)、中谷元衆議院議員(自民党・元防衛庁長官)、福島瑞穂参議院議員(社民党党首)、野田毅衆議院議員(自民党・元自治大臣)、小池晃参議院議員(共産党)、荒木清寛参議院議員(公明党)があいさつに立たれ、それぞれ、「孤児」問題解決のために力を尽くす旨語っていただきました。

不当判決

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 7月6日、全国15地裁で闘われている中国「残留孤児」国賠訴訟で、全国に先駆けて、大阪地裁で判決が言い渡されました。
 原告の請求を全面的に退ける不当判決でした。

 夜には、日本教育会館で判決報告集会が開かれ、全国の原告、弁護団、支援者ら約400人が集まり、不当判決にめげず闘い続ける決意を新たにしました。


判決要旨・全文、各地原告・弁護団声明、大阪判決7・6報道、各新聞社社説など
京都原告団 帰国者二・三世のHP
http://www.geocities.jp/genkokusien/7.6.html

判決要旨、各地声明、日弁連会長談話、各新聞社社説など
中国残留孤児in岡山
http://www.geocities.jp/czk_oka/

判決要旨・全文
中国「残留」日本人孤児京都国家賠償訴訟訴訟弁護団HP
http://www.geocities.jp/zanryukoji2003/

毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20050706k0000e040042000c.html

共同通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050706-00000179-kyodo-soci

全面解決要求書

                     2005(平成17)年7月6日
厚生労働大臣 尾辻秀久 殿


    全 面 解 決 要 求 書       


         中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告団全国連絡会
         中国「残留孤児」国家賠償訴訟弁護団全国連絡会
              

 中国「残留」日本人孤児は、日本の国策である満州移民政策が生み出した犠牲者である。にもかかわらず、日本政府が敗戦以来取ってきた孤児政策は、政策とは言えないほど貧困である。日本政府は、本訴訟を機に、「残留孤児」に対する施策を抜本的に転換し、「孤児問題」の全面解決を図るよう要求する。

1 責任の明確化と謝罪
(1) 早期帰国のための施策をとらずに「残留孤児」を中国に放置し、帰国後も十分な支援策を立案実施しなかったことの責任を認めること。
(2) その結果、「残留孤児」に多大な犠牲を強いたことに対し謝罪すること。

2 生活保障・生活支援
(1) 「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立支援に関する法律」(自立支援法)を改正し、国の責任において「残留孤児」の生活を保障する旨明記すること。
(2) 「残留孤児」の生活保障のため、「残留孤児」を対象とした新たな給付金制度を創設すること。
「残留孤児」が死亡した場合には、遺族年金として、配偶者に継承させること
(3) 残留孤児が、地域で孤立することなく、また安心して医療を受け、住宅を確保できるよう、生活全般にわたる支援制度を整備すること。
(4) 都道府県に1〜2カ所の日本語教育を受けることができる機関を設置すること。
(5) 働く意欲と能力のある者に労働の場を保障すること。

3 二世・三世対策
 下記のような二世・三世の自立を支援する施策を確立すること
(1) 就学・就労の支援を行うこと。
(2) 住宅確保の支援を行うこと。
(3) 国籍取得、在留資格の付与を容易にすること。特に国籍法附則第5条を改正して、女性孤児の子の国籍取得を容易にすること。
(4) 日本語教育の支援を充実すること。
(5) 安易に送還を行わず、残留孤児の家族であることに十分配慮すること。

4 歴史的検証・啓発活動
 具体的には、満州移民政策や引揚政策についての歴史的検証をすること、「残留孤児」が生まれた歴史を教育の場で教えること。

5 損害賠償
(1) 国の政策によって原告ら「残留孤児」が受けた損害を賠償すること。
(2) 訴訟遂行費用を支払うこと。

6 定期協議
「残留孤児」問題の抜本的解決のため、原告団・弁護団と厚生労働大臣が定期的に協議する場を設けること。

7 関連する事項
(1) 残留婦人にも同等の支援政策を行うこと
(2) 在中国「残留孤児」について、家族を分断することなく、希望する者の早期帰国をはかるなど、適切な施策をとること。
(3) 「残留孤児」の養父母について、国として、謝恩の事業など適切な施策をとること。

不当判決に抗議する

              2005年7月6日

  抗議声明

中国「残留日本人孤児」国家賠償大阪訴訟の不当判決について

       中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告団全国連絡会
       中国「残留孤児」国家賠償訴訟弁護団全国連絡会
          
 本日、中国「残留日本人孤児」国家賠償大阪訴訟について、大阪地方裁判所第8民事部において判決が言い渡された。
 全国15の地方裁判所で、2000名を超える「残留日本人孤児」が原告となり提訴している事件の中で、はじめての司法判断である。
 大阪地方裁判所は、中国「残留日本人孤児」が求めていた国の賠償責任を認めず、原告らの請求を棄却する判決をくだした。
 この判断は、「残留日本人孤児」が強いられた苦難の人生と日本に帰国後、普通の日本人として人間らしく生きていくことが困難となっている「残留日本人孤児」たちの生活の実態を無視し、司法の救済を放棄した不当な判断である。
 この判決は、早期帰国実現の義務は認めながら、その義務違反は日中国交回復後に長期にわたり遅延が続いた場合に限定し、違反は認められないとした。しかし、判決も認める早期帰国実現義務は、戦後国が一貫して負ってきた義務であり、戦時死亡宣告制度制定後、国はその義務を誠実に履行してこなかった。判決はこの点を看過したものである。
 また判決は、中国「残留日本人孤児」が負わされた被害を「戦争被害一般」として切り捨てた。私たちが救済を求めているのは、中国「残留日本人孤児」の戦争自体により受けた被害ではなく、戦後日本への帰国があまりに遅れ、帰国後の生活自立が困難となった深刻な戦後の被害である。
 「残留日本人孤児」たちは、1回目は敗戦時に国に棄てられ、2回目は戦時死亡宣告制度などによる帰国政策放棄により棄てられ、そして3回目は帰国後、冷たい政策により国に棄てられた。そして、この司法の判断は、孤児たちを4回目に国が棄てさる非情な判決といわざるをえない。
 私たちは、国民の人権侵害を救済する役割を担う司法が、その責任を放棄したものとして、この判決に対して、強く抗議するものである。
 私たちは、正当な判断を求めて、高等裁判所に控訴するとの現地原告団、弁護団の方針を強く支持するとともに、全国15地裁で展開されている原告団や弁護団が力をあわせて、国の責任を認める判決を獲得するまで闘い続けることを表明する。
 私たちは、本日の大阪地方裁判の判決にかかわらず、政府が、「残留日本人孤児」たちが悲惨な生活実態に置かれていることを直視し、「残留日本人孤児」に対する施策を抜本的に転換し、「孤児問題」の全面解決を図るよう要求する。
 第1に、国の責任を認めて謝罪すること、第2に、国の責任において「残留日本人孤児」の生活保障を行うことを法に明記し、「残留日本人孤児」を対象とした新たな給付金制度を創設することなど、私たちが要求する全面解決要求事項について、政府が原告団、弁護団との間で早急に協議するよう求める。

いよいよ初判決

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日本で暮らす中国「残留孤児」の8割にのぼる2064人が、15地裁で国に賠償を求めた集団訴訟の初めての判決が明日(6日)午前10時15分より、大阪地裁で言い渡されます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050704-00000013-yom-soci

大阪での判決期日の行動計画はこちら
http://www.geocities.jp/genkokusien/7.6osaka.html

東京では、午後6時より日本教育会館にて、判決報告集会を開催します。多くのみなさんのご参加をお待ちしております。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=51


※7月4日、仙台地裁に原告20名が追加提訴し、全国の原告の総数は2064人になりました。
全国の提訴状況(最新)はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/36.htm

要請署名活動ニュース(大阪版)No.6

中国残留孤児国家賠償大阪訴訟 勝訴判決に向けて〜
大阪地裁あて要請署名活動ニュース(大阪版)【bU】2005 年7月2日


中国残留孤児国家賠償訴訟 大阪原告団/大阪弁護団
[事務局]大阪市北区西天満4 丁目6 番18 号 アクセスビル7 階
久保井総合法律事務所 弁護士久保井聡明
電話 06-6365-5128 FAX 06-6365-7737
e-mail zanryukoji@hotmail.com


署名数7万6940筆に!! 心から感謝します!!

 7月1日、第6次集約の要請署名1万5415筆の署名を、松田原告団長らが、大阪地裁に提出してまいりました。7月1日現在、署名総数は、7万6940筆となりました。集約件数にして、600件を越える数になります。3・21集会でのよびかけ以来、3ケ月間という短期間で全国の多数の団体、個人から署名が毎日のように寄せられ、そのひとつひとつにみなさんの熱い思いが込められていることを感じました。この思いが必ず裁判所に伝わっていると思います。大阪原告団・弁護団より御礼申し上げます。ありがとうございました。


[7・6(水)大阪判決日の行動予定]

9:00 大阪弁護士会館前 集合
9:15 判決前集会
9:40 入廷行動
       法廷に入らない原告、支援者は裁判所北門で待機
10:15 判決言い渡し開始
10:40 判決言い渡し終了
11:00 記者会見(司法記者クラブ)
11:00 判決報告集会開始(大阪弁護士会館6階ホール)
12:00 集会終了
      原告団代表が上京
15:00 関東原告団、弁護団とともに中央の関係機関に要請行動
18:00 東京における判決報告集会(日本教育会館)

(7月7日(木)午後4時 院内集会 衆議院第二議員会館)

全国の原告団・支援のみなさまの応援で必ず勝利したいと思います。



[毎日放送テレビ「映像'05」で、中国残留孤児特集番組]

 毎日放送の特集番組「置き去りの60年〜中国残留孤児集団訴訟〜」が6 月12 日(日)の深夜0 時30 分〜1 時30 分に放送されました。
 大阪原告団の松田利男団長や東京原告団の一戸さん、小川さんらの生活や帰国後の苦労などを克明に追い、残留孤児の置かれている厳しい生活実態と救済の必要性を描いたものでした。
「残留孤児は日本人だ!」とのデモのシュプレヒコールが印象的でした。

 映像'05のホームページをご覧ください。
  http://mbs.jp/eizou/index2.html


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No.3 http://www.geocities.jp/genkokusien/5.30osaka.html
No.4 http://www.geocities.jp/genkokusien/6.8osakaNO.4.html
No.5 http://www.geocities.jp/genkokusien/6.23osakaNO.5.html

7・6大阪地裁判決報告集会のお知らせ

 全国15地裁で闘われている中国「残留孤児」国賠訴訟も、いよいよ7月6日に、大阪地裁で最初の判決が言い渡されます。

 そこで、同日、午後6時より、日本教育会館において
 「中国『残留孤児』政策の抜本的転換をめざす
            7・6大阪地裁判決報告集会」
(主催:中国「残留孤児」国賠訴訟原告団、弁護団全国連絡会、
     中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会)

 を開催致します。皆様、是非ご参加下さい。

日時 7月6日(水)午後5時開場、午後6時開始
場所 日本教育会館
    東京都千代田区一ツ橋2‐6‐2
    電話03‐3230‐2833
   http://www.jec.or.jp/koutuu/
 ● 地下鉄都営新宿線・営団半蔵門線神保町駅(A1出口)下車徒歩3分
 ● 地下鉄都営三田線神保町駅(A8出口)下車徒歩5分
 ● 地下鉄都営東西線竹橋駅(北の丸公園側出口)下車徒歩5分
 ● 地下鉄都営東西線九段下駅(6番出口)下車徒歩7分
 ● JR総武線水道橋駅(西口出口)下車徒歩15分
内容 大阪弁護団報告、全国弁護団報告、来賓あいさつ ほか

山形地裁で提訴、原告2000名を超える

6月17日、山形地裁に中国「残留孤児」34名が国家賠償請求訴訟を提起しました。全国で15箇所目の提訴となります。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/46.htm
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/yamagata/news/20050618ddlk06040495000c.html

また、20日には大阪地裁に「孤児」4名が、22日には岡山地裁に1名が、30日には東京地裁に17名が提訴して原告に加わりました。

これで、全国の原告数は2043名となりました(2005年6月30日現在)。
※全国の提訴状況(最新)はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/36.htm

要請署名活動ニュース(大阪版)No.5

中国残留孤児国家賠償大阪訴訟 勝訴判決に向けて〜
大阪地裁あて要請署名活動ニュース(大阪版)【bT】2005 年6月23日


中国残留孤児国家賠償訴訟 大阪原告団/大阪弁護団
[事務局]大阪市北区西天満4 丁目6 番18 号 アクセスビル7 階
久保井総合法律事務所 弁護士久保井聡明
電話 06-6365-5128 FAX 06-6365-7737
e-mail zanryukoji@hotmail.com



 国会議員全国いっせい要請行動 大成功!!
  大阪原告団、東京の議員会館事務所(43名)を訪問し、渾身の被害の訴え

 6月21日、前日の東京での決起集会、デモに参加した大阪原告団(松田利男団長、戸田光雄さん、千野正雄さん)と弁護団は、大阪府選出の衆議院議員や参議院議員の議員会館事務所43名をすべて訪問しました。
 議員ご本人とお会いできて、原告らの訴えを聞いていただけたのは、竹本直一議員(自民、元厚生労働政務官)、北川知克議員(自民、厚生労働委員会理事)、山本孝史議員(民主、参議院厚生労働委員会理事)、辻恵議員(民主、法務委員)、稲見哲男議員(民主)、尾立源幸議員(民主、参議院)、石井郁子議員(共産)、吉井英勝議員(共産)、小林美恵子議員(共産、参議院)の9名でした。
 事前に地元事務所へ訪問する活動をしていたので、面会約束などもスムーズにできました。アポイントなしで訪問したところ、急遽、戻ってきて会っていただけた議員の方もおられ、手応えを感じました。いずれの議員も、残留孤児の深刻な被害に対して理解を示され、「政府の責任で解決するべきことだ」とのご意見もいただきました。
 また、ほかの選挙区の議員についても、野田毅議員(自民、日中協会会長)、坂口力議員(公明、前厚生労働大臣)、谷公一議員(自民、兵庫5区)などにも大阪原告団、弁護団が議員にお会いでき、直接被害の訴えができました。早速、超党派の議員のネットワークをつくりたいとの動きも出始めており、全国から集まった原告たちの一日かけた議員要請行動が静かに国会内に波を立て始めている実感がしてきました。


■6・20全国決起集会で大阪原告団が代表して決意表明

 6月20日、日本教育会館で開催された「中国残留日本人孤児国賠訴訟の勝利をめざす6・20全国総決起集会」には600名の原告や支援者があつまりました。
 冒頭、スライドにより残留孤児の歴史とこれまでの闘いを振り返り その後、全国原告団を代表して宇都宮孝良関東原告団代表のあいさつ、引き続き、7月6日に判決を迎える大阪訴訟の西岡芳樹弁護団長より大阪訴訟の報告、小野寺利孝弁護団全国連絡会代表から全国の訴訟についての報告がなされました。
 続いて、6月23日に東京高裁で判決を迎える強制連行劉連仁裁判の原告劉煥新さん(劉連仁さんのご遺族)より連帯のあいさつがなされました。
 その後、自民党・中谷元衆議院議員(元防衛庁長官)、民主党・山本孝史参議院議員、日本共産党・小池晃参議院議員、社民党党首・福島みずほ参議院議員から、それぞれ激励のあいさつが行われ、また、自民党副幹事長西野陽衆議院議員のメッセージが紹介されました。
 そして、菅原幸助原告団全国連絡会代表相談役からの行動提起が行われた後、壇上で全国原告団の紹介がなされ、最後に全国原告団を代表して大阪原告団の千野正雄さんが力強く決意表明を行い、盛況のうちに閉会となりました。


 第5次要請署名提出!! [合計 6万1525筆に]

 6月23日、全国からの大阪地裁あて署名の追加分1万9055名分を提出しました。
 署名よびかけから3ケ月という短期間で、大きな成果をあげることができました。2週間に1回の提出という行動も予定どおり達成できたことは、全国の原告や支援のみなさまのおかげです。心より感謝いたします。6月20日の集会会場でも、全国の原告団からたくさんの署名の束を託され、「まだ集めているから」と大きな励ましを受けています。
 7月1日(金)に最後の署名提出を行いますので、既に集めていただいている署名は6月30日までにお送りくださるようお願いします。

 全国統一署名も6月20日に内閣府に34万5000筆が提出され、総数82万5000筆と、目標の100万筆まであと一歩です。

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京都原告団 帰国者二・三世のHP
No.2 http://www.geocities.jp/genkokusien/5.15osaka.html
No.3 http://www.geocities.jp/genkokusien/5.30osaka.html
No.4 http://www.geocities.jp/genkokusien/6.8osakaNO.4.html

署名提出・合計82万5000筆(6・20行動 その1)

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 6月20日、清水宏夫・宇都宮孝良(写真)関東原告団代表、菅原幸助原告代表相談役、支援者4名、鈴木經夫関東訴訟弁護団長他弁護士3名が内閣府を訪れ、署名34万5000筆を提出しました。
 署名を提出するにあたり、各原告、支援者、弁護団員は、この署名の意義とそれに込められてた思い等それぞれ述べました。

 これで提出した署名は昨年10月4日に提出した48万筆と併せると、合計82万5000筆となります。100万筆まであと一歩です。引き続きご支援をお願いいたします。

デモ行進(6・20行動 その2)

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署名提出後、午後3時から原告ら約700名が参加して、霞ヶ関周辺をデモ行進しました。

※各地の活動
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050620-00000139-mailo-l46
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050621-00000080-mailo-l20

全国総決起集会(6・20行動 その3)

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夜には、午後6時より、日本教育会館において、

「人間らしく生きる権利を求めて・・・
  中国残留日本人孤児国賠訴訟の勝利をめざす
            6・20全国総決起集会」
(主催:中国「残留孤児」国賠訴訟原告団、弁護団全国連絡会、
   中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会)

が約600名の聴衆を集めて行われました。

 冒頭、スライドにより残留孤児の歴史とこれまでの闘いを振り返り
 その後、全国原告団を代表して宇都宮孝良関東原告団代表のあいさつ、引き続き、7月6日に判決を迎える大阪訴訟の西岡芳樹弁護団長より大阪訴訟の報告、小野寺利孝弁護団全国連絡会代表から全国の訴訟についての報告がなされました。
 続いて、6月23日に東京高裁で判決を迎える強制連行劉連仁裁判の原告劉煥新さん(劉連仁さんのご遺族)より連帯のあいさつがなされました。
 その後、自民党・中谷元衆議院議員(元防衛庁長官・国務大臣)、民主党・山本孝史参議院議員、日本共産党・小池晃参議院議員、社民党党首・福島みずほ参議院議員から、それぞれ激励のあいさつが行われ、また、自民党副幹事長西野あきら衆議院議員のメッセージが紹介されました。
 そして、菅原幸助原告団全国連絡会代表相談役からの行動提起が行われた後、壇上で全国原告団の紹介がなされ(写真)、最後に全国原告団を代表して大阪原告団の千野正雄さんが力強く決意表明を行い、盛況のうちに閉会となりました。

 

6・20行動にご参加を(開会時間変更のお知らせ)

「中国残留日本人孤児」訴訟勝利へ、
運動の飛躍をめざす!6・20行動にご参加を!!

 全国14都道府県で約2000人の中国残留日本人孤児が、日本政府に対して「孤児政策」の誤りを認め、老後を人間らしく生きるための補償制度の確立を求めて起こした訴訟は、7月6日の大阪地裁判決を間近かに控え、新たな転機を迎えようとしています。原告の半数を超える1076人が参加している東京訴訟も重要な局面を迎えます。
 国に「孤児」政策の転換を求める「100万人署名」も71万筆(5月16日現在)を超え国民の支持激励が広がっています。原告団・弁護団・支援団体は、訴訟勝利へ運動の大きな飛躍をめざして、1000人規模の「6・20行動」を展開します。全国各地から、支援団体の方々をはじめ多くのみなさんがご参加いただきますよう呼びかけます。

◇ 6・20行動スケジュール
 ★デモ行進★
PM 2,00 日比谷公園霞門集合
2,30 デモ出発→虎ノ門→新橋→日比谷
 ★決起集会★(日本教育会館)
● 地下鉄 神保町 竹橋 徒歩5分JR 水道橋(新宿側出口)徒歩10分
http://www.jec.or.jp/koutuu/
●PM 5,00 開場 6,00 開会

 ※開会予定時間が変更となりましたので、ご注意下さい。

● スライド上映 原告団報告 弁護団報告
 政党挨拶 決意表明 その他


◇ 6・21行動スケジュール
AM10時から全国会議員に要請行動
集合時間・場所  AM9.30  議員会館前
   
6・20までに「85万」の署名到達を!!
市民連絡会は、「100万人署名」を大阪地裁判決までに達成したいと奮闘しています。そして「6・20」までに85万筆を達成し、昨年10月4日の48万提出に続いて、当日小泉首相宛に「第2次提出」を行なう計画です。急ピッチで署名を推進いただきますよう強く呼びかけます。

(連絡先) 中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
〒141-0022 東京都品川区東五反田1-13-12五反田富士ビル5F 
пEFAX 03-3447-1620

要請署名活動ニュース(大阪版)No.4

中国残留孤児国家賠償大阪訴訟勝訴判決に向けて〜
大阪地裁あて要請署名活動ニュース(大阪版)【bS】2005 年6月8日


中国残留孤児国家賠償訴訟大阪原告団/大阪弁護団
[事務局]大阪市北区西天満4 丁目6 番18 号アクセスビル7 階
久保井総合法律事務所弁護士久保井聡明
電話06-6365-5128 FAX 06-6365-7737
e-mail zanryukoji@hotmail.com



 全面解決要求事項を確認−全国原告団・弁護団合同会議

 6月4日に東京で開催された合同会議で、つぎのとおり合意しました。

◆◆◆◆全面解決要求骨子◆◆◆◆
中国「残留」日本人孤児は、日本の国策である満州移民政策が生み出した犠牲者である。にもかかわらず、日本政府が敗戦以来取ってきた孤児政策は、政策とは言えないほど貧困である。日本政府は、本訴訟を機に、「残留孤児」に対する施策を抜本的に転換し、「孤児問題」の全面解決を図るよう要求する。

      ◆ ◆ ◆ ◆

1 責任の明確化と謝罪
(1) 早期帰国のための施策をとらずに「残留孤児」を中国に放置し、帰国後も十分な支援策を立案実施しなかったことの責任を認めること。
(2) その結果、「残留孤児」に多大な犠牲を強いたことに対し謝罪すること。

2 生活保障・生活支援
(1) 「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立支援に関する法律」(自立支援法)を改正し、国の責任において「残留孤児」の生活を保障する旨明記すること。
(2) 「残留孤児」の生活保障のため、「残留孤児」を対象とした新たな給付金制度を創設すること。
「残留孤児」が死亡した場合には、遺族年金として、配偶者に継承させること。
(3) 残留孤児が、地域で孤立することなく、また安心して医療を受け、住宅を確保できるよう、生活全般にわたる支援制度を整備すること。
(4) 都道府県に1〜2カ所の日本語教育を受けることができる機関を設置すること。
(5) 働く意欲と能力のある者に労働の場を保障すること。

3 二世・三世対策
下記のような二世・三世の自立を支援する施策を確立すること
(1) 就学・就労の支援を行うこと。
(2) 住宅確保の支援を行うこと。
(3) 国籍取得、在留資格の付与を容易にすること。特に国籍法附則第5条を改正して、女性孤児の子の国籍取得を容易にすること。
(4) 日本語教育の支援を充実すること。
(5) 安易に送還を行わず、残留孤児の家族であることに十分配慮すること。

4 歴史的検証・啓発活動
具体的には、満州移民政策や引揚政策についての歴史的検証をすること、「残留孤児」が生まれた歴史を教育の場で教えること。

5 損害賠償
(1) 国の政策によって原告ら「残留孤児」が受けた損害を賠償すること。
(2) 訴訟遂行費用を支払うこと。

6 定期協議
「残留孤児」問題の抜本的解決のため、原告団・弁護団と厚生労働大臣が定期的に協議する場を設けること。

7 関連する事項
(1) 残留婦人にも同等の支援政策を行うこと
(2) 在中国「残留孤児」について、家族を分断することなく、希望する者の早期帰国をはかるなど、適切な施策をとること。
(3) 「残留孤児」の養父母について、国として、謝恩の事業など適切な施策をとること。



 第4次要請署名提出!! [合計4万2470筆に]

 6月7日、第4次集約の要請署名9817名分を大阪地裁に提出してまいりました。これで4万を越えました。集約件数にして360件になります。
 次回(第5次)提出は、6月23日です。引き続き署名よろしくお願いします。



 [大阪訴訟原告団・弁護団34名の国会議員事務所訪問]

大阪原告団では、5月31日から、大阪府選出の衆議院、参議院の国会議員地元事務所の訪問を開始しました。6月8日現在、34名の議員事務所を訪問しました。(大阪府選出議員42名)今のところ、議員本人に面談できたのは2名で、ほとんどは地元秘書の方に応対していただいていますが、長い時間をとって孤児原告の悲痛な訴えを聞いてくださる事務所も多く、手応えも感じます。全国の原告団でも、統一行動として議員訪問に取り組んでいます。



 [大阪原告団地区別学習会終了原告99名が参加]

 5月16日から2週間かけて取り組んできた地区別学習会(6地区)がすべて終了し、原告99名が参加しました。大阪判決にむけて原告団の意思統一を行いました。


 [6月20・21日全国行動の概要!]

 大阪判決を目前に、首都東京においても世論喚起をはかるために、全国決起集会が開催されます。
 ◎6月20日(月)午後2時日比谷公園霞門集合
          午後2時30分デモ出発
          午後6時30分決起集会(日本教育会館)
 ◎6月21日(火)午前9時30分国会議員要請行動(議員会館前集合)
          午前厚生労働委員午後各都道府県選出議員


 [6月12日毎日放送テレビ「映像'05」で、中国残留孤児特集番組が放映されます]

毎日放送の特集番組が6 月12 日(日)の深夜0 時30 分〜1 時30 分に放送されます。これまで松田利男団長を中心に数ヶ月にわたって取材をされてこられました。関西近辺の方は、是非,ご覧下さい。

※大阪地裁要請署名用紙はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/5.pdf

※大阪訴訟・結審
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=12

※バックナンバーはこちら
No.1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=26
No.2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=31
No.3 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=37

東京訴訟・再開

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 本日(6月1日)、東京地方裁判所で、昨年12月22日の原告本人尋問以来半年ぶりに口頭弁論期日が開かれ、弁論更新手続が行われました。
 本来、東京訴訟は、3月23日に結審を迎える予定でしたが、裁判長を含む2名の裁判官が交代したため、本日の弁論更新手続となりました。

 弁論更新手続を行うにあたり、原告2名及び代理人(弁護士)5名により、意見陳述が行われました。

 まず、清水宏夫さん(写真)からは、原告団代表の立場から日本語による意見陳述が行われ、続いて、佐渡開拓団事件の数少ない「生き残り」である紅谷寅夫さんからは通訳を介して中国語で被害の実態等が述べられました。

清水宏夫さん意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/39.htm

紅谷寅夫さん意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/38.htm


 その後、全国弁護団連絡会事務局長である清水洋弁護士は、全国で提起されている「孤児」訴訟の目的とその意味、その中で東京訴訟がもつ意義(「本件訴訟の全国化と東京訴訟の意義」)について、
 井上聡弁護士は、「孤児」が生まれた原因や国の早期帰国義務違反、自立支援義務違反など本件訴訟に係る「事実論」について、
 米倉洋子弁護士は、40名の原告について現在までの立証を踏まえた、「孤児」らがどのように人生を送り、国の行為によっていかなる被害を被ってきたか(「原告らの人生と被害」)について、
 斉藤豊弁護士は、本件訴訟における国の「責任論」について、
 それぞれ述べました。

更新弁論要旨
(本件訴訟の全国化と東京訴訟の意義)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/40.htm

(事実論について)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/41.htm

(原告らの人生と被害について)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/42.htm

 そして、最後に安原幸彦弁護士は、「今後の進行について」述べ、迅速な審理を求めつつ、裁判所がさらに理解を深めるために証人3名(菅原幸助証人の再尋問、坂本龍彦証人、岡部牧夫証人)の尋問とさらなる原告本人尋問を行うよう求めました。
 また、日本語が十分に理解できない原告らの裁判を受ける権利を実質化するために法廷での「同時通訳」を実施するよう求めました。

 次回期日は、8月30日(火)午前10時です。


 7月6日には全国に先駆けて大阪地裁で判決が言い渡されます。この大阪判決の重要性についてはいうまでもありませんが、全国の原告の半数以上である1000名を超える「孤児」が原告となっている東京訴訟の帰趨は、国の政策転換の実現に重大な影響を及ぼすと考えられます。
 引き続き、東京訴訟へのご支援をお願い致します。

全国の提訴状況(仙台地裁で提訴 原告は1987名に)

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5月19日、中国「残留孤児」5名が、国を相手取り、国家賠償請求訴訟を、仙台地裁に起こしました。既に13地裁で訴訟が係属しており、14か所目の提訴となります。

また、同日、福岡地裁では第2次提訴がなされ「孤児」44名が、名古屋地裁では第3次提訴がなされ39名が、
さらに、27日には神戸地裁で第3次提訴がなされ2名が、
それぞれ原告に加わりました。

これで全国の原告数は1987名となりました(2005年5月27日現在)。
※全国の提訴状況(最新)はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/36.htm



※中国残留孤児福岡訴訟のホームページはこちら
http://www.geocities.jp/zanryuufk2004/top.html

※中国「残留孤児」国家賠償請求兵庫訴訟のホームページはこちら
http://www16.ocn.ne.jp/~kojikobe/zanryukojitop.html

要請署名活動ニュース(大阪版)No.3

中国残留孤児国家賠償大阪訴訟勝訴判決に向けて〜
大阪地裁あて要請署名活動ニュース(大阪版)【bR】2005 年5月30日

中国残留孤児国家賠償訴訟大阪原告団/大阪弁護団
[事務局]大阪市北区西天満4 丁目6 番18 号アクセスビル7 階
久保井総合法律事務所弁護士久保井聡明
電話06-6365-5128 FAX 06-6365-7737
e-mail zanryukoji@hotmail.com


 第三次要請署名提出!! [合計3万2653名分]

 5月25日、第三次集約の要請署名2万656名分を大阪地裁に提出してまいりました。これで3万を越えました。集約件数にして250件になります。
 今回は関東原告団をはじめ、全国からの大量の署名が届きました。
 各地から続々と届く署名の集約表をつくっている久保井総合法律事務所の担当事務局が、「署名にひとこと添え書きをしていただいている方をはじめ、ひとつひとつの封筒にこめられた全国の方々の思いを感じながら、まとめています。」と毎日届く署名用紙を整理しています。
 次回(第4次)提出は、6月7日です。引き続き署名よろしくお願いします。

■ 地区別原告学習会始まる
 5月16日から、地区別の原告学習会(全6地区)が始まりました。
 原告のみなさんが集まり、事件の進行のついての理解を深め、判決をどのような視点で評価するのか、などについて弁護団から説明をし、意見交換をしています。
 学習会の前後に餃子会などもあり、楽しいひとときをすごしました。
  5月16日京阪線沿線地区、18日堺泉北地区、20日大阪市西部地区
  24日大阪市東部地区、27日八尾地区、6月1日JR京都線沿線地区

■ 労働組合などへの要請行動実施
 日中友好協会大阪府連(高瀬事務局長)の協力で、車を出してもらい、5月17日、19日と大阪市内の労働組合や民主団体に原告とともに署名要請行動を行いました。
訪問した団体はつぎのとおりです。
 大阪労連/大阪自治労連/全国一般労働組合大阪府本部/大阪医労連
 全司法労働組合大阪支部/国鉄労働組合近畿地区本部/大阪市学校園教職員組合
 大阪市立高等学校教職員組合/大阪教職員組合大阪府立高等学校教職員組合/大阪私学教職員組合/大阪府保険医協会/大阪府歯科保険医協会/新日本婦人の会大阪府本部/日本ユーラシア協会/日本コリア協会/日本国民救援会大阪府本部/大阪革新懇/大阪民主医療機関連合会センター事業団関西事業本部/大阪高齢者生活協同組合

■ [全国の動き]仙台地裁で初提訴!名古屋、福岡、兵庫で追加提訴
 14地裁原告1992名に2000名目前
★ 追加提訴ですが、5月19日に、仙台地裁で初提訴(5名)、福岡で追加提訴(44名)、名古屋で追加提訴(42名)があり、5月27日には、兵庫で2名の追加提訴がありました。これで、14地裁1992名になり、2000名目前です。
 山形でも提訴にむけて準備中です。また仙台地裁の追加提訴も準備されています。
★東京地裁も弁論更新で再開東京地裁も、6月1日に新しい裁判長のもとで弁論更新がなされ、ストップしていた訴訟が動き始めます。

■ 6月20・21日全国行動決まる!
 大阪判決を目前に、首都東京においても世論喚起をはかるために、全国決起集会が開催されます。

 ◎6月20日(月)午後2時日比谷公園霞門集合
          午後2時30分デモ出発
          午後6時30分決起集会(日本教育会館)
 ◎6月21日(火)午前9時30分国会議員要請行動(議員会館前集合)



※大阪地裁要請署名用紙はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=5

※大阪訴訟・結審
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=12

※バックナンバーはこちら
No.1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=26
No.2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=31

要請署名活動ニュース(大阪版)No.2

中国残留孤児国家賠償大阪訴訟 勝訴判決に向けて〜
大阪地裁あて要請署名活動ニュース(大阪版)【bQ】2005年5月15日

中国残留孤児国家賠償訴訟 大阪原告団/大阪弁護団
[事務局]大阪市北区西天満4丁目6番18号 アクセスビル7 階
久保井総合法律事務所 弁護士久保井聡明
電話 06- 6365- 5128 FAX 06- 6365- 7737
e- mail zanryukoji@hotmail.com


第一次,二次集約署名 1万1997名分 大阪地裁に提出!!
(第一次3566名、第二次8431名、合計1万1997名分)

 全国から集めていただいた大阪地裁あての署名ですが、4月23日集約の第一次分3566名分を、4月26日に大阪地裁民事8部に提出してきました。
 提出には、松田原告団長含め9名、弁護団6名が参加し、書記官に提出し、東京に転勤され、判決を書いておられる大鷹一郎裁判長に伝達していただくよう要請しました。
 また5月9日には、第二次集約分8431名分を提出し、合計1万1997筆になりました。
 続々と署名は全国から送付されています。全国のみなさま、よろしくお願いします。第3次提出は、5月25日の予定です。

■ メーデー署名もたくさん集まりました!
 5月1日のメーデーには、大阪原告団は、扇町公園(大阪労連)、大阪城公園(連合大阪)、大仙公園(堺労連)の3会場に原告・支援者約50名、弁護団10名が参加し、ビラ5000枚を配布し、多数の署名ももらいました。
 東京の中央メーデーでは、代々木公園(全労連)、日比谷野外音楽堂(全労協)の2箇所で署名活動が行われ、代々木公園では、原告、支援者、弁護士約140名が署名活動を行い、100万人署名3621筆、大阪署名3839筆を集めました。
 全国でもメーデー署名が取り組まれています。

■ 大阪のビラや署名用紙をつくっていただいた中村道子さん(あらくさタイプ)がJR列車脱線事故で犠牲に。
 大阪原告団が配布するビラや3 ・21集会のしおり、署名用紙などをデザインし印刷していただいていた「あらくさタイプ」という印刷所(藤崎光子さん経営)を親子でやっていた娘さんの中村道子さん(40歳)が、さきのJR 列車脱線事故で犠牲になられました。
 お母さんの藤崎さんは、街頭宣伝活動や3 ・21集会などにも参加してくれる支援者の一人でもあります。娘の道子さんは、いつも明るい声で、ビラのデザインについて打ち合わせをしてくれていました。
 事故の3日前の4月22日(金)にメーデー用のビラのデザインのことで電話でやりとりしたのが最後の会話になり、この残留孤児のビラのデザインが、道子さんの最後の仕事になってしまいました。お母さんの藤崎さん(65 歳)は、残された人生を、JRの企業犯罪の責任の追及にささげると決意され、信楽鉄道列車事故の遺族会や弁護団の協力を得て、活動をはじめておられます。道子さんのご冥福を心からお祈りするとともに、藤崎さんの活動も応援していきたいと思っています。(弁護士 岩田研二郎)

■ 地区別原告団学習会(府内6地区)の開催始まる!
 大阪原告団、弁護団は、昨年9月の連続学習会に続き、5月16日から府内6地区に分けて、原告団学習会を各地で開催します。各学習会20 名程度の話しやすい雰囲気で、原告ひとりひとりとの意見交換を充実させたいと考えています。
 学習会の目的は、7月の大阪地裁判決を控えて、必ず勝利を勝ち取る決意を固めることと、@どのような判決が出ても、原告団が団結して対処していけるように、判決をどのような視点で評価するのか(勝訴と敗訴の視点)、A判決後、原告団として、どのような行動をするのか、役員のみならず、原告全員が行動することの重要性を討議するためです。

■ 労組など団体訪問も
 5月17日、19日の二日間、日中友好協会大阪府連の協力で、車を出してもらい、府内の団体訪問を実施し、署名要請をしてまわる予定です。

■ 国会議員地元事務所の訪問も実施予定
 全国の原告団連絡会で提起されている国会議員の地元事務所訪問も、5月末から6月中旬にかけて実施します。弁護士1名と原告2名のグループで、11コマの登録をして、約40名の全事務所をまわる予定です。

※大阪地裁要請署名用紙はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=5

※バックナンバーはこちら
No.1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=26

街頭署名活動にご協力を!

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東京、神奈川、埼玉、千葉の各原告団は、街頭署名活動(内閣総理大臣宛100万人署名、大阪地裁宛要請署名)に取り組んでいます。

100万人署名の署名数は約70万筆に達しました。7月6日の大阪判決までに100万筆を達成できるよう奮闘しています。
大阪地裁宛署名も5月下旬までに10万筆達成を目標に取り組んでいます。

5月1日(日)メーデーには、東京では、代々木公園(全労連)、日比谷野外音楽堂(全労協)の2箇所で署名活動を行いました。
代々木公園では、原告、支援者、弁護士約140名が署名活動を行い、100万人署名3621筆、大阪署名3839筆を集めました。

東京原告団の今後の街頭署名活動の予定は以下のとおりです。
 5月15日(日)JR高円寺駅南口、JR上野駅公園口
 5月29日(日)JR赤羽駅東口、JR錦糸町駅南口
 6月19日(日)JR高円寺駅南口、東武線浅草駅
 6月26日(日)JR新橋駅鈴ヶ森口、JR錦糸町駅南口
いずれも午前11時〜午後1時

神奈川、埼玉、千葉についても予定が決まり次第お知らせします。


みなさんの暖かいご支援とご協力をお願い致します。


※100万人署名用紙
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=3

※大阪署名用紙
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=5

5・3憲法集会にて

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憲法記念日の5月3日、日比谷公会堂で憲法集会が開催されました。
会場からは人が溢れるほどの盛況ぶりでした。

同集会で、100万人署名の呼びかけ人のお一人であるノンフィクション作家の山崎朋子さんが講演されました。
山崎さんは、ご自身の人生と憲法との関わりについて語られ、アジア女性交流史に目を向けるようになったこと、そして、「大陸の花嫁」の子どもたちである中国「残留孤児」についてお話をされました。
「残留孤児」と呼ばれる人たちがどうして生まれたのか、戦争被害者の中でも最も過酷な境遇に置かれ、中国で苦難の人生を過ごして、やっとの思いで祖国に帰った「孤児」たち、しかし、その「孤児」たちにとってこの日本の社会で生きていくことがどんなに大変であるかについて訴えられ、とても心を打つお話でした。

戦争による悲劇について改めて考えさせられるとともに、敗戦60年を迎える今年こそ、「残留孤児」の奪われた人権、人としての尊厳を回復するための第一歩となる年としなければならないと思いました。


 100万人署名の呼びかけ人は、以下の方々です(敬称略)。

石坂啓(漫画家)、井手孫六(作家)、井上ひさし(作家)、永六輔(放送作家)、衛藤瀋吉(東京大学名誉教授)、加藤登紀子(歌手)、小林カツ代(料理研究家)、坂本龍彦(ジャーナリスト)、佐野洋(作家)、ジェームス三木(脚本家)、新藤兼人(映画監督)、曾徳深(横浜華僑総会会長)、ちばてつや(漫画家)、仲代達也(俳優)、なかにし礼(作家)、羽田澄子(記録映画作家)、林郁(作家)、古谷三敏(漫画家)、山崎朋子(ノンフィクション作家)、山田洋次(映画監督)、渡辺一枝(作家)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=2

最近の動き(2005年4月)

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4月27日 岡 山
岡山地裁で最初の原告本人尋問が実施されました。
http://www.geocities.jp/czk_oka/

4月26日 さいたま
「残留婦人」提訴
東京、埼玉に住む中国「残留婦人」13名がさいたま地裁に国家賠償請求訴訟を提起しました。
(厚労省の見解によれば、残留婦人とは、終戦時13歳以上であった女性のことをいいます)

4月26日 大 阪
公正判決を求める署名第1次提出 
大阪地裁第8民事部に対して、要請署名第一次集約分3566名分が提出されました。
http://www.geocities.jp/genkokusien/4.26osaka.html

4月25日 国 会
南野知恵子法相は25日の衆院決算行政監視委員会で、中国人残留孤児の養子が6歳以上であっても、日本に定住できるように在留資格の取得要件を緩和する方針を表明しました。
法相は「(中国残留孤児の養子で)幼少時から実子同様に育てられ、家族として暮らしてきた人には、入国を一律に認めることを検討する」と述べた。法務省は近く入管難民法に関する告示を改正する。中国残留孤児男性の中国から呼び寄せた妻の子供らが強制退去処分の取り消しを求めた訴訟の控訴審で、福岡高裁が「家族として密接な関係がある」と認定、原告側の逆転勝訴、国敗訴の判決を下し、国が上告を断念したことを受けた措置」
(2005年4月26日 熊本日日新聞 朝刊より)
※福岡高裁判決
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=28

4月21日 京 都
京都地裁で菅原幸助氏に対する証人尋問及び原告本人尋問が実施されました。
http://www.geocities.jp/zanryukoji2003/

映画祭実行委員 大募集!!

25.pdf(85,266 byte)

映画祭の企画・運営に参加しませんか?
 〜3事件ワーキンググループ・戦後60周年映画祭企画へのお誘い〜
今年は被爆・敗戦60周年。戦争による被害とは?加害とは??
映画祭の企画・運営をとおして、みんなで一緒に考えてみませんか?

 *3事件ワーキンググループとは?
中国残留孤児・被爆者・戦後補償 3つの国家賠償訴訟の関係者が集まって、お互いに戦争被害・戦後補償について学びあう場。
 *戦後60周年企画とは?
上記のワーキンググループの意見交換の中で、「戦後60年である2005年、日本政府にきちんとした責任をとらせ、反省を促すため共同の取り組みをしよう」という盛り上がりから出てきた企画。トークショーなどを含む映画祭=「陸の企画」と、ピース・ボートの船に乗り、ピース・ボートと共同で行う講演・ワークショップ=「海の企画」が進行中。

 映画祭実行委員 大募集!!
映画に興味がある人、戦争による被害・加害についてまじめに考えてみたい人、みんなで集まってイベントを盛り上げるのが好きな人…みんな集まれ〜!企画内容もこれから一緒に考えていきましょう。
まずは、実行委員会をのぞきに来てね!

 第3回実行委員会のお知らせ
日時:5月6日(金) 19:00〜
場所:城北法律事務所【JR池袋西口より徒歩1分】
住所 東京都豊島区西池袋1丁目17番10号 池袋プラザビル6階
Tel. 03-3988-4866 Fax. 03-3986-9018
URL http://jyohoku-law.com/index.html
内容:19:00〜 打ち合わせ(具体的内容の検討)
   20:00〜 映画鑑賞*(親睦を深める&映画への愛を再確認)
*上映作品は『同胞(はらから)』(1975年 松竹)
ストーリー:岩手県のとある農村を舞台に、東京の劇団のミュージカルを公演しようとする青年団の活動を描く。
監督:山田洋次
出演:倍賞千恵子、寺尾聰、下条アトム他
会費:500円(飲食代…飲んだり食べたりしながら映画を楽しもう!)

【問合せ先】田場(たば)(城北法律事務所 E-mail:akio-taba1116@nifty.com  Tel. 03-3988-4866

署名のお願い(団体用)

各 組合・団体 御中 
                       2005 年 4月14日

中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟原告団
代 表 池田澄江 清水宏夫 宇都宮孝良
中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟弁護団
団  長     鈴 木  經 夫

夢に見た祖国で普通の日本人として人間らしく生きるために   

中国「残留孤児」の人間性の回復を求める請願署名のお願い 
 
 貴組合・団体のご活動に敬意を表します。
 さて、幼くして中国に残され、40年以上も「残留」を余儀なくされた中国「残留孤児」帰国者 2,400人の約8割1,889人が、東京をはじめとして全国13の地方裁判所へ国家賠償訴訟を提起しており、来る7月6日には大阪地裁で最初の判決が出されます。
 この裁判は、「残留孤児」が「普通の日本人として人間らしく生きる権利」を回復することを求めるものです。
 そのために、国が「残留孤児」を3度も棄てて、普通の日本人として人間らしく生きる道を悉く奪ってきたことに対する謝罪と賠償、「残留孤児」に対する施策の抜本的転換、そして二度と再び自分たちのような戦争の惨禍による悲劇を繰り返さないことを求めています。
 私たちは、この裁判提起にあたり、井上ひさし(作家)仲代達矢(俳優)さんをはじめ20名をこえる著名な方々から「中国『残留孤児』の人間回復の闘いに支えを」と題するアピールを寄せていた
だきました。
 このアピールには、国によって、1度目は敗戦時に旧満州に置き去りにされ、2度目は「戦時死亡宣告」により「死者」にされ、3度目は、帰国できるまで40年以上も待たされたにもかかわらず、帰国後はまともな日本語教育もなされず、自立支援策は無いに等しく、そのため「残留孤児」の約 70%が生活保護を受けざるを得ない状況に追い込まれていること、人並みの老後の保障を求めて11万人もの署名を集めて国会請願を繰り返しましたが、何れも不採択に終わり、「ハンセン病裁判」の闘いに励まされて、やむを得ず裁判に立ち上がったことが記されています。
 そして「残留孤児」の人間回復の闘いをみんなで支えようと呼びかけて頂きました。
 そこで、私たちはこのアピールへの賛同を広く国民の皆さんに呼びかけることに致しました。
 それとともに、国の「残留孤児」に対する政策の誤りを認めさせ、謝罪することと人間らしく生きるにふさわしい補償制度の確立の2点に絞り、内閣総理大臣宛の請願署名に取り組むことになりました。
署名の目標は 100万人ですが、「残留孤児」原告らの街頭署名等により4月現在、約70万筆となっております。
私たちは、来る7月6日の大阪地裁の判決を機に100万人署名をもって、国に対して全面解決を迫る予定です。
 「残留孤児」たちは既に高齢になりつつあります。残されている時間は多くありません。
 平和と人権を擁護し、生活向上のためにご奮闘されている貴組合・団体のご支援・ご協力を心からお願い申し上げます。

 要 請 事 項
1. 100万人請願署名にご協力下さい
⑴ 署名用紙は、取り扱い団体名を入れてコピーして下さい。
(下記の平和フォーラムのホームページからもダウンロードできます。
http://www.peace-forum.com/sensosekinin/zanryukoji-shomei.pdf
⑵ 署名の集約は2005年6月30日までにお願い致します(最終)
⑶ 上部団体は、構成組織への指示・要請をお願いします。
⑷ 署名の送り先・お問い合わせは
  〒141-0022 東京都品川区東五反田1-13-12 五反田富士ビル5F
  五反田法律事務所 пEFax 03-3447-1620 
  中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
2.運動を推進するための募金活動にご協力下さい
 「残留孤児」原告の7割が、生活保護を受けている困窮者です。
 街頭署名などに出掛るための交通費にも困っています。この運動を進めるための募金にもご協力をお願いす。
⑴ カンパ袋を用意致しましたのでご活用ください。
⑵ 団体としての寄付についてもよろしくお願いします。
⑶ 送金先・銀行口座・東京三菱銀行五反田支店 (普)2076999
      郵便振替・00130-0-581422
      受取人・中国残留孤児人間回復運動支援基金
3.機関紙・新聞等でこの問題をアピールしてください。
資料が必要な場合は、上記の「市民連絡会」(пEfax 03-3447-1620) へ請求してくだい。
     (バンフ等をお送りします)

以 上

100万署名推進ニュース(NO.6)

4.pdf(41,066 byte)

中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO6 2005年4月


大阪訴訟が焦点に、全国で初の判決
大阪地裁へ「要請署名」を展開!!

「中国残留日本人孤児訴訟」は、いま全国13の地方裁判所で争われ原告総数は1889人となり、帰国孤児の80%に迫りました。さらに東北でも訴訟準備が進んでおり、間もなく2000人を突破することは確実で、かつてない「大型訴訟」となっています。当初、東京地裁(関東地区)が最も早く審理が進み、結審・判決も早いとされてきましたが、今年2月突然裁判長が転勤となり、新たな裁判長による弁論は6月1日からとなるなど大幅にずれ込むことになりました。
 ☆「大阪訴訟」が急浮上、7月6日「判決」へ!
そのため、3月25日の大阪地裁での最終弁論が全国で最も早い結審となりました。判決も7月6日と決まりました。「大阪訴訟」の判決結果が孤児訴訟全体に大きく影響する事態となって来ました。
 ☆「大阪地裁宛要請署名」急遽展開へ!
この事態をうけて、3月21日緊急の「全国総決起集会」が大阪で開かれ、全国各地の原告・弁護団・支援者800人が参加。大阪訴訟勝利に向けて「大運動を展開する」ことを決めました。その大きな柱として「大阪地裁裁判官宛の要請署名」を展開することを決めました。要請は「貴裁判所で審理されている大阪訴訟において、残留孤児の受けた被害に対する国の損害賠償責任を明確にする判決をなされるよう要請します」となっています。
 ☆5月半ばまでに「10万筆」超す署名に!
大阪弁護団の岩田研二郎弁護士は「この署名は急がなければなりません。裁判官が判定を下す前に少なくとも10万筆以上の署名を提出したいと考えています。連休明け、5月半ばまでに集めていただくよう御願い致します」と呼びかけています。
 ☆100万署名、66万人を突破!(2005年3月末現在)
100万人署名は、2005年3月末現在658,271筆に達しました。東京・神奈川・さいたま・千葉の原告団はこの冬の寒さのなか、毎週街頭・駅頭に立ち署名を呼びかけ、1日平均1000筆を集めています。この行動には毎回日中友好協会都連や日中友好雄鷹会が支援に参加しています。団体では日中友好協会の8万筆をはじめ全農林・私鉄総連・自治体関係の組合・教職員組合や虹の会・国民学校一年生の会などが奮闘しています。また団体への要請訪問も千代田区・新宿区・文京区・三多摩関係自治体労組をほぼ廻り終えその数は450団体になっています。これらの団体から持続的に署名が届いています。千葉でも連絡会を中心に団体訪問を続け千葉土建労組などの大きな協力が寄せられています。これからの団体訪問は中央区・港区を重点に展開されます。
 ☆「大阪署名」とあわせ、引き続くご支援を!
原告団・弁護団・市民連絡会は、「大阪判決の出る夏場が次の大きな山場」と位置付け、「6月末までに100万筆を達成したい」と、改めて各方面に支援強化を呼びかけています。
 ☆署名の輪を全国津々浦々に広げよう!
100万署名を達成するには、関東地区とともに全国すべての地域で署名を飛躍させることが必要です。岡山の2万人をはじめ急速に広がりつつありますが、さらに大きな努力が求められています。全国各地への署名拡大をはじめ皆さまの、あとひとふん張り、ふたふん張りのご尽力に期待致します。

厚労省が「中国帰国者実態調査」

 帰国者の6割が生活保護
厚生労働省は、3月28日、9回目の「中国残留日本人実態調査」を行ないましたが、今回はじめて「帰国者全員」を対象にした調査を行ないました。2003年3月末時点での帰国者約5200人のうち約4100人が回答しました。帰国者の平均年齢は66.2歳。生活保護の受給率は58.0%。帰国10年以内では受給率78.5%と高率です。
 日本語3割が話せない
日本語の理解度は「日常の会話に不便を感じない」が38・4%。「片言の挨拶程度」が26・6%。「全く出来ない」が6・9%。満足に離せない人が30%以上にのぼることが判明しました。
 老後の不安が最大
帰国を後悔している人も11・5%。最大の理由は「老後の不安」55・0%で前回調査の40%から増加した。帰国してよかった(64・5%)と答えた人の理由は「祖国で生活できるようになった」でしたが「老後の不安」は同じでした。今回、中国残留日本人の全員が調査の対象となったのは、孤児訴訟による世論の高まりが背景にあったと考えられます。

(お願い)
@署名簿を「増刷」して多くの署名をお願いします。市民連絡会のHPから署名簿をダウンロードできます。
HPのアドレスはhttp://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=3です。
A集った署名簿は「市民連絡会」にご送付ください。
Bリーフ(無料)を注文してください。送付します。


※大阪地裁要請署名用紙はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=5

※バックナンバーはこちら
NO.5 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=34
NO.4 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=21
NO.3 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=33
NO.2 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=20
NO.1 http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=19

要請署名活動ニュース(大阪版)No.1

中国残留孤児国家賠償大阪訴訟 勝訴判決に向けて〜
大阪地裁あて要請署名活動ニュース(大阪版)   【bP】2005年4月
 
中国残留孤児国家賠償訴訟 大阪原告団/大阪弁護団
[事務局]大阪市北区西天満4丁目6番18号 アクセスビル7階
久保井総合法律事務所 弁護士久保井聡明 
電話 06-6365-5128 FAX 06-6365-7737
e-mail zanryukoji@hotmail.com

 2005年7月6日,大阪訴訟判決へ!大阪第1次訴訟事件(原告32名)が,2005年3月25日に結審しました。判決は,2005年7月6日(水)午前10時15分から言い渡されます。これは,全国で提起されている中国残留孤児訴訟中,最初の判決であり,この判決で勝利することが,全国の孤児問題の解決にとって非常に大きな力となります。今後,大阪訴訟の勝利判決を獲得するために,署名活動を行い,裁判所と世論に訴えていくことは極めて重要です。 

■ 3月21日 全国総決起集会 成功裡に終わる!
大阪訴訟の結審直前に行われた全国総決起集会は,デモ900名,屋内集会823名の原告・支援者・弁護団が集結し,熱い想いを共有しあって,成功裡に終えることができました。全国から駆けつけ,参加してくださった皆さん,ありがとうございました。   デモの終了時間の見込みがくるい、集会の時間が短くなり、参加者のみなさんにご迷惑をおかけしましたことをお詫びします。スライド上映などは好評で、元気がでました。

■ 全国総決起集会で大阪地裁あて要請署名の提起
 その全国総決起集会の中で,大阪弁護団の岩田研二郎弁護士が「大阪地裁に,少なくとも10万筆以上の署名を提出したい。」と呼びかけました。集会の熱気と私たちの熱意を裁判所と社会に伝えるために,今後とも,全国の原告団・支援者・弁護団のみなさんのさらなるご協力と一致団結をお願いいたします。

■ 大鷹裁判長,転任(本件の判決担当は変更なし)
2004年12月25日の第1次訴訟提訴以来,大阪訴訟を担当してきた大鷹一郎裁判長が,結審後の2005年4月1日付で東京の知的財産権高等裁判所に転任となったことが分かりました。しかし,7月に言い渡される大阪第1次訴訟については,これまでどおり大鷹裁判長が判決を担当します。したがって,署名の宛名は「裁判長 大鷹一郎 殿」のままになっています。
 
■ 判決直前まで署名の提出を!
大阪原告団は,全国から集まった署名を早く裁判所に届けようと、2週間に1回の割合で大阪地方裁判所に署名を提出することにしました。したがって、前日までに久保井総合法律事務所に届けてくださると助かります。
2005年4月26日(火) 第1次提出 
     5月10日(火) 第2次提出 
     5月25日(水) 第3次提出  
     6月 7日(火) 第4次提出  
     6月21日(火) 第5次提出
     7月 1日(金) 第6次(最終)提出

■ 他の裁判所の審理状況
 他の裁判所でも着々と審理が進んでいます。
札幌 2月から原告本人尋問開始
東京  6月に裁判所交替による弁論更新
名古屋 12月 坂本龍彦証人尋問 2月 神原義勝証人尋問 3月より原告本人尋問開始   
京都 2月から原告本人尋問開始、 3月 竹内茂樹証人尋問開始、4月 菅原幸助証人
兵庫 3月25日 井出孫六証人尋問、5月から原告本人尋問開始
岡山 4月から原告本人尋問開始

■今後の街頭宣伝活動予定
 個人・団体へ呼びかける以外に,街頭での宣伝・署名活動も行います。
現在、大阪原告団として決まっている行動予定です。
4月9日(土)PM2:00〜3:00 大阪城公園の花見客への宣伝と署名の訴え (実施済み)
5月1日(日)AM8:30〜9:30 大阪メーデー宣伝(大阪城公園,扇町公園)

4月9日花見客宣伝は、いいお天気の中、原告・弁護団・支援者53名が参加して、たくさんの署名をもらい、大成功!

※大阪地裁要請署名用紙はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=5

大阪訴訟・結審

全国13地裁で訴訟が提起されている中国「残留日本人孤児」国家賠償訴訟で、全国に先駆けて、大阪地方裁判所における訴訟が2005年3月25日に審理を終結しました。判決は7月6日に予定されています。「大阪訴訟」の判決結果が孤児訴訟全体に大きく影響します。
大阪訴訟勝利に向けて「大運動を展開する」こととし、その大きな柱として「大阪地裁裁判官宛の要請署名」を展開することとなりました。
みなさんのご協力をお願いいたします。

※傍聴記はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=11

※最終弁論はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=16

※署名用紙はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=5

※自由法曹団通信1161号
http://www.jlaf.jp/tsushin/2005/1161.html#1161-02

市民連絡会・観梅会

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3月26日、原告・帰国者、二世、支援者等が参加して、青梅市梅の公園にて、観梅会を行いました。

市民連絡会・観梅会

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日頃の疲れを癒すとともに、原告・支援者・弁護団の結束を確認し、「残留孤児」の人間性回復のために闘う決意を新たにしました。

大阪裁判を傍聴して

本日(3月25日)、大阪の裁判を傍聴しました。
大変心を打つ原告および弁護士の方々の意見陳述がなされました。あっという間の2時間でした。
はじめに西岡弁護士が具体的な聴き取り経験を紹介しつつ「想像力を働かせて考えてほしい」と裁判所に訴え、「裁判長とほぼ同年齢でゼロからのスタート、キャリアが通用しないことを想像してほしい」と訴えました。
原告のTさんは自分が帰国意思なしと勝手にされていたことの憤りを述べられました。
最終準備書面の概略説明は、その膨大な内容をパワーポイントを使って整理され、3人の弁護士が分りやすい説明をされました。究明カード分析が見事だと思いました。
小野寺先生が全国を代表して、全面解決を図るにふさわしい正義の判決をもとめました。
最後に原告団長が原告を代表して人間らしく生きたい、すでに11人の原告が亡くなった、これ以上待てない、もう見捨てないでほしいと訴えられました。
各意見陳述の後に傍聴席にむけて簡単な中国語の翻訳がありました。原告の皆さんにとって、とても貴重だったと思います。
(2005年3月25日 東京訴訟弁護団・弁護士 宮腰直子)

大阪訴訟・最終弁論

       
             平成17年3月25日

 最   終   弁   論
                 
     弁護団長(原告ら代理人)
          弁 護 士  西  岡  芳  樹

大阪地方裁判所 第8民事部合議2係 御中                

1.私たちは、700ページを越える最終準備書面で、原告らの現在の被害の責任が国にあることを余すことなく論証したと考えています。本日は、私の弁論に続いて、原告Tが大阪原告団副団長として意見陳述します。その後、700ページに及ぶ準備書面について歴史的経緯と責任論を小林徹弁護士、損害論を岩田研二郎弁護士、究明カードについて吉岡良治弁護士がパワーポイントを使用して弁論します。小野寺利孝弁護士からは全国弁護団の立場から弁論があり、松田利男原告団長から意見陳述をし、弁護団事務局長の久保井聡明弁護士から若干の弁論をして原告側の弁論はすべて終わります。

2.ところで、原告本人尋問の前に私は裁判所に対し、想像力を膨らませて原告の陳述を聞いてくださいとお願いしました。それは原告らの人生が私たちの想像を絶するものであり、訴状別表の作成、本人尋問の準備などで通訳を交え5回も10回も話を聞いても、私たち弁護団自身完全に理解しえていないと思ったからです。幸いにも裁判所はそのことを覚えてくださり、努力されたということを洩らされ、私は嬉しく思いました。

3.私は原告番号31番のY・Yさんの陳述録取書の担当でした。Y・Yさんは実の兄によって後に養父母となる中国人に預けられました。実の兄Y・Kさんは日本がサンフランシスコ条約で独立復帰し、中国で留用されていた方が一斉に帰国した昭和28年に帰国しておられます。Y・Yさんの通訳をしてもらっていたのですが、Y・Kさんに直接預けた状況を詳しく聞きたいと考えて事務所に来てもらった時、私のほうからついY・Kさんに「Y・Yさんを預けた状況をお話してもらえますか。」と聞きましたところ、Y・Kさんは一瞬顔つきが変わり、悲しそうな、怖いような顔になり、先生にはお世話になっていますが、先生でも本当のことは分かってもらえないと言われました。

4.裁判所、判決の前にもう一度想像してください。感じてください。ぼろを着て零下20度、30度という寒さを自分の肌で。収容所で隣のチフスにかかった人たちがその場で血の混じった大便を垂れ流す臭気を自分の鼻で。割れガラスの窓を通してビュウビュウ吹く風の音、ゴホンゴホン咳きする音や苦痛の余りの呻き声、空腹でなるお腹の音などを自分の耳で。一日1回高粱が少し浮いているだけの食事のひもじさを自分の胃で。そして、枯れ木のような腕と足にポコンとお腹だけ出ている餓鬼のような子供たちとその横で無気力に死んでいく肉親たちを自分の目で。明日はわが身だと思いながら、死ぬことが怖くなくなる精神構造を。

5.Y・Kさんはそんな中で収容所で死なすよりはましと弟の命と弟に対する切ない思いを中国人に託したのでした。そして、その数日後自らも空腹で倒れているところを中国人に助けられ命を永らえたのです。自分が死ぬか弟が死ぬか、そんな究極場面での選択が中国人に命を託すことであった、それを簡単に「預ける」という言葉で片付けて欲しくないというのが、真意でした。

6.私たちは国の戦争責任を問うているものではありません。戦後一貫した残留孤児に対する国の無策を問うているものです。しかし、原告ら残留孤児の原点がこの地獄絵図にあることは否定しません。法廷で話せなかった原告らも含めて全員の原告らは昨日のことのように逃避行や収容所生活について語ります。いまだ、心の疵が癒えていないからです。

7.「国破れて山河あり」という言葉があります。国は破れても故郷の山や川は変わることなく、人の心を慰め、故郷の人々の暖かい受け容れは、心の傷を癒します。しかし、原告ら残留孤児はそのような経験ができませんでした。異郷であり、日本人に被害感情、敵対感情を持つ中国人の中にとどめ置かれたからです。原告ら残留孤児が速やかに帰国でき、故郷の山や川、人々にそして何よりも祖国に受容されていたなら、今とは全く違った人生になり、あの地獄絵図も悲しみはともないながらも懐かしく思い出すことができたかもしれません。

8.今原告らは帰国しましたが、数十年間のブランクは取り返しがつかず、世の中は変わり親族が判明しない者も多く、判明していても数十年ぶりに逢うため人間関係がまったく変わってしまっていました。そのため、留守家族も必ずしも温かくは迎えてくれませんでした。国も原告らを外国人扱いし身元保証人を要求したり、敗戦時既に成人していた残留邦人が帰国するのと同じようにしか扱いませんでした。原告らは帰国しても心の傷は癒えなかったのです。平成5年、国の同意なく強行帰国した残留婦人たちは、「私たちは日本人です。いつでも日本に帰れるはずです。ところがそれなのに、いくらお願いしても『親族に相談しなさい。』『特別身元引受人が見つかるまでお待ちください。』などと言って帰国させてくださいません。私たちは日中国交回復してからも、そんなことで既に21年も待たされてしまいました。」と陳情した。立場は少し違うが、この叫びは国の未帰還者に対する態度を端的に表現したものと言えます。これでは心の傷は癒えるはずはありません。

9.現在の原告らの生活は日本語が話せず、年老いて既に働く場所はなく、社会から孤立して老後を迎えています。病院にいくにも一々身内の手助けが要り、娯楽、趣味、レジャーなどとは全く無縁の生活、資産も蓄えもなく、収入は生活保護が頼りです。命の恩人である養父母に会うことも墓参りすることもできません。

10.原告らも座してこのような状態になったのではありません。中国で精一杯働き、帰国してからも中国での経験を生かせない単純労働で働くなど精一杯努力してきました。ボランテイアを含めて国会議員や厚生省に働きかけ、議員立法ですが自立支援法を制定させました。11万の署名を集めて国会請願もしました。しかし、いずれも孤児らの期待に応えてくれませんでした。言わば孤児らは行政にも国会にも見放されたのです。

11.今全国で1899名の残留孤児が原告となり、13地裁で国賠訴訟を闘っています。現在、提訴準備中の仙台などを入れると原告は2000名に達するでしょう。

12.裁判官、最後にもう一度想像してみてください。原告らの多数は裁判長と同じくらいの年齢で帰国しました。裁判長が今の年齢で、肩書きも資格も通用しない、資産も蓄えもない、日本でのキャリアは全く考慮されない、そして言葉は全く分からない国たとえばロシアやイランでゼロから生活することを。言葉の通じない国で自分で職を探し働くことがどんなに大変かを。

13.私はこの裁判の冒頭の弁論で国に対し、裁判では原告と被告となっていますが、国は残留孤児を含む国民の保護義務があるのだから、どうすれば残留孤児たちに祖国に帰ってきて良かったと思ってもらえるか一緒に考えましょうと提案しました。しかし、国は先日も進行協議の場で和解の席に着くことすらしないと断言しました。また、法廷での中国訳については、代理人がいるのだから、原告らは裁判所で何をやっているか分からなくてもいいという態度に終始しました。きわめて残念です。

14.大阪の原告団の一人S・Yさんが昨年亡くなられたように原告らの現状は待ったなしの状態で解決が急がれます。この原告たちの願いを受け止めるのは、もうこの裁判所しかないのです。他の裁判所の判決を待っていては遅すぎるのです。最後にこの法廷での菅原証人の証言を援用します。

「残留孤児を、この世界の歴史にもないこの悲劇を救うのはあなたたち裁判官しかいない。」
                        
以 上

3・21(大阪) 全国総決起行動

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全国13地裁で訴訟が提起され、1800名を越える原告が国の責任を明確にするよう求めている中国残留日本人孤児国家賠償訴訟で、全国に先駆けて、大阪地方裁判所における訴訟が2005年3月25日に審理を終結しました。判決は7月6日に予定されています。
結審に先立つ3月21日、必ず大阪地方裁判所において勝利判決を得ることができるよう、全国の原告団・弁護団が大阪に集まり、大阪原告団・弁護団を励まし、勝利をめざす決意を示すために、全国総決起行動が行われ、関東からも100名を越す原告、支援者、弁護士が参加しました。

3・21(大阪) 全国総決起行動

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詳しいご報告は
“京都原告団 帰国者二・三世のホームページ”
http://www.geocities.jp/genkokusien/3-21osaka.html

“中国残留孤児訴訟in岡山”
http://www.geocities.jp/czk_oka/index.html
をご覧下さい。

残留孤児の連れ子退去処分「不当」 原告が逆転勝訴

「残留孤児」の連れ子訴訟(血縁がないのに実子と偽って入国したなどとして在留特別許可が認められず、国から強制退去処分にされたのは不当だとして、処分の取り消しを求めた行政訴訟)で、3月7日、福岡高裁は、原告の請求を棄却した原判決(福岡地裁)を覆し、退去強制処分の取消しました。

同判決は、その理由の中で、中国残留日本人孤児の歴史的問題に触れ、「国策で満州国に入植し、戦後の引き揚げ施策や94年の中国残留邦人帰国促進・自立支援法などが遅きに失した」「過去の国の施策が遠因となり、被害回復措置が遅れたため在留資格を取得できなくなった原告の立場は、在留特別許可の判断にあたって十分に考慮されなければならない」とし、国の「残留孤児」問題に対する施策について批判的に言及しています。

ビューティフルライフ 僕らの中国「残留孤児」支援

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「中国残留孤児」、子供の頃からニュース等で言葉は知っていましたが、ある日残留孤児訴訟の学習会に参加してみると、自分がこの問題の深刻さを知らなかったことに愕然としました。何か自分にできることはあるだろうか、と思ったところへ講師の東京南部の長尾弁護士から劇をやりましょう、との提案があり参加しました。
台本作りのため、原告の方々からこれまでの経緯を伺ったのですが、原告の方々が切々と訴えながら時には涙を流してしまうのを見て、僕らは原告の方々に辛い思いをさせているのではないかと不安になりました。しかし、一通り聞き取りが終わると皆さん一様に、来てくれて嬉しい、たくさんの友人ができた、またぜひ来て下さい、素敵な笑顔を向けてくれ、ほっとしました。
劇は涙あり、ユーモアありでかなり良い出来映えだったと思います。機会があれば何度も上演したいです。
(→『わたしたちなにじんですか』http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=18

美容師のタマゴの友人にこの話をしたところ、自分も何か手伝うことはないか、自分には髪を切ることくらいしかできないが、ぜひ、原告の方々の髪をきれいにして、メイクもしてあげたい! ということから、辛い毎日を送り訴訟も頑張っている原告の方々のヘアメイクやお化粧をきれいにさせてもらうことでほんの一時でも、あの素敵な笑顔を見せてくれたら。
「ビューティフルライフ」、こんなことも企画しています。
(城北法律事務所・黒田 真一)

城北法律事務所ニュースより
http://jyohoku-law.com/news/040801/06.html

ビューティフルライフ

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「ビューティフルライフ」は、早稲田美容専門学校のご協力のもと、2004年9月12日、 2005年1月22日に早稲田美容専門学校の施設をお借りして行われました。
また、2004年11月21日には帰国者まつり(http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=27)のワンコーナーとして行われました。

ビューティフルライフ

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2004年9月12日には、帰国者6名、早稲田美容専門学校先生3名、生徒6名(2年生)、帰国者2世2名、支援者3名、弁護士1名が参加して行われました。

2005年1月22日には帰国者19名、先生3名、生徒12名(1年生6名、2年生6名)、2世2名、支援者5名、弁護士2名が参加しました。

ビューティフルライフ

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担任の先生には、「この企画を生徒から相談されるまでは「孤児」問題をよく知らなかった。自分も関われてとてもよかった。今日参加した生徒たちが卒業しても続けていきたい。私のライフワークにしたい。校長にも相談して、学校として協力できるならもっと協力したい」と言っていただきました。
今後ともこの企画は続けていきたいと思います。

100万署名推進ニュース(NO.5)

中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO5 2005年1月


 2005年、勝利へ展望開く年に!
3月末目標に、100万人署名達成を

新しい年を迎えました。2005年は、裁判勝利と政府の孤児政策転換を迫る運動が「正念場」を迎える年です。市民連絡会と原告団は、新年出足早く活動を開始しました。

☆署名、53万人を突破!(2004年末)
 100万人署名は、2004年12月現在532,379筆に達しました。最も奮闘したのは原告団です。毎月の街頭・駅頭署名を中心に175,366筆を集めています。(東京70,619・神奈川48,774・千葉25,800・さいたま30,173)1月も神奈川・千葉の毎週日曜日の行動をはじめ東京・さいたまでも街頭に立っての行動が展開されています。支援要請訪問した団体・労働組合は500を超えていますが、途切れることなく送付されています。全農林などの国家公務員の労組、私鉄総連、東京都職員組合関係、民主団体(日中友好協会62000余他)、虹の会関係等(18000余)や関東以外の訴訟関係など多数の団体、個人からのものが35万を大きく超えました。ご尽力に深く感謝いたします。
☆3月末達成めざし、引き続きご支援を!
 原告団・弁護団・市民連絡会は、東京地裁訴訟が大詰めを迎える3月を「次の大きな山場」と位置付け、「3月末までに100万筆を達成する」ことを確認し、改めて各方面に支援強化を呼びかけています。こうしたなかで新たな協力も広がっています。自治労東京は傘下の組織に「署名に取り組むよう」通達を発し、年末からそれを携えて東京多摩地区の自治体関係労組訪問を開始しました。市民連絡会世話人会では「立証佼成会に知人がいる。要請してみる」などの新たな分野への運動の広がりをめざす発言もありました。これまでにご協力いただいた団体・個人の方々も引き続きご支援強化を御願い致します。100万署名を達成するためには、後半の活動が決めてです。皆さまの、あとひとふん張り、ふたふん張りのご尽力に期待致します。



 衝撃呼んだ「原告の証言」!

東京地裁の審理では、10月以降「原告尋問」に入り、10月27日・12月22日の法廷では、原告本人の「体験」を中心にした尋問が行われました。22日の証言では、帰国までの国の不誠実な対応と帰国後の冷たい仕打ちが切々と語られました。吉成財幸さんは、帰国者センター退出後の居住地を一方的に決められたことに異議を言ったところ、プレハブ小屋に入れられそうになったことを話ました。藤本淑子さんは、1990年代に厚生省宛に肉親を探して欲しいと手紙を何通も出したが、何の返事ももらえなかったことや、生活保護を受けていることから養母の病気見舞いに中国に行く際に役所から入院証明書を要求された屈辱的な経験を話しました。田中文治さんは、5歳の時目の前で実父が撲殺されたが、それは戦前の日本の侵略政策の「替罪羊(スケープゴート)」と語りました。また、長男、長女家族の帰国旅費が出なかったため家族が分断されたが、自ら仕事を見つけ身元保証人になって呼び寄せたことを話しました。じっと聞いていた裁判官も、時折大きくうなずいていました。被告(国側)の弁護人も原告に質問しましたが、ほとんど枝葉末節に終始しました。
次回は3月23日(水)に開催! 次回は3月23日(水)pm1、00から東京地裁103号で。

 原告団1894人、帰国者の7割以上に!

 10月4日、東京地裁に162人、12月8日に福岡地裁の中国残留日本人孤児32人が新たに提訴を行いました。これで原告団総数は1,894人になり、孤児総数の7割に達しました。内訳は、札幌85・東京1076・長野67・名古屋172・京都106・大阪140・神戸63・岡山22・広島59・高知45・徳島21・福岡32・鹿児島21です。

原告団「新年会」にご参加を!
 原告団の「中国帰国者東京連絡会」(池田澄江会長)は、1月23日に「新年交流会」を開き、運動の盛りあげと裁判勝利の決意を固めます。支援いただいている皆さんのご参加を呼びかけます。
 ◇日時 1月23日(日)pm1、00ー5、00 ◇場所 東京土建練馬支部会館(西武池袋線・都営地下鉄大江戸線・練馬駅下車)※詳細と参加申込は、市民連絡会事務局まで。

 「日中友好楼」支援を呼びかけ〜日中友好協会
 12月5日に放映されたNHKスペシャルは、中国長春市にある「日中友好楼」で、残留孤児を育てた養父母の窮状を伝えました。日本の篤志家によって建てられた「日中友好楼」も老朽化し、養父母も6人しか残っていません。日本に呼び寄せるはずの養父母を、生活保護を受ける環境のため実現しなかった窮状が紹介され、その養父母が電気代にも事欠く苦しい生活を送っています。日中友好協会は、支援募金を呼びかけています。募金は、吉林省人民対外友好協会を通じて渡されます。問い合わせは、日中友好協会へ。03-3234-4700 FAX03-3234-4703

リーフレットを作成
署名推進のために「リーフレット」作成中です。リーフレットは、カラー刷り・「孤児」問題発生の「三回の棄民政策」をはじめ写真も豊富に使用して分かりやすいものにしています。無料です。ご希望があれば、早めに申し込んでください。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/1.jpg
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/2.jpg
 (お願い)「孤児問題学習会」を各地で開いて下さい。弁護団、市民連絡会から講師を派遣します。原告も同行します。経費を無料です。

『わたしたちなにじんですか』(報告)

わたしたちなにじんですか
   〜国に翻弄される人生〜

         東京訴訟弁護団・弁護士 長尾 詩子

 1 はじめに

 中国「残留孤児」国賠訴訟の原告は、街頭で、自分たちの苦労を訴えることができなかった。でも、裁判で勝つためには、中国「残留孤児」の声を聞いたことのない人たちに、原告の味わってきた悲劇・苦労・困難を伝えなければならない。
 では、どう伝えるか?人権交流集会で何をするか?
 −「セリフが決まっている劇なら、日本語が多少できなくても、できるんじゃない?」「うん、それ、いいかも?」「やろう!」。ときわめて安易なやりとりの結果、波瀾万丈(?)の『わたしたちなにじんですか−国に翻弄された人生』は、始まった。


 2 練習裏話

 (1) 聴き取り
 まず、脚本の題材集めという名目で、原告の聴き取り開始。法律事務所職員と残留孤児二世(以下「二世」)、学生が数人ずつチームを作って、原告宅へ話を聞きにいった。合計約15名ほどの原告を、約20名ぐらいの若者が聴き取りをした。聴き取りは、とにかく多くの人に聴き取りに参加してもらうことを目的に、参加者の枠は設けずに出入り自由とした。
 戦争を知らない若者たちが、目の前で満州に捨てられてたった一人で生きぬかなければならなかった原告の話に聞き入った。そして、日本で生まれ育った人以上に、「ふるさと」日本を思い、やっとの思いで帰国した原告が、1カ月3万から5万円で暮らしていることを聞き、知らなかった現実に驚いた。自宅でゆったりと話を聞くうちに、原告から、中国人の夫とのなれそめを聞かされたり、原告と「友だち」になる人もいた。話が終わって、本場中国の手作り餃子をお腹一杯ごちそうになったという人もいた。
 法律事務所職員・二世・学生と、なんの接点もなかった人たちが、聴き取りをして、共通の思いをもって、話をするようになった。
 聴き取り感想交流会では、参加者みんなが、次々と自分が聞き取った話を話した。そして、自分たちが原告の話を聞くことで原告の心のケアができるならば、もっともっと聴き取りを続けたいという声まで出た。
 (2) 脚本
 聴き取り参加者のレポートから、エピソードを抜き出して、脚本を完成。
 元演劇少女の私の手にかかれば、すらすらと脚本第一稿は完成(ちょっと得意!!)。大変だったのは、その後。
 まず、日本語の読めない原告のために、二世の力を借りて、中国語に翻訳。ワードで送ってもらった中国語の原稿は、すべて見事に文字化け。中国語翻訳についてはパソコンが使えないということで、切り張りをして脚本を完成。
 「どう?すごいでしょ?」と自信満々の私を前に、原告は、まず、「6時間話したのにこれしかセリフがないんですか??」が、第一声。
 次ぎに、原告は、一気にではなく、ぽろぽろと、「ここは違う。正しくは……」と中国語で意見。ごめん私は中国語話せないのよと、二世に翻訳してもらう。それをセリフにして、脚本に反映。そうやっても、「やっぱり、ここは違う」との原告からのご指摘。微妙なニュアンスが伝われない……、身をもって言葉が通じない苦労を味わった。
 (3) 練習
 そして、練習。毎回、日曜日、出演者以外15名ぐらいの人が集まって行った。出演者が決まるまでも一大事。特に孫役は最後まで決まらなかった。その間は、まちだ・さがみ法律事務所の鈴木剛弁護士が、「みいちゃんはね……」と代役をした(意外と好評!)。
 練習は、1日に何度も繰り返した。練習会場となった東京南部法律事務所では、毎日曜日、真っ昼間から、「北国の春」やら「ふるさと」が歌われていた。苦労したのは原告が声を合わせて話す箇所。日本語が得手でない原告は、日本語の読み方を覚えるのに必死。日本語ができても、ちょっとずつイントネーションが違う。「私たち、ふるさとに帰りたかった」など4つのセリフを、何度、練習したことか(50回は超えるんじゃないかな)。文字通り前日まで、繰り返し練習した。
 原告桂さんは、おしゃれさんで、練習の時に鮮やかな花模様の上着を着ていて、「これ当日にどうかしら?」と聞いた。祖母役山川さんは、「孤児がそんなきれいなよそ行き服じゃ、生活が苦しいようにみれないわよ!」なんて言っていた(でも、山川さんは、当日、2種類の洋服をもってきて、どっちがいいかしら? なんて、みんなに聞き回っていた)。
 毎日曜日、原告はみんないそいそと集まり、楽しそうに練習していた。いきなり知らない人ばかり集められて出演することになった原告たちだったが、終わるころには、みんな仲良しになっていた。


 3 当 日

 さすが!としかいいようがなかった。
 中国では学校の科目としてお遊戯の時間があったらしい。その成果だと思われるが、原告のみなさんは、他人の前で情感たっぷりに話すことに慣れていて、本番では、練習の何倍も堂々として、自分の言葉で自分の気持ちを訴えている迫力があった。
 練習時から上手かった斉藤さん、田中さんはもちろん、練習時にはちょっとうつむき加減だった桂さんも、あのヒョーキン吉成さんも、練習になかなか参加できなかった吉田さんも、すごい迫力だった。
 劇の後、会場から、「中国語で意味がわからなくても、原告の方の言葉には、迫力があって、気持ちが伝わってきた」という感想があったが、ホント、そのとおりだった。
 中国語のわからない私たちは、「すごい迫力!」と、ただ圧倒されるだけだった。中国語のわかる二世は、「えー、えー、また字幕以外のことを言っているー」と圧倒されたらしい。特に照明を担当していた二世は、字幕を無視してしゃべり続ける原告を見て、照明を切り替えていいのかどうか、パニック状態だったらしい。練習中から、密かに、原告が、本番になって突然、字幕を無視してアドリブで話すのではないか、と心配していたが、その心配は見事的中してしまったのである。
 一部セリフの順番を無視したり、「北国の春」がワンテンポずれっぱなしだったり、細かい失敗はあった。けれど、会場のみなさんに、原告の思いは伝わったのではないだろうか。
 感想交流では、いきなり、「もっと練習すれば上手くなります。上手くなって全国公演してください」というありがたい意見があった。
 二世の友人から誘われて、初めて中国「残留孤児」の話を聞いたという人もいた。子連れのその女性は、子どもにもこういった話を聞かせたいといった。その子どもは、「どうして、あの人たちは中国でも日本でもいじめられるの?」と聞いたという。
 感想の中で通訳をしていた二世が、「私は、自分の母が残留孤児であることが恥ずかしくて、友だちに言ったことがなかった。今日、原告のみなさんが一生懸命生きていた歴史を聞いて、そんな自分が恥ずかしく思った」と涙ながらに訴えた。それに対して、原告の一人が、「あなたたちの親は、中国でも日本人として一生懸命生きてきて、ふるさと日本に帰って、苦しいけれどがんばって暮らしているのよ。私たちの体を流れているのは日本人の血なのよ。親のことを恥ずかしく思わないで……」と答えた。
 ありきたりではない感想交流だった。


 4 さいごに

 3月21日を目標に、原告・二世・法律事務所の職員・学生・若手弁護士で、とにかく劇をするということでがんばってきた。この経験を経て、また、広がりができてきている。5月26日には、劇の再演が決まった。
 若い美容師の協力を得て、希望する原告の髪をカットして、原告のみなさんの髪も心も軽くしようという「ビューティフルライフ」(http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=6)計画もある。
 人権交流集会を一つのきっかけに集まった若者の中で、花見や「踊る★中国語講座」などが行われることになった。この若者パワーで、中国「残留孤児」支援の大きな流れをつくっていきたい。



※以上は、「青年法律家 号外2004・12・1・第12回人権研究交流集会報告集」より転載させていただきました。

※『わたしたちなにじんですか』は、2004年3月21日、第12回人権研究交流集会「いま平和の想像力を!−みんなで世界をつなげよう−」(於:早稲田大学)・中国残留孤児分科会の中で上演されました。
 その後、2004年5月26日には、大塚うたごえ酒場 第6回「平和が一番・憲法9条を守れ!」(於:東京労働会館)、8月7日には、「共生のアジアを!フェスタ8・7」(於:明治学院大学)で再演され好評を博しています。

※脚本はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=17

中国・帰国者まつり

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2004年11月21日、東京土建練馬支部会館において
第1回「中国・帰国者まつり 〜中国「残留孤児」訴訟勝利のために〜」
(主催:帰国者まつり実行委員会
 孤児訴訟原告団、弁護団、日本中国友好協会、日中友好雄鷹会
 国民学校1年生の会、下町人間の会、虹の会、残留孤児2世の会
 法律会計特許一般労組有志  実行委員長:岩佐一)
が行われました。

原告・支援者による演し物を楽しみ、
原告の作る餃子を食べながら原告、支援者、弁護団の交流を深め
訴訟勝利への決意を新たにしました。

また、併せて、写真展「兩个祖国」、
ビューティフルライフ(http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=6
も行われました。

100万署名推進ニュース(NO.4)

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中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO4 2004年10月


10月4日、訴訟勝利・国の政策転換求め
1000人(東京)以上、終日行動を展開

10月4日、中国「残留孤児」原告団・弁護団・市民連絡会は、裁判勝利と日本政府の「孤児政策」の転換を求めて、全国各地で終日「抗議・要請」行動を展開。東京(関東地区)の行動には、激しい雨の中1000人を超す人々が参加し、熱気溢れるものとなりました。

☆帰国孤児の75%(1862人)が「原告」に参加!
午前11時、東京地裁に関東地区第4次追加提訴(126人)が行なわれ、同地裁の原告は1076人に達しました。これによって全国の原告数は1862人となり帰国孤児の75%が提訴しました。 

☆雨中、900人がデモ行進!
正午から、厚生労働省前で集会を開催。午後3時から都内をデモ行進し「国は謝罪しろ」「独自
の老後保障制度をつくれ」「裁判に勝利するぞ」などをシュプレヒコール、都民の支持を訴えました。この行進には、原告と家族・弁護団・支援組織から900人が参加しました。

☆厚生労働委員に要請!
その後、原告・弁護団・支援組織は、衆参両院70人の厚生労働委員に「支援協力」を要請しました。各委員・秘書らが応対し「頑張ってください」「国会でも努力します」と答える委員も沢山いました。

☆小泉首相に、第一次署名48万筆を提出!
これに先立ち、内閣府で「48万人」(第1次分)の署名が提出されました。署名は5000人分を束にして96束、段ボール箱14ケースにのぼる膨大なものでした。この行動には、原告団(池田澄江・宇都宮孝良・清水宏夫の各氏)、弁護団(小野寺利孝・清水洋・鳥海準弁護士)、佃俊彦市民連絡会事務局長、渕上隆同次長、日本中国友好協会、日中友好雄鷹会、虹の会などの代表15人が参加しました。応対した平井信義氏(内閣官房内閣総務官室)は、代表の要請や発言を真剣に聞き「署名は、必ず総理に渡します」と回答し、署名受領のサインをしました。
小野寺弁護団副団長は「国民世論の大きさに謙虚に耳を傾け、要求実現に全力をあげるよう総理に伝えて下さい。100万達成の際には、総理にお会いしたい」と要望しました。


勝利へ意気高く、中央集会

午後6時30分から日比谷公会堂で開かれた「中央集会」には、原告団関係者800人、支援組織・弁護団・一般市民200人、計1000人が参加。「闘いの勝利へ」熱気に溢れた、意気高い集いとなりました。
◇懐かしい「中国」の歌と演奏に、心和む◇
この日、友情出演した東京中国歌舞団が懐かしい中国の歌と演奏を披露、原告の人々は心和むひと時を過しました。
◇裁判勝利へ、確信もって前進しよう◇
安原幸彦弁護団幹事長が「裁判の現状と展望」を報告。「国民の支持は確実に広がっている。確信を持ってさらに前進しよう」と述べると会場を揺るがす拍手が巻き起こりました。続いて、民主党(中津川博郷議員)、日本共産党(緒方靖夫議員)、社会民主党(福島みずほ議員)が激励と連帯の挨拶を行ないました。
◇「団結し必ず勝利を」の決意固める◇
原告を代表して池田澄江さんが「今日は、全国各地でも一斉に統一行動が行なわれています。なかでも東京と大阪の訴訟は、来春結審、判決めざし大きく盛り上がっています。団結して頑張り必ず勝利を勝ち取りましょう」と決意を表明。大きな拍手で締めくくりました。
集会はフィナーレを迎え、日本語と中国語で、“ふるさと”を合唱、熱気のなか閉会しました。

※この日は東京の他、札幌・名古屋・京都・大阪・神戸・岡山・広島・高知などで集会・デモ・街頭署名・団体訪問・自治体首長要請行動などが展開されました。


100万署名達成へさらに大きなご支援を!! 

支援組織で作っている市民連絡会の佃俊彦事務局長(弁護士)は「原告の皆さんの頑張りと、支援団体や個人の熱心なご努力、署名要請に応えていただいた団体の方々のご協力でほぼ半数の署名を集めることが出来ました。有難うございました」と心からの感謝を表明しました。
☆年末を次の山場にして、100万署名達成に引き続くご協力を!
さらに「これからの50万余がもっと大変だと思います。50万達成にご協力いただいた団体・個人の方々が、是非知り合いの組織や知人にも声を掛けていただき、引き続くご協力を心からお願い致します」と訴えています。100万人署名は、来春に掛けて達成するまで続けられます。

◇署名簿の必要な際はお知らせください。
◇原告を呼んで体験を聞く会を開いてください。原告・講師をご紹介します。
◇訴訟資料の必要な際はご要望ください。

100万署名推進ニュース(NO.3)

中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO3 2004年9月


訴訟勝利・国の政策転換求め
10月4日に全国統一行動

 中国「残留孤児」原告団・弁護団・市民連絡会は、裁判勝利と日本政府の「孤児政策」転換を求めて、10月4日(月)に「全国一斉行動」を設定、終日多面的な諸行動を展開します。

 ☆裁判勝利へ第一の山場
 この日の「全国統一行動」を決めたのは、東京地裁(関東地区)の裁判が、9月22日の法廷で国の責任立証を終了し、10月27日からの法廷で原告の損害立証が開始されることから、この時期の運動の第一の山場として世論に大きくアピールするためです。これを関東だけの行動に留めず、訴訟を起こしている全国全ての地域を含む行動として位置付けています。

 ☆政府への要請行動を軸に多面的な行動を設定
 この日は、東京地裁に関東の原告120人が第4次追加提訴(関東の原告数は約1000人に)を行うのを皮切りに、厚生労働省交渉、国会要請デモ、内閣総理大臣面会要求、各政党と70人にのぼる厚労委員への要請、報告決起集会などを終日にわたって展開します。

 ☆100万人署名・第一次分を提出!
 さらにこの日の大きな行動の一つとして、「100万人署名」第一次分を日本政府に提出します。
署名は8月現在、約38万筆寄せられています。市民連絡会は、全国各地の署名を含め、50万筆を提出したいと9月を「署名推進強化の月」として総力をあげることにしています。

 ◇お願いした「署名簿」を埋め尽くして50万達成にご協力下さい。
 ◇提出準備作業上、署名簿は出来る限り9月25日必着でご送付ください。



10月4日の「報告勝利集会」に支援組織あげてのご参加を!!
 
 全国統一行動を締めくくる「報告勝利集会」が10月4日(月)夜開催されます。会場の日比谷公会堂は1500人収容です。原告団、支援団体、弁護団など関係者は総力をあげて参加者を確保し、裁判所と国の政策転換を求める闘いの活路を大きく開きましょう。

 東京中国歌舞団が友情出演!
「報告決起集会」には「東京中国歌舞団」が友情出演し、原告を激励し集会を盛り上げてくれます。東京中国歌舞団は、20年のキャリアを持つプロの歌舞団。中国音楽界の第一線で活躍していた演奏家・歌手・舞踏家などで構成。日本各地で公演する傍ら「中国養父母に感謝する」運動を提唱。下町人間の会などと協力して、「養父母を訪ねる中国ツアーを度々行っています。
 劉錦程団長は「残留孤児の方々のご苦労は良く理解しています。長い間中国で暮らし、日本人ですが中国への郷愁もあると思います。当日は懐かしい中国の唄や最近の中国のヒット曲などを紹介し原告の方々を励ましたいと思います。最後にみんなで“ふるさと”を合唱するのもいいです」と出演料を度外視して協力を約束してくれました。歌手の陽二連(ヤンアーレン)さんは、アニメーション・「ライアンツリーの唄」で見事な歌唱力を見せてくれました。

  中国残留孤児訴訟「報告決起集会」

   ◇ 日 時 10月4日(月)
     PM6,00会場 PM6,30開会

   ◇ 場 所 日比谷公会堂
    ○ 参加費 1000円(原告無料)
    ○ 原告の訴え・激励連帯挨拶
      裁判の現状と展望

     友情出演 東京中国歌舞団

   主催 中国残留孤児訴訟
      原告団 弁護団 市民連絡会

 署名ホットニュース
 ☆原告団街頭署名で奮闘!
 東京・神奈川・埼玉・千葉の原告は、日本中国友好協会、日中友好雄鷹会などの支援を得て、毎週街頭駅頭で署名を展開、これまでに総計10万筆を集めました。9月も「署名の稼ぎ時」と意気込んでいます。
 ☆日本母親大会で4000筆
 8月22日有明コロシアムで開かれた第50回日本母親大会で署名行動、原告と支援団体・弁護団など72人が参加、約一時間で4000余の署名を集めました。参加者12000人の3分の1の協力を得ました。
 ☆虹の会が13000余
 支援組織の日中友好虹の会(香山磐根代表)は、大連会など中国引き揚げの会や、税理士関係、ライオンズクラブなど幅広い分野の協力を得て、13000余の署名を集約、さらに広げています。
 ☆500団体に要請訪問
 日本中国友好協会本部と東京都連と日中友好雄鷹会は千代田・新宿・練馬・杉並・板橋・江戸川・足立・北・墨田・葛飾区などの500の民主団体・労働組合を訪問。署名協力を要請しました。各団体から連日のように署名簿が返送されています。

 ※お願い 「署名ニュース3号」をプリントして多くの方にお渡しください。

100万署名推進ニュース(NO.2)

20.pdf(288,132 byte)

中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO 2 2004年6月


中国「残留孤児」国家賠償訴訟100万人署名
33万人超す、さらに拍車をかけて!

中国「残留孤児」訴訟勝利への国民世論を高め、日本政府の孤児政策転換を求めて展開されている「100万人署名」は、5月末で33万3139筆(内関東地区30万4287筆)に達しました。そのうち「市民連絡会」に寄せられたものが19万6036筆、原告が集めたものが10万8251筆(東京4万5973・神奈川3万1054・さいたま1万5318・千葉1万5906)、全国各地の訴訟関係で集めたもの2万8852筆(札幌1万6200・京都7600・岡山5052)となり第一段階の山である30万筆をクリアしました。「市民連絡会」は、さらに拍車をかけた取り組みを強化し、裁判が大きな山場を迎える10月までに60万に到達させ、年内の100万人突破をめざしています。 

 駅頭・街頭で頑張る原告団!
関東地域(東京・神奈川・千葉・さいたま等)の原告団は、“02年12月の提訴以来平均月2回のペースで主要駅頭や街頭、繁華街で署名活動を続けています。その総計は上記のように10万人を超えました。この行動には、支援組織の日本中国友好協会・日中友好雄鷹会、国民学校1年生の会等からも、毎回多数駆けつけています。メデーでは、東京・千葉・山梨などの会場で200人を超す原告と支援者が署名を展開し1万2500人を集めました。街頭署名は、平均2時間で1000人近い署名が集り、関心の高さが示されています。原告団と支援組織は、今後も粘り強くこの活動を続けます。

◇市民連絡会250超す団体に要請訪問
市民連絡会に参加している、日中友好協会・日中友好雄鷹会・国民学校1年生の会などの支援組織は、原告、弁護団とともに中央・都段階の労働組合、民主団体や千代田区・豊島区・足立区・江東区・杉並区・板橋区・小金井市などの区市段階の労組・民主団体を要請訪問を続けてます。その数は5月末段階で250以上にのぼりました。これに応えて全農林労働組合の4万人をはじめ多くの団体が協力、また大連会など「旧満州」引き揚げ者の会や税理士会、ライオンズクラブなど多方面の協力が広がっています。また日中友好協会など全国に組織を持つ団体の取り組みも次第にテンポをあげ、これらの総計が約20万人に達しています。6月からは、日中友好協会都連が新宿・足立・北・江戸川・中野などの都内各市区を、日中友好雄鷹会が足立・葛飾・江東の各区の諸団体を訪問し、さらに協力の輪を広げます。街頭署名とともに、団体の協力による署名の推進こそ「100万人署名」達成のカギを握っています。
◇「平和・人権・環境フォーラム」なども訪問
また佃俊彦弁護士(市民連絡会事務局長)や永村誠朗氏(元東京地評)らは、「平和・人権・環境フォーラム」本部や傘下の自治労・日教組・水道労組などを訪問し「協力しましょう」との快諾を得ています。連絡会事務所には、各地の自治労などの署名が次々と届き始めています。
◇訴訟参加の原告1700人を超える◇
関東を皮切りに始まった「訴訟」は、次々と各地に広がりその数は1707人(5月末現在)にのぼりました。原告は、関東950、北海道85、長野67、愛知173、京都90、大阪140、兵庫57、岡山16、広島59、徳島4、高知45、鹿児島21の11ケ所に広がり総数は1707人です。今後東北、福岡、香川、沖縄などでも準備されています。「残留孤児」は、約2400人といわれており、訴訟に参加した原告は70%以上になりました。

◆署名をお願いした団体の皆さんへ!◆
◎100万人達成へ、用紙を増刷いただき、引き続き署名にご協力ください。また、募金にもご協力をお願いします。
◎署名、第2次集約は9月末にしています。ご送付は、市民連絡会事務局へ。(第1次集約署名は参議院選挙後に提出の予定です)

裁判の現状と展望
裁判、大きな山場を迎える!!
3月10日と4月28日には、@孤児の帰国を遅らせたこととA帰国後自立支援を怠ったという、国の責任に関する原告側立証として菅原幸助氏と庵谷磐氏の証人尋問を行ないました。お二人とも元孤児全協の理事長を務めた方です。
菅原氏は、戦前憲兵として関東軍関係者を先に引き揚げさせたという自らの経験も踏まえて、戦時死亡宣告制度を立法して帰国を遅らせたこと、帰国後も日本語だけでなく、仕事や住居などあらゆる面で支援策がなかったことを迫力をもって証言しました。庵谷氏はインドシナ難民との比較で残留孤児に対する政策がおざなりであったことを証言しました。
7月7日と9月22日は国側の反証として元孤児対策室長ら2人の尋問になります。裁判は責任立証の大きなヤマ場になります。(佃)  

(お知らせとお願い)
「ニュース2号」を発行しました。お手数ながら、増刷して多くの方にお渡しください。ご意見やご質問は「市民連絡会」事務局まで。(お)

『ああわが祖国よ』

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八朔社より、『ああわが祖国よ−国を訴えた中国残留日本人孤児たち』(大久保真紀・著)発売


大久保真紀[オオクボマキ]
1963年福岡県生まれ。1987年朝日新聞社入社、盛岡、静岡支局、社会部などを経て2002年4月から編集委員

『わたしたちなにじんですか』(脚本)

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『わたしたちなにじんですか−国に翻弄される人生』

★登場人物★
 孫 ・・・・・・ 本多陽子さん
 祖母(祖)・・・ 山川敬子さん
原告・・・・・(桂)桂康恵さん   中国語
        (斉)斉藤弘子さん 日本語
        (田)田中文治さん 中国語
        (照)吉田照也さん 日本語
        (幸)吉成財幸さん 中国語


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
開幕ベル
【照明A】

「陽子ちゃん,大学入学,おめでとう。
 これ,おばあちゃんからのお祝い。」


「おばあちゃん,ありがとう。
 4月から,やっと,
 念願の1人暮らしを始めるわ。」


「そう。よかったわね。
 でもね,おばあちゃんも,お母さんも,
 心配してるから,
 学校がお休みの時ぐらい,帰ってきてね。」


「うん,わかってるって。
 おばあちゃんは,ホント心配性なんだから。」


「そうかもしれないわね。
 おばあちゃんはね,家族が本当に大事なの。
 小さい時,
 お父さんともお母さんとも
 生き別れていたからね。
 家族が別れて暮らすのは,
 なんだか心配なのよ。」


「そうだったね。
 おばあちゃんの気持ちも考えないで,
 心配性だなんて言ってごめんなさい。
 ねえ,今日は久しぶりに
 おばあちゃんのお話を聞かせてよ。」 


「そうね,
 今からもう60年前のことなのよ。
 1945年,日本が戦争に負けた時,
 おばあちゃんは,満州にいたのよ。」


「マンジュウ?何それ?」


「陽子ちゃん,学校で習ったでしょ?
 満州よ。
 満州っていうのはね,
 もう地図には載っていない国なのよ。
 昔,日本が,今の中国に作った国なの。
 そのころ,日本政府は,満州には広い土地があって,
 好きなだけ畑を作ることができて,
 みんなが幸せに暮らせるって宣伝をしていたの。
 それで,おばあちゃん達の家族が住んでいた村では,
 みんなで家族を連れて,
 満州に行こうってことになったの。」


「そういう人達のこと『満州開拓団』
 っていうんでしょ。
 日本から27万人以上の人が行ったって,
 中学校の歴史の時間に習ったわ。
 満州での生活はどうだったの?」


「満州では,
 土地は広いけれどかちかちな土地だったの。
 日本とは全く違う気候だったの。
 そんなところで,畑を作るのは大変だったわ。
 苦労もしたわ。
 でもね,
 家族みんなが一緒に暮らしていた頃は,
 苦労はしても,まだ幸せだったわ。
 でもね,
 中国の農民の人たちは,
 日本人から無理矢理に土地を取り上げられて,
 日本人のことを,とっても怒っていたわ。
 1945年8月15日,日本が戦争に負けると,
 ソ連軍が日本人を襲ってきたの。
 また,地方の暴徒も,鍬や鎌をもって
 『打倒小鬼子』
 といいながら,
 日本人を襲ったの。」


「誰も,おばあちゃん達を守ってくれなかったの?」


「おばあちゃん達は,
 いざという時は日本の軍隊が守ってくれる 
 って聞いていたけれど,
 軍隊は,真っ先に逃げてしまったの。
 だから,開拓団の家族も,
 必死になって逃げたのよ。
 そんななかで,おばあちゃんも,
 家族と生き別れてしまったの。
 8歳の時のことだったわ。
 こんなふうに両親とはぐれた子供が, 
 少なくとも3万人以上はいたといわれているの。
 この子ども達は,中国『残留孤児』
 と言われているの。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・
(効果音 吹雪の音)
【照明B】

「そう」


「そう,私達は捨てられた日本国民です。
 人は私たちのことを,
 残留日本人孤児という。」
 
(一拍おいて)


「私が孤児になったのは,8歳の時。
 父が兵隊にとられ,
 母はその10日後に病気で死んだ。
 だから,
 私には両親はなく,弟と妹を連れて,
 村の人と一緒に,ソ連軍から逃げた。
 途中,中国の匪賊に襲われた。
 銃弾がとぶ中を,妹を背負って,
 必死になって逃げた。
 逃げきれたと思ってほっとした時,
 一緒に逃げていた人から
 『照也,あんたの妹,血が流れているよ。
  もう死んでるよ。』
 と言われてはじめて,
 妹が後ろから銃で撃たれて死んでいたのを知った。
 妹の遺体は,その場に埋めた。」


「それは,
 ソ連軍が開拓団を包囲した時のことでした。
 父は私を背負って,
 九死に一生の思いで逃げました。
 どれぐらい逃げてきたのかもわからず,
 ようやく古城鎮の駅にたどりつきました。
 汽車に乗れば,日本に帰れると思いました。
 しかし,
 汽車に乗ろうとした時,
 『ここに日本人がいる!』
 と誰かが叫びました。
 すると,
 周りから20−30人の中国人がやってきました。
 鎌や鍬,棒を手にした農民達が,
 『日本人を殺せ!』
 と叫んでいました。
 父はその場で縛られ,殴られ,
 とうとう動かなくなりました。
 当時,5歳の私には『死ぬ』
 ということがわかりませんでした。
 大好きだった父が動かなくなり,
 父のもとから離されることが,
 ただ悲しかったです。」
 

「中国での旧正月の頃,
 中国の軍隊が来て,
 私が住んでいた村の日本人の男性,みんな, 
 外に連れ出して,
 バババッと撃ち殺しました。
 バババッと人が倒れ,
 近くの湖の氷を割って,
 死体を落としていました。
 この事件は中国の地名をとって,
 いわゆる通化事件と言います。
 生き残った村の人は,赤い煉瓦の家に集まって,
 オレンジ色の甘い匂いのする飲み物
 が入った湯飲みを
 回して飲んで,倒れました。
 その飲み物は,とってもおいしそうな匂いがしたの。
 だから,
 子供だった私は,はやく飲みたかった。
 でも,
 通りがかった中国の人が,腕をつかんで, 
 その家から連れ出したの。
 後からわかったけれど,
 その飲み物は青酸カリでした。」


「私は5歳。
 私達家族は,他の大勢の日本人と一緒に逃げ,
 牡丹江近くの山の上まで避難しました。
 その夜は,家族みんなで寝ました。
 それなのに,翌朝,目覚めると,
 父も母もいませんでした。
 私は,その場に,たった1人残されたのです。
 私は,必死で,山の上や下を両親を呼んで,
 探しました。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【照明A】

「おばあちゃんは,
 それからたった1人で中国で生きてきたの?」


「中国人に拾われて,その家で,育てられたのよ。
 中国のお父さんお母さんのことを
 『養父母』ってよぶの。
 でもね,
 残留孤児の中には,
 何人もの中国人の家を転々とした人もいたのよ。
 売られたり,食料と交換されたりしたのよ。
 ただね,
 日本政府が中国の人達の土地を取り上げたり,
 戦争中,日本兵が中国の人達に対して
 ひどい行為をしていたから,
 残留孤児は日本人だとわかると,
 『小日本鬼子』,
 つまり小さい日本の鬼の子とよばれて,
 いじめられたの。
 また,文化大革命の時には,
 日本人だというだけで,
 日本のスパイだと言われて,
 迫害されてたの。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【照明B】

「養父母の家は貧しい家でした。
 私は,その家の子供というより,
 単なる労働力でした。
 養父母の子供は靴を履いていましたが,
 私には靴は与えられず,
 いつも裸足でした。
 そして,
 裸足のまま,家畜の世話をさせられていました。
 家に帰ると,
 いつも家族は既に夕食を食べていました。
 食べ残しが私の夕食でした。
 食べ残しがない時,私は何も食べずに,
 お腹をすかせたまま寝るしかありませんでした。」


「私は,2歳の時,
 難民所で病気にかかって
 治療を受けることができなくて,
 小児麻痺にかかってしまいました。
 いくつかの家族に引き取られました。
 私をゴミ箱に捨てたいといった家族もありました。
 最後の家族の養母は妓楼出身の人で, 
 養母は当時若かったので,
 4,5歳だった私を1人家に残して,
 よく遊びに出かけていました。
 養母は私の病気をとてもいやがっていました。
 あのころ,私は,まだ歩くことができませんでした。
 お腹をよく壊していたし,
 家をあちこち汚していました。
 養母はそんな私をいやがり,
 お腹いっぱい食べさせてくれませんでした。
 時々,夜,私を外の鶏の籠の中に入れました。
 私を殴り,
 声を出して泣くことも許してもらえませんでした。
 ある時,
 とうとう私は,首に値札を付けられて,
 市場に売られそうになりました。
 そのときはとても怖かったです。
 そばにいた隣の人が,
 『早く土下座をして,お母さんにお願いしなさい。
  大きくなったらなんでもするから,
  私を売らないでといいなさい。』
 と言いました。
 私は,売られたくなかったから,
 養母の前に土下座をして,
 養母の脚にすがり,
 泣きながら必死になって頼みました。
 『おかあさん,私を売らないでください。
  もうウンコをしないから・・・』。
 その言葉が養母の心を動かしたようで,
 彼女も目頭を熱くして,私を家に連れ帰り
 『仕方ないね。
  私はもともとおまえの面倒をみなければならない
  運命なんだろうね。』
 と言いました。」


「中国の文化大革命の時は,
 私は日本人だということは知られていたので,
 いつ捕まるかとびくびくしていました。
 自宅に鉄砲の弾の入った封筒がきて,
 殺されると怯えたこともありました。
 自分の名前が,斉藤弘子だということは
 覚えていました。
 けれど,
 日本の名前は捨てないと中国では生きていけない
 と思っていました。
 中国では,日本人だったから,
 小学校の先生として人の倍は働きました。」


「近所の子供には,『日本鬼子』
 とよばれ,いじめられた。
 でも,
 私の養父は優しかった。
 中国人だったけれど,子供の私には罪はないと,
 日本人の私をかばってくれた。
 優しく大事に育ててくれた。
 養父がきちんと教育をうけさせてくれたので, 
 私は,体育学校の校長先生になることができました。
 中国では幸せに暮らしていました。
 1985年,
 残留孤児の小説を書くために中国に取材に来た
 山崎豊子さんに会いました。
 『あなたは日本人だから,
  日本に帰りたいと思いませんか』
 と聞かれました。
 そして,
 私は,生まれて初めて,声に出して,
 『日本に帰りたい』
 と言いました。」


「養父母にも友達にも,
 『小日本鬼子』といっていじめられました。
 私が安心して眠ることができたのは,
 収穫したトウモロコシを保存する倉庫や
 薪置き場か墓地でした。
 誰も助けてくれない日々の中,
 『日本に帰ることさえできれば,
  いじめられない生活がまっている。』と,
 あの時はいつも思っていました。
 それだけが,私の心の支えでした。」

【歌】  北国の春
    白樺 青空 南風
    こぶし咲くあの丘 北国の
    ああ北国の春
    季節が都会ではわからないだろうと 
    届いたおふくろの 小さな包み
    あのふるさとへ かえろかな かえろうかな


「私達,ふるさとに帰りたかった!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

【照明A】

「おばあちゃん,
 本当に日本に帰ってこれてよかったね。」


「そうだね。
 日本にずーっと帰りたかったからね。」 


「中国残留孤児の人達は,
 いつ頃から,日本に帰ってきたの?」


「政府が訪日調査を始めたのは,1981年,
 日本と中国が国交を回復してから9年後だったの。
 つまり,
 戦争が終わってから,
 36年も経ってからだったの。
 終戦時8歳の子供だった私も,
 帰ってきた時はもう50歳になっていたの。
 日本に帰ってきた時は,本当に嬉しかったわ。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【照明B】

「日本に帰ることには不安もあったけれど,
 中国人の夫が
 『帰りたいなら,一緒に帰ろう』
 と言ってくれたんです。
 だから,一緒に帰ってこられました。
 帰国した時,ふるさとに戻ってきたと,
 とてもうれしかった。
 初めて,お姉さんに会いました。
 会う前に,はじめて,
 『おねえさん』と『おにいさん』
 という日本語を覚えたんです。」


「北海道から兄さんらしい人が来てくれました。
 でも,
 そのお嫁さんの反対で
 一緒に住めませんでした。
 悲しかったけれど,
 私は,日本語ができないから,
 一緒に生活したら
 お兄さんに迷惑をかけるかもしれない
 と思いました。
 だから, 
 仕方がないと思いました。」
 

「訪日調査で日本を訪れて,
 祖国の美しさ,繁栄と発展を見て,
 誇りに思いました。
 中国では,家もあり,
 それなりの地位も名誉も手に入れていましたが,
 私は日本人だから,自分の祖国に帰って暮らしたい
 と思って,帰国しました。」


「中国の家族は日本に帰国することに反対しました。
 でも,日本の説明会で
 慣れるまでの生活は日本政府が面倒をみてくれる
 と言ったので, 
 家族を説得して,帰ってきたのです。」   

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【照明A】

「そういえば,NHKで『大地の子』がやってたよね。
 あれは,おばあちゃんたちの話だったんだね。
 幸せなラストで,私,泣いちゃったわ。」


「でもね,
 中国残留孤児は,今,そんなに幸せではないんだよ。
 残留孤児は, 
 50歳ぐらいになって日本に帰って来た人が多くて,
 日本語が十分に話せない人が多いの。
 それでも,
 みんな一生懸命だったのよ。
 だけど,
 言葉の壁があって,きつい仕事で,
 給料の安い仕事しかなかったの。
 そして,
 60歳になると,
 日本で働いた期間が短いからといって,
 少ない年金しかもらえないの。
 いくら,中国では,一生懸命働いたと言っても,
 だめなのよ。
 だから,
 今,残留孤児は約2400人いるけれど,
 その70%が生活保護をうけて,生活するしかなくて,
 とっても,苦労しているのよ。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【照明B】

「日本に帰国した時,私は44歳。
 日本語がわからなくて不安だった。
 言葉がわからなかったから,
 病気で仕事を休みたい
 という電話をすることもできなかった。
 そしたら,
 無断欠勤扱いにされてしまった。
 職場では,道具の名前がわからないから
 役立たずのように扱われる。
 吉田という名前を呼んでくれない。
 『おいおい中国』という。
 悔しい。」


「帰国後,まもなく,
 中国に残した子ども達を日本に呼び寄せました。
 しかし,
 言葉が通じなくて働けないから,お金もなくて,
 団地の小さな一室に
 家族9人,3世代で住んでいました。
 孫は,押入で寝ていました。
 窮屈だし,
 ずっとこのまま生活していくのかと不安でした。
 働かなければ生活できないと思って,
 酒屋でお酒を運ぶ仕事を始めました。
 今,定年になって退職しました。
 年金は5万9千円。
 これでは生活ができません。
 老後の生活の保障がなくて,
 日本の国は,
 私達を日本人だと思っていないのではないか
 と思います。」


「日本に来て2年目のある日, 
 市役所の人がやってきました。
 1時間ぐらいバスに乗り,
 採石場に連れていかれました。
 作業服を渡されて,
 『明日からここで働きなさい』
 と言われました。
 しかし,
 私は断りました。
 働けば自立できると思いましたが,
 どんな仕事がしたいのか
 聞いてもらえなかったからです。
 まるで,私を『やっかいもののお荷物』
 と見ているようでした。
 その後,いくつか仕事を転々をしましたが,
 いずれも体力を使う仕事でした。
 日本語がわからなくて,
 よく現場の人と喧嘩をしていました。
 日本に来てからたくさん喧嘩をしました。
 私は喧嘩は嫌い,戦争は嫌いです。
 もし,50年前のあの戦争がなければ,
 私たちは親と離ればなれになることはなく,
 今の苦しさもなかったのです。」


「近所の人たちは,私には,とても優しかったです。
 時々,『あなたは,何人ですか』と聞かれます。
 私は,本当はもっと近所の人たちと
 いろんな話がしたいのです。
 戦争の時,中国に捨てられたこと,
 中国での暮らしについて話してみたいのです。 
 近所の人ともっと友達になりたいのです。
 でも,
 うまく話ができません。
 病院に行く時も,
 自分の症状をうまく伝えられません。
 本当につらいです。
 口があっても言うことができません。
 目があっても,読むことができません。
 耳があっても聞くことができません。
 私はまるっきりの障害者です。
 今の障害者年金は月6万5千円。
 私のような体では仕事もできないし,
 老後の生活についてとても不安です。」


「私の年金は月額2万4千円。
 夫は,1万5千円。
 2人合わせて3万9千円。
 これでは,生活ができません。
 だから,
 すごく不安です。
 私達日本人なのに,
 どうして
 他の日本人と同じような生活ができないんですか。
 それは,私達のせいですか。」


「私達,中国では,日本人と言われ,
 いじめられた。苦労もした。」


「でも, 
 ふるさとに帰ってきても,
 日本人にはなれない。
 日本政府は,冷たい。」


「私たち,なにじんですか。」


「私たち,なにじんですか。」 

(一拍)

田 
「そして,私達は,
 あと数年の老後を穏やかに暮らせるように,
 日本に帰ってよかったと思えるように,
 老後の生活保障を求める署名を集め始めました。
 でも,日本語がうまくできないから, 
 署名してもらうのは大変。」 

桂 
「日本では私たち残留孤児のことを
 何も知らない人がまだたくさんいます。
 『残留孤児ってなんですか』
 と言われてがっかりすることもあります。
 ある時,
 私が街頭で署名運動に参加した時のことですが,
 戦争を体験しているはずの70歳ぐらいの方に
 署名をお願いしたところ, 
 その方はしばらく署名用紙をみて
 『お金がほしいのですか』
 と言い,
 そのあと何もいわずにいってしまい,
 署名もしてくれませんでした。
 私はとても理解できませんでした。
 もっと多くの人達に,
 私たち残留孤児のことを知って欲しいです。
 私たちは戦争の時,親と離ればなれになり,
 やっとの思いで生き残り,中国で育ちました。
 みなさんは,そんなことを想像できますか。」


「そして,私達は,裁判を始めました。」


「裁判の場で,
 多くの人に私達の苦難を話せてよかった。
 話せて気分が楽になった。
 裁判に勝利するまで頑張りたい。」


「国を訴えることは自分の両親を訴えるようで,
 とてもつらい。
 でも,
 私達残留孤児は,老後の生活を穏やかに送りたい。
 そのために,やむをえない
 という思いで裁判を続けています。」


「私たち,
 ふるさとに帰ってきてよかったと思いたい。」

                            
【歌】    ふるさと
     兎追いし   かの山
     小鮒釣りし  かの川
     夢は今も   めぐりて
     忘れがたき  ふるさと

【照明アウト】

「報告」はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=18

100万署名推進ニュース(NO.1)

19.pdf(310,279 byte)

中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO1  2004年2月



中国「残留孤児」国家賠償訴訟の勝利へ
100万人署名で世論の盛り上げを!

国家による3回の「棄民政策」によって、人間性を奪われた東京関東の中国「残留孤児」の皆さんが2002年12月20日、日本政府を相手取って「国家賠償訴訟」を起こしてから1年余が経ちました。これに励まされ、鹿児島・広島・名古屋・京都・徳島・高知・札幌・大阪・で相次いで控訴、現在1502人(全体の61%)が原告団に参加、未曽有の大型訴訟に発展しています。(岡山・福岡・兵庫・長野も続く予定)。弁論は、既に6回行なわれ、3月10日には証人尋問が行なわれます。

★訴訟支援と政府の政策転換求め100万人署名を展開
弁護団と支援組織の「市民連絡会」は、裁判支援と、日本政府の「残留孤児」政策の転換を求めて内閣総理大臣宛の請願署名に取り組んでいます。署名は2つのことを要求しています。
第一は、「国は、中国『残留孤児』に対してとってきた長年の政策の誤りを認め『孤児』に対して謝罪すること。第二は、「国は、『孤児』に対し、残された人生を人間らしく生きるにふさわしい補償制度を確立すること〜です。
 署名到達数は約15万人。100万へ、これからが正念場
署名は、東京・神奈川・千葉・さいたまの原告団を中心にした平均週一回の「街頭署名」と、市民連絡会を中心にした「団体訪問署名」の二つを柱にして取り組まれています。

☆原告団が奮闘!
原告団は、東京・横浜・千葉・埼玉のJRや私鉄の駅頭や、中華街・山下公園・東京ディズニーランド・西新井大師などの繁華街で2時間〜3時間の奮闘。一回平均1000人の署名が寄せられています。これまでに、原告団の集めた署名は概数で、東京30000、神奈川29000、千葉12000、さいたま9000となっています。2月〜3月に掛けては、日本中国友好協会東京都連が都内6箇所で駅頭署名を計画、原告団も多数参加し「大街頭署名行動」が展開されます。
 
☆市民連絡会、150団体を要請訪問
市民連絡会の日本中国友好協会・国民学校一年生の会・日中友好雄鷹会と弁護団・原告は組を作って、昨年11月から中央・都段階の平和民主団体・市民団体の大部分を訪問、2004年になってからは千代田区・足立区などの区段階の労働組合や民主団体を連日訪問し協力をお願いしています。これまでに多数の署名が寄せられています。全日本民主医療機関連合会、全司法労組、全国生協労連、全国保険医団体連合会、全国私学教員組合、新日本婦人の会、国民救援会などは全国組織に通達や署名簿を送付し協力を呼びかけてくれました。東京母親連絡会は、大会で原告の特別発言に協力、多数の署名が集まりました。

☆平和・人権・環境フォーラムにも
永村誠朗氏(元東京地評)と佃俊彦事務局長は、「平和・人権・環境フォ−ラム」・全労協・全労連などの中央組織を訪問し協力を要請しました。 訪問した殆どの団体や労働組合では、熱心に応対、激励をいただきました。

◆署名をお願いした団体の皆さんへ!◆
◎署名簿を「増し刷り」するなど、是非署名にご協力ください。また、募金にもご協力をお願いします。
◎署名、第一次集約は3月末、第二次集約は5月15日にしています。ご送付は、市民連絡会事務局へ。(5月末第一次提出予定)

年内100万人達成めざし、全力で頑張ります!

裁判の現状と展望
一昨年12月に提訴した東京訴訟に続いて、昨年、京都や大阪など全国8ヵ所の裁判所で裁判が起こされました。原告団は1500人を上回り「残留孤児」訴訟のうねりが全国に広がっています。東京訴訟は3月から原告側立証の証人尋問に入り、いよいよ山場を迎えます。国は「残留孤児」を生んだ原因は、ソ連軍の参戦にある、戦争犠牲者は全員が甘受すべきもの、などと反論しています。
このような誤った主張を許さないためにも、100万人署名による広範な国民の支援が不可欠です。(弁護団 佃俊彦)  
                                 
中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会とは・・・
※現在の構成団体は、日本中国友好協会(伊藤敬一会長)、国民学校一年生の会、日中友好雄鷹会、下町人間の会、中国残留孤児支援する会などで構成されています。

(お知らせとお願い)
「残留孤児」訴訟支援100万人署名推進のために、定期的に情報を提供するため「ニュース」を発行することにしました。お手数ながら、増刷して多くの方に
お渡しください。ご意見やご質問は「市民連絡会」事務局まで。(お)

署名用紙(100万人署名)

3.pdf(68,044 byte)

内閣総理大臣宛
中国残留孤児の人間性の回復を求める請願署名です。
PDFファイルをダウンロードして、プリントしてご利用ください。よろしくお願いします。

中国「残留孤児」の人間回復を求める市民連絡会
〒141-0022
東京都品川区東五反田1-13-2
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五反田法律事務所
TEL/FAX 03-3447-1620